ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。【完結】

(もうすぐかな?)

 時計の針を見ると、いずみがここ、私のバイト先へ遊びにきてくれる予定の十五時を指していた。

 その時。
 カラン、と、ドアに付けられたベルが、軽やかな音を鳴らした。

 約束の時間ぴったりに現れたいずみ。

 彼女と目が合い、パッと顔を綻ばせた次の瞬間。
 予想外の光景が視界に飛び込んできた。

 ――正人くんと、祥くんもいる。

「えっ、二人も……来てくれたの?」

 制服姿を見られるのはなんだか気恥ずかしい。
 でもそれ以上に、彼に会えた嬉しさが勝る。

 舞い上がってレジ打ちや注文伝達などでミスをしないよう、自分を必死で律した。

 目の前に立った祥くんから、秋の涼やかな風の香り。

「……お疲れさま」

 低くて、心地よい声。

「ありがと……来てくれて」

 彼は、アイスコーヒーのレギュラーサイズを選んだ。

(ブラックなんだ……大人っぽいな)

 実は、ブラックコーヒーの苦味はまだちょっと苦手な私。
 いつも紅茶系か、カフェラテを頼んでしまう。
 せっかくカフェで働き始めたのだから、ブラックの奥深さもわかるようになりたいな、と密かに決意する。

 三人が注文した品を受け取り、奥のテーブル席へ向かうのを見届けた。
 すると、エスプレッソマシンの周りを拭き上げていた柳《やなぎ》くんが、横から声をかけてきた。

「あの人たち、森の友達?」

「あ、うん。同じ大学で、同じサークルの……」

 そう答えると、彼は前髪の隙間から「へえー」と面白がるような視線を投げてきた。

「あの男二人のどっちかが、森の彼氏?」

 思わず手元のグラスを落としそうになる。

「な、何言ってんの!?」

 声も上ずり、うまく流すことができない。

「いや。森、嬉しそうだし。なんとなく」

 そんな私を見て、柳くんはケラケラと笑っていた。

 ◇

 柳くんとの初対面は、二週間前。
 私がここの面接に合格し、制服の受け取りと業務説明のために訪れていた時だった。

 店長は、三十代前半くらいの、シュッとしているけれど柔らかい雰囲気の女性だ。
 その店長から説明を受けている最中、『……はようございまーす』と、やや気怠げな声とともに、彼が出勤してきた。

『森さんと同い年の柳くん。もう働き始めて半年くらい経っていて、一通り覚えてるから何でも聞いてね』

『も……森です。よろしくお願いします』

 緊張しながら頭を下げると、彼は『ういっす』と軽く返し、じっと顔を見てきた。
 そして、やや面白がるような口調で言ったのだ。

『なんか……めちゃくちゃモテて困りそうな見た目してますね』

 初対面で、なんて反応に困ることを言うんだろうと、私は目を丸くした。
 店長が『コホン』とわざと咳払いをする。

『柳くん? たしかに森さんはとても可愛らしい顔してるけど、初対面で失礼のないようにね?』


 それが、柳くんとの出会い。

 私の周りにいる、穏やかで優しい祥くんや、明るくて気遣いのできる正人くんとは、まったく違うタイプ。
 基本ぶっきらぼうで、ずけずけと物を言う。

 ただ、同じ大学一年生で生活スタイルが似ているためか、シフトが被ることが多い。
 業務の基本やレジの操作、コーヒーの淹れ方まで、なんだかんだ面倒見よく教えてくれるのだった。

 ◇

「お先に失礼します」

「うっす」

 十七時。
 朝からのシフトを終えた私は、夜までのシフトに入っている柳くんに挨拶をして、急いでバックヤードへと向かった。

 ロッカーを開け、腰に巻いていたエプロンを外す。
 扉に備え付けられた鏡で、自分の身だしなみを確認した。

(……軽く整えてから行こう)

 着替えた時に乱れた髪を手櫛で整え、リップを薄く塗り直す。
 胸を高鳴らせながら、小走りで三人の待つ席へと向かったのだった。

 ◇

 夜風が、一日中立ちっぱなしで怠くなった足を癒す。

 私の家までは、ここから歩いて二十分強くらい。

 祥くんがまた「送っていくよ」と言ってくれた時、(やったー!)と心の中で跳びはねた。

 駅に向かういずみと正人くんを見送り、住宅街へと続く坂道を、並んで歩き始める。
 街灯が、二人の影を長く伸ばしては、また縮めていく。

「今日のバイト、朝からだったよな? お疲れさま」

 その落ち着いた声は、疲れた身体にじんわりと染み渡る。
 バイトを頑張った何よりのご褒美のように感じられた。

 薄暗い道に入った時、後ろからエンジン音が近づいてきた。

「もう少し、こっち来たら」

 そう言って私の服の端を軽く引き、自分の前へと寄せてくれた。
 守られているようなその気遣いに、胸の奥がくすぐったくなる。

 車が通り過ぎたあと、後ろから柳くんのことを尋ねられた。

「ドリンク作るのも早かったし、しっかりしてそうな、大人っぽい人だったな」

 その言葉に、彼との初対面での出来事を思い出し、思わず苦笑しながら「祥くんのほうが、全然大人っぽいよ」と否定した。
 仕事では色々と教えてもらって感謝しかないけれど、もしサークルなどで出会っていたら、仲良くはなれなかったタイプだろう。

 そんなことを考えながら顔を上げると、いつの間にかマンションのエントランスが見えていた。

(……着いちゃった)

 幸せな時間が終わってしまう。
 寂しさが、足元へ忍び寄ってくる。

(でも、名残惜しいからって、この前みたいに間違えて部屋に誘ったりしないように……!)

 そう自分を戒める。

「…………」

 ふと、彼の足音が止まったことに気づいた。
 振り返ると、祥くんは俯いたまま、街灯の下で立ち尽くしている。

 光に照らされた表情は、どこか神妙で、思い詰めているように見えた。

「祥くん……?」

「…………」

 顔色も悪いかもしれない。

(もしかして、また熱が出たとかじゃないよね……?)

 心配になり、下から覗き込みながら、その額にそっと手を伸ばそうとした。

「どうしたの? 気分、悪い……?」


 その瞬間――。

 スッ、と強い力で腕を引かれた。


「えっ……」

 視界が暗転し、時間が完全に止まった。

 次に感じたのは、頬に触れる柔らかなシャツの感触と、その奥から伝わってくる、力強さとあたたかさ。
 微かに香る夜風の匂いと、彼自身の香り。


 私は――自分が彼にすっぽりと抱きしめられていることに気づいた。


 背中に回された大きな手のひらが、私を逃がさないように、でも壊さないように捉えている。

 ドクン、ドクン、ドクン――。
 耳の奥で、激しいリズムが鳴り響く。

(何、が……起きているの……?)

 思考回路が完全にショートし、混乱と歓喜が混ざり合った感情の渦の中。
 初めて知る熱に、ただ息を呑むことしかできなかった。