(もうすぐかな?)
時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる予定の十五時を指していた。
その時。
カラン、と、ドアに付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。
約束の時間ぴったりに現れたいずみ。
彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた次の瞬間。
予想外の光景が視界に飛び込んできた。
――正人くんと、祥くんもいる。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。
舞い上がってレジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。
目の前に立った祥くんから、秋の涼やかな風の香り。
「……お疲れさま」
低くて、心地よい声。
「ありがと……来てくれて」
彼は、アイスコーヒーのレギュラーサイズを選んだ。
(ブラックなんだ……大人っぽいな)
実は、ブラックコーヒーの苦味はまだちょっと苦手な私。
いつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。
三人が注文した品を受け取り、奥のテーブル席へ向かうのを見届けた。
すると、エスプレッソマシンの周りを拭き上げていた柳《やなぎ》くんが、横から声をかけてきた。
「あの人たち、森の友達?」
「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」
そう答えると、彼は前髪の隙間から「へえー」と面白がるような視線を投げてきた。
「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」
思わず手元のグラスを落としそうになる。
「な、何言ってんの!?」
声も上ずり、うまく流すことができない。
「いや。森、嬉しそうだし。なんとなく」
そんな私を見て、柳くんはケラケラと笑っていた。
◇
柳くんとの初対面は、二週間前。
私がここの面接に合格し、制服の受け取りと業務説明のために訪れていた時だった。
店長は、三十代前半くらいの、シュッとしているけれど柔らかい雰囲気の女性だ。
その店長から説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、やや気怠げな声とともに、彼が出勤してきた。
『森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』
『も……森です。よろしくお願いします』
緊張しながら頭を下げると、彼は『ういっす』と軽く返し、じっと顔を見てきた。
そして、やや面白がるような口調で言ったのだ。
『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』
初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
店長が『コホン』とわざと咳払いをする。
『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』
それが、柳くんとの出会い。
私の周りにいる、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、まったく違うタイプ。
基本ぶっきらぼうで、ずけずけと物を言う。
ただ、同じ大学一年生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多い。
業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだ面倒見よく教えてくれるのだった。
◇
「お先に失礼します」
「うっす」
十七時。
朝からのシフトを終えた私は、夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。
ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
扉に備え付けられた鏡で、自分の身だしなみを確認した。
(……軽く整えてから行こう)
着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直す。
胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。
◇
夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。
私の家までは、ここから歩いて二十分強くらい。
祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中で跳びはねた。
駅に向かういずみと正人くんを見送り、住宅街へと続く坂道を、並んで歩き始める。
街灯が、二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。
「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」
その落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。
薄暗い道に入った時、後ろからエンジン音が近づいてきた。
「もう少し、こっち来たら」
そう言って私の服の端を軽く引き、自分の前へと寄せてくれた。
守られているようなその気遣いに、胸の奥がくすぐったくなる。
車が通り過ぎたあと、後ろから柳くんのことを尋ねられた。
「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」
その言葉に、彼との初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑しながら「祥くんのほうが、全然大人っぽいよ」と否定した。
仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、仲良くはなれなかったタイプだろう。
そんなことを考えながら顔を上げると、いつの間にかマンションのエントランスが見えていた。
(……着いちゃった)
幸せな時間が終わってしまう。
寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。
(でも、名残惜しいからって、この前みたいに間違えて部屋に誘ったりしないように……!)
そう自分を戒める。
「…………」
ふと、彼の足音が止まったことに気づいた。
振り返ると、祥くんは俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。
光に照らされた表情は、どこか神妙で、思い詰めているように見えた。
「祥くん……?」
「…………」
顔色も悪いかもしれない。
(もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?)
心配になり、下から覗き込みながら、その額にそっと手を伸ばそうとした。
「どうしたの? 気分、悪い……?」
その瞬間――。
スッ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
視界が暗転し、時間が完全に止まった。
次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強さとあたたかさ。
微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。
私は――自分が彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。
背中に回された大きな手のひらが、私を逃がさないように、でも壊さないように捉えている。
ドクン、ドクン、ドクン――。
耳の奥で、激しいリズムが鳴り響く。
(何、が……起きているの……?)
