◇
「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」
隣で筆を洗っていた真希さんの声に、思わずビクッと肩を揺らした。
振り返ると、僕の頭からずっと離れなかった美絵が立っていた。
「あっ……お疲れ……」
あの日、嫉妬と衝動を抑えきれず身勝手に抱きしめ、言葉ひとつかけないまま逃げ帰ってしまった。
その後も、なんと謝ったらいいのかわからず、激しい自己嫌悪に陥ったまま一週間が過ぎてしまっていたのだ。
彼女を目の前にして、思考は空回りし、焦りが全身を巡る。
今日会うことはわかっていたのだから、きちんと謝罪の言葉を決めておくべきだった。
無計画な自分を、心底恨む。
「……あのさ、ちょっと外で話さない……?」
慌てて立ち上がり、周囲の目を気にして小声で誘ったつもりだった。
しかし、美絵は僕と目を合わせることもなく、何も言わずにくるりと背を向けると、その場を立ち去ってしまった。
「えっ……?」
伸ばしかけた手が、空を切る。
真希さんも「あれ? 美絵ちゃん、どうしたんだろ」と不思議そうに首を傾げている。
小さな背中は、そのまま講義室のドアを出ていきそうだった。
「……っ、すいません。ちょっと外します」
筆を置き、急いで後を追いかけた。
入り口の近くにいたいずみも、様子のおかしい彼女のことを心配そうに見ていた。
廊下に出ると、彼女はすでに階段を降り、人けのない裏庭の方へと向かっていた。
「……っ、美絵、ちょっと待って!」
秋の冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる裏庭。
彼女は、僕の呼びかけに足を止めず、振り向こうともしない。
なんとか追いつき、ためらいながらも、その華奢な肩にそっと手をかけた。
ゆっくりと振り向いた顔を見て、息を呑む。
今まで僕に向けたことのないような、深い悲しみと怒りを帯びた表情。
その大きな瞳には、今にも溢れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。
「……なに?」
震えている、冷たい声。
「えっと……この前、変なことして、ごめん」
自分の語彙力のなさを呪いながら、なんとか謝罪の言葉を絞り出す。
「変なことって?」
「……付き合ってもないのに、あんなこと」
それを聞いた美絵は、きつく唇を噛んだ。
「……なんで、したの?」
「自分でも、わからなくて……」
正直な気持ちだった。
あの時、嫉妬に駆られて、ただ彼女を自分だけのものにしたいという衝動に負けた。
それをどう言ったらいいのか、わからなかった。
「……わからないなら、しないでよ」
ポロリ、と。
彼女の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
その瞬間、胸の奥を鋭い刃物で抉られたような激しい痛みが走った。
――泣かせてしまった。
僕の身勝手な行動が、あの優しい彼女をここまで傷つけ、涙を流させてしまったのだ。
それほど嫌だったのかもしれない。
嫌われて当たり前だ。
当然の報いに、激しい後悔で息ができなくなった。
「ごめん……」
情けない声しか出ない。
「謝らないでよ……」
涙は、堰を切ったようにポロポロと頬を伝う。
大好きな子が、自分のせいで泣いている。
その事実がたまらなく苦しくて、すがるように口を開いた。
「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」
切なさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうだ。
たとえば……「もう二度と関わらないで」と言うのなら、そうする。
僕にとっては耐え難いほど辛いことだけれど、彼女を泣かせたり苦しめるよりはマシだ。
美絵は小さな両手で交互に、流れる涙を必死に拭っていた。
思わず、その濡れた頬に手を伸ばす。
一粒でも拭いたくて、人差し指でそっと、柔らかい頬に触れた。
その瞬間。
下を向いたままの美絵の唇から、震える声が漏れた。
「……好き」
耳を疑った。
風の音に掻き消されそうなほど微かな、けれどはっきりと輪郭を持ったその言葉に、僕の思考は完全に停止した。
