卒業生たちに贈る短編小説『白紙のページ』

 三月の空は、どうしてこんなに青いのだろう。
 窓の外を見るたびに、あおいはそう思った。美術準備室の棚に並んだスケッチブックが、斜めに差し込む午後の光を受けて白く輝いている。使いかけのもの、ほとんど空白のもの、表紙がよれよれになったもの。そのどれもが、誰かの時間を抱えたまま、棚の上で静かに眠っていた。
 今日が、最後の登校日だった。
 あおいが美術部に入ったのは、中学一年の春だった。特別に絵が好きだったわけじゃない。ただ、入学式の翌日に廊下で迷子になって、たまたま開いていたドアの向こうに、顧問の野口先生が一人でスケッチブックに向かって座っていた。その背中が、なぜか泣きたくなるくらい穏やかで、あおいは気がついたら「入部届、ありますか」と言っていた。
 野口先生は振り返って、眼鏡の奥の目を細めた。
「ここにあるものは全部使っていいよ。でも一つだけ約束して」
 先生は棚からスケッチブックを一冊取り出して、あおいに差し出した。
「描き終わったら、ちゃんと名前を書くこと」
 あおいにはその意味がわからなかった。でも頷いた。
 最初の一年間、あおいはクレヨンばかり使った。
 絵の具は難しかった。水の量が少ないとかすれて、多いと滲んで、思った色が出るまでに何枚も紙を駄目にした。色鉛筆は好きだったけれど、時間がかかりすぎて、部活の時間内に終わらないことが多かった。
 その点クレヨンは正直だった。押し付ければ濃くなる。力を抜けば薄くなる。混ぜれば混ざる。嘘をつかない。
 あおいは毎日、クレヨンで描いた。教室の窓、通学路の電柱、飼育小屋のうさぎ、給食のコッペパン。誰に見せるわけでもなく、ただスケッチブックのページを埋めていった。
 二年生になる頃には、一冊目が終わった。
 表紙の裏に「佐伯あおい 一年間」と書いて、棚に戻した。
 すると野口先生が珍しく立ち上がって、棚を見つめた。
「ちゃんと残ったね」
 その言葉の意味も、あおいにはよくわからなかった。
 二年生の秋、同じクラスになった田中しずくが美術部に入ってきた。
 しずくは最初から色鉛筆を選んだ。色鉛筆を並べる指先が、やけに丁寧だった。百二十色の色鉛筆セットを自分で買ってきて、それを並べるだけで三十分かけるような子だった。描くのも遅かった。一枚の絵に何日もかけて、消しては描き、また消しては描いた。
「なんでそんなに時間かけるの」とあおいは聞いた。
「消せるから」としずくは答えた。「消せるうちに、ちゃんとしたものにしたい」
 あおいはクレヨンを見た。クレヨンは消えない。重ねることはできるけれど、なかったことにはできない。
 それがずっと、あおいには少し羨ましかった。
 三年生になって、二人は受験に追われ始めた。部活に来られる日が減って、来ても絵を描かずに参考書を開いていることが増えた。
 十一月のある夕方、二人きりになった美術室で、しずくが突然言った。
「あおい、絵の具、使ったことある?ちゃんと」
「ちゃんとは……ない」
「一緒にやってみようよ。今日だけでいいから」
 しずくはパレットに絵の具を並べ始めた。あおいは見よう見まねで筆を持った。
 最初はやっぱりうまくいかなかった。水が多すぎて、紙の上で色が暴れた。
「あ、やばい」
「いいじゃん、そのまま」としずくが言った。「絵の具ってさ、滲んだところに、思ってなかった色が生まれるんだよ」
 あおいは筆を止めて、紙を見た。青と黄色が混ざったところに、深い緑が生まれていた。頭で混ぜた色じゃなく、紙の上で偶然できた色。
 それはたしかに、どんな色鉛筆にも出せない色だった。
「消せないね」とあおいは言った。
「消せない」としずくは笑った。
「でも、それがいいんじゃないかな」

 冬が来て、受験が終わった。
 しずくは第一志望の高校に受かった。あおいは落ちた。
 二月の寒い日に結果を知って、あおいは美術室に一人で来た。誰もいない部屋で、棚の前に立って、自分の名前が書いてあるスケッチブックを一冊ずつ取り出した。
 一年間。二年間。三年間。
 三冊のスケッチブックが、手の中にあった。
 最初の一冊を開くと、クレヨンで描いた電柱が出てきた。空が水色で、電線が黒くて、どこかへ続いていた。下手だった。でも確かに、あの朝の空の色だった。もう戻れない、中学一年の四月の朝。
 涙が出た。声も出た。誰もいなかったから、声を殺さなかった。
 しばらくして、ドアが開いた。
 野口先生だった。先生は何も言わず、椅子を引いてあおいの隣に座った。
「見ていいですか」と先生は聞いた。
 あおいはスケッチブックを差し出した。
 先生はゆっくりページをめくった。クレヨンの絵から、色鉛筆の練習から、あの日しずくと描いた水彩まで。全部を、黙って見ていた。
「あおいさん」と、先生は最後に言った。「これ、全部あなたが過ごした時間だよ」
 あおいは何も言えなかった。
「受験の結果は、ここには関係ない。あなたは三年間、ちゃんと名前を書いてきた。自分の時間に、ちゃんと責任を持ってきた。それだけで十分だよ」
 三月。卒業式の朝、あおいは一番早く学校に来た。
 美術室に寄ると、棚にスケッチブックが四冊並んでいた。三冊は自分のもの。一冊は新しいものが足してあった。表紙に小さなメモが貼ってあった。
*次の場所でも、ちゃんと名前を書いて。——野口*
 あおいはメモを剥がして、ポケットにしまった。
 式が終わったあと、あおいはしずくと昇降口の前に立っていた。
「高校で美術部あると思う?」としずくが聞いた。
「ある。調べた」
「じゃあ入るんでしょ」
「うん」
 しずくは笑った。あおいも笑った。春の風が制服の裾を揺らして、二人の影が長く伸びた。
「ねえ、あおい」
「なに」
「あなたのクレヨンで描いた電柱の絵、ずっと好きだったよ。あの空の色、誰にも出せないもん」
 あおいは空を見上げた。今日の空も、あの日と同じ青だった。でも今日の青は今日だけのもので、もう二度と、この色のまま帰ってくることはない。
 それでいいと、今日は思えた。
 消えない色がある。
 クレヨンで刻んだ午後、絵の具が紙の上で走った瞬間、色鉛筆でじりじりと塗り重ねた時間。スケッチブックの白いページが少しずつ埋まっていくように、わたしたちはここにいた。
 誰かに見せるためじゃなく、上手くなるためだけでもなく、ただ確かに、ここにいたということを残すために。
 卒業とは、きっとそういうことだ。
 真っ白な次のページが、もう始まっている。