ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。【完結】

 ◇

「あ、美絵ちゃん! お疲れ〜」

 隣で筆を洗っていた真希さんの声に、思わずビクッと肩を揺らした。
 振り返ると、僕の頭からずっと離れなかった美絵が立っていた。

「あっ……お疲れ……」

 あの日、嫉妬と衝動を抑えきれず身勝手に抱きしめ、言葉ひとつかけないまま逃げ帰ってしまった。
 その後も、なんと謝ったらいいのかわからず、激しい自己嫌悪に陥ったまま一週間が過ぎてしまっていたのだ。

 彼女を目の前にして、思考は空回りし、焦りが全身を巡る。

 今日会うことはわかっていたのだから、きちんと謝罪の言葉を決めておくべきだった。
 無計画な自分を、心底恨む。

「……あのさ、ちょっと外で話さない……?」

 慌てて立ち上がり、周囲の目を気にして小声で誘ったつもりだった。

 しかし、美絵は僕と目を合わせることもなく、何も言わずにくるりと背を向けると、その場を立ち去ってしまった。

「えっ……?」

 伸ばしかけた手が、空を切る。
 真希さんも「あれ? 美絵ちゃん、どうしたんだろ」と不思議そうに首を傾げている。

 小さな背中は、そのまま講義室のドアを出ていきそうだった。

「……っ、すいません。ちょっと外します」

 筆を置き、急いで後を追いかけた。
 入り口の近くにいたいずみも、様子のおかしい彼女のことを心配そうに見ていた。


 廊下に出ると、彼女はすでに階段を降り、人けのない裏庭の方へと向かっていた。

「……っ、美絵、ちょっと待って!」

 秋の冷たい風が吹き抜け、枯れ葉がカサカサと音を立てる裏庭。
 彼女は、僕の呼びかけに足を止めず、振り向こうともしない。

 なんとか追いつき、ためらいながらも、その華奢な肩にそっと手をかけた。

 ゆっくりと振り向いた顔を見て、息を呑む。

 今まで僕に向けたことのないような、深い悲しみと怒りを帯びた表情。
 その大きな瞳には、今にも溢れ落ちそうなほどの涙が溜まっていた。

「……なに?」

 震えている、冷たい声。

「えっと……この前、変なことして、ごめん」

 自分の語彙力のなさを呪いながら、なんとか謝罪の言葉を絞り出す。

「変なことって?」

「……付き合ってもないのに、あんなこと」

 それを聞いた美絵は、きつく唇を噛んだ。

「……なんで、したの?」

「自分でも、わからなくて……」

 正直な気持ちだった。
 あの時、嫉妬に駆られて、ただ彼女を自分だけのものにしたいという衝動に負けた。
 それをどう言ったらいいのか、わからなかった。

「……わからないなら、しないでよ」

 ポロリ、と。
 彼女の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちる。

 その瞬間、胸の奥を鋭い刃物で抉られたような激しい痛みが走った。

 ――泣かせてしまった。

 僕の身勝手な行動が、あの優しい彼女をここまで傷つけ、涙を流させてしまったのだ。

 それほど嫌だったのかもしれない。
 嫌われて当たり前だ。
 当然の報いに、激しい後悔で息ができなくなった。

「ごめん……」

 情けない声しか出ない。

「謝らないでよ……」

 涙は、堰を切ったようにポロポロと頬を伝う。

 大好きな子が、自分のせいで泣いている。
 その事実がたまらなく苦しくて、すがるように口を開いた。

「本当にごめん……どうしたら止まる? 俺、なんでもするから……」

 切なさと申し訳なさで、胸が張り裂けそうだ。

 たとえば……「もう二度と関わらないで」と言うのなら、そうする。
 僕にとっては耐え難いほど辛いことだけれど、彼女を泣かせたり苦しめるよりはマシだ。

 美絵は小さな両手で交互に、流れる涙を必死に拭っていた。
 思わず、その濡れた頬に手を伸ばす。
 一粒でも拭いたくて、人差し指でそっと、柔らかい頬に触れた。

 その瞬間。

 下を向いたままの美絵の唇から、震える声が漏れた。


「……好き」


 耳を疑った。

 風の音に掻き消されそうなほど微かな、けれどはっきりと輪郭を持ったその言葉に、僕の思考は完全に停止した。