「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」
隣で筆を洗っていた真希さんの声に、思わずビクッと肩を揺らした。
振り返ると、僕の頭からずっと離れなかった美絵が立っていた。
「あっ……お疲れ……」
あの日、嫉妬と衝動を抑えきれず身勝手に抱きしめ、言葉ひとつかけないまま逃げ帰ってしまった。
その後も、なんと謝ったらいいのかわからず、激しい自己嫌悪に陥ったまま一週間が過ぎてしまっていたのだ。
彼女を目の前にして、思考は空回りし、焦りが全身を巡る。
今日会うことはわかっていたのだから、きちんと謝罪の言葉を決めておくべきだった。
無計画な自分を、心底恨む。
「……あのさ、ちょっと外で話さない……?」
慌てて立ち上がり、周囲の目を気にして小声で誘ったつもりだった。
しかし、美絵は僕と目を合わせることもなく、何も言わずにくるりと背を向けると、その場を立ち去ってしまった。
「えっ……?」
伸ばしかけた手が、空を切る。
真希さんも「あれ? 美絵ちゃん、どうしたんだろ」と不思議そうに首を傾げている。
小さな背中は、そのまま講義室のドアを出ていきそうだった。
「……っ、すいません。ちょっと外します」
筆を置き、急いで後を追いかけた。
入り口の近くにいたいずみも、様子のおかしい彼女のことを心配そうに見ていた。
廊下に出ると、彼女はすでに階段を降り、人けのない裏庭の方へと向かっていた。
「……っ、美絵、ちょっと待って!」
秋の冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる裏庭。
彼女は、僕の呼びかけに足を止めず、振り向こうともしない。
なんとか追いつき、ためらいながらも、その華奢な肩にそっと手をかけた。
ゆっくりと振り向いた顔を見て、息を呑む。
今まで僕に向けたことのないような、深い悲しみと怒りを帯びた表情。
その大きな瞳には、今にも溢れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。
「……なに?」
震えている、冷たい声。
「えっと……この前、変なことして、ごめん」
自分の語彙力のなさを呪いながら、なんとか謝罪の言葉を絞り出す。
「変なことって?」
「……付き合ってもないのに、あんなこと」
それを聞いた美絵は、きつく唇を噛んだ。
「……なんで、したの?」
「自分でも、わからなくて……」
正直な気持ちだった。
あの時、嫉妬に駆られて、ただ彼女を自分だけのものにしたいという衝動に負けた。
それをどう言ったらいいのか、わからなかった。
「……わからないなら、しないでよ」
ポロリ、と。
彼女の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。
その瞬間、胸の奥を鋭い刃物で抉られたような激しい痛みが走った。
――泣かせてしまった。
僕の身勝手な行動が、あの優しい彼女をここまで傷つけ、涙を流させてしまったのだ。
それほど嫌だったのかもしれない。
嫌われて当たり前だ。
当然の報いに、激しい後悔で息ができなくなった。
「ごめん……」
情けない声しか出ない。
「謝らないでよ……」
涙は、堰を切ったようにポロポロと頬を伝う。
大好きな子が、自分のせいで泣いている。
その事実がたまらなく苦しくて、すがるように口を開いた。
「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」
切なさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうだ。
たとえば……「もう二度と関わらないで」と言うのなら、そうする。
僕にとっては耐え難いほど辛いことだけれど、彼女を泣かせたり苦しめるよりはマシだ。
美絵は小さな両手で交互に、流れる涙を必死に拭っていた。
思わず、その濡れた頬に手を伸ばす。
一粒でも拭いたくて、人差し指でそっと、柔らかい頬に触れた。
その瞬間。
下を向いたままの美絵の唇から、震える声が漏れた。
「……好き」
耳を疑った。
風の音に掻き消されそうなほど微かな、けれどはっきりと輪郭を持ったその言葉に、僕の思考は完全に停止した。



