【景斗side】
彼女と別れてから、俺は角を曲がったところで立ち止まった。
カバンの中から、小さなスケッチブックを取り出す。どこへ行くときも、必ず持ち歩いている。
描きたいものを、素直に描ける場所は紙の上だけだった。小学生の頃に気づいてから、ずっとそうしてきた。
親の前では、常に「西園寺家の跡取り」でいなければならなかった。
感情を見せれば、すぐに「跡取りとしてふさわしくない」とたしなめられる。
だから言葉の代わりに、線を使うようになった。紙の上なら、誰にも何も言われないから。
俺は、鉛筆を走らせる。
夜の空の色。街路樹の影。それから──気づいたら、今日行ったカフェのカップを二つ分、描いていた。
今日の「如月さん」を線で描くとしたら、どう描くだろう。
整った輪郭に、丁寧な言葉遣い。確かにお嬢様だ。
だけど、メイクの話をしたときの彼女は、他とは違っていた。
瞳が少しだけ強くなって、声が弾んでいた。
『西園寺くんのお見合い相手』じゃない、もっと別の何かが、あの子の中からあふれ出していた気がする。
……何だったんだろう、あれは。
鉛筆を止めて、俺はスケッチブックを閉じた。
あの子のことがもっと知りたい。
婚約者候補という「義務」じゃなくて、ただ、あの子ともう一度話がしたい。
誰かに対してこんなふうに思うなんて、初めてだ。
スケッチブックを小脇に抱えて、俺は来た道を戻った。
夜の空気は冷たい。でも、さっきまでより少しだけ、足取りは軽かった。
【景斗side 終】