思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
初めて知る熱に、ただ息を呑むことしかできなかった。
時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる予定の十五時を指していた。
その時。
カラン、と、ドアに付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。
約束の時間ぴったりに現れたいずみ。
彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた次の瞬間。
予想外の光景が視界に飛び込んできた。
――正人くんと、祥くんもいる。
「えっ、二人も……来てくれたの?」
制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。
舞い上がってレジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。
目の前に立った祥くんから、秋の涼やかな風の香り。
「……お疲れさま」
低くて、心地よい声。
「ありがと……来てくれて」
彼は、アイスコーヒーのレギュラーサイズを選んだ。
(ブラックなんだ……大人っぽいな)
実は、ブラックコーヒーの苦味はまだちょっと苦手な私。
いつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。
三人が注文した品を受け取り、奥のテーブル席へ向かうのを見届けた。
すると、エスプレッソマシンの周りを拭き上げていた柳《やなぎ》くんが、横から声をかけてきた。
「あの人たち、森の友達?」
「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」
そう答えると、彼は前髪の隙間から「へえー」と面白がるような視線を投げてきた。
「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」
思わず手元のグラスを落としそうになる。
「な、何言ってんの!?」
声も上ずり、うまく流すことができない。
「いや。森、嬉しそうだし。なんとなく」
そんな私を見て、柳くんはケラケラと笑っていた。
◇
柳くんとの初対面は、二週間前。
私がここの面接に合格し、制服の受け取りと業務説明のために訪れていた時だった。
店長は、三十代前半くらいの、シュッとしているけれど柔らかい雰囲気の女性だ。
その店長から説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、やや気怠げな声とともに、彼が出勤してきた。
『森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』
『も……森です。よろしくお願いします』
緊張しながら頭を下げると、彼は『ういっす』と軽く返し、じっと顔を見てきた。
そして、やや面白がるような口調で言ったのだ。
『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』
初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
店長が『コホン』とわざと咳払いをする。
『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』
それが、柳くんとの出会い。
私の周りにいる、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、まったく違うタイプ。
基本ぶっきらぼうで、ずけずけと物を言う。
ただ、同じ大学一年生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多い。
業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだ面倒見よく教えてくれるのだった。
◇
「お先に失礼します」
「うっす」
十七時。
朝からのシフトを終えた私は、夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。
ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
扉に備え付けられた鏡で、自分の身だしなみを確認した。
(……軽く整えてから行こう)
着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直す。
胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。
◇
夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。
私の家までは、ここから歩いて二十分強くらい。
祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中で跳びはねた。
駅に向かういずみと正人くんを見送り、住宅街へと続く坂道を、並んで歩き始める。
街灯が、二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。
「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」
その落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。
薄暗い道に入った時、後ろからエンジン音が近づいてきた。
「もう少し、こっち来たら」
そう言って私の服の端を軽く引き、自分の前へと寄せてくれた。
守られているようなその気遣いに、胸の奥がくすぐったくなる。
車が通り過ぎたあと、後ろから柳くんのことを尋ねられた。
「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」
その言葉に、彼との初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑しながら「祥くんのほうが、全然大人っぽいよ」と否定した。
仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、仲良くはなれなかったタイプだろう。
そんなことを考えながら顔を上げると、いつの間にかマンションのエントランスが見えていた。
(……着いちゃった)
幸せな時間が終わってしまう。
寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。
(でも、名残惜しいからって、この前みたいに間違えて部屋に誘ったりしないように……!)
そう自分を戒める。
「…………」
ふと、彼の足音が止まったことに気づいた。
振り返ると、祥くんは俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。
光に照らされた表情は、どこか神妙で、思い詰めているように見えた。
「祥くん……?」
「…………」
顔色も悪いかもしれない。
(もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?)
心配になり、下から覗き込みながら、その額にそっと手を伸ばそうとした。
「どうしたの? 気分、悪い……?」
その瞬間――。
スッ、と強い力で腕を引かれた。
「えっ……」
視界が暗転し、時間が完全に止まった。
次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強さとあたたかさ。
微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。
私は――自分が彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。
背中に回された大きな手のひらが、私を逃がさないように、でも壊さないように捉えている。
ドクン、ドクン、ドクン――。
耳の奥で、激しいリズムが鳴り響く。
(何、が……起きているの……?)
思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
初めて知る熱に、ただ息を呑むことしかできなかった。



