その名前を、呼べたなら

 美和が一時的に安定したあとも、恒一と由紀は病院に残った。
 朝になり、恒一は市役所に電話を入れて休暇を取った。由紀も同様に、当日のスケジュールを調整した。
 二人とも、ひよりのそばにいたかった。
 午前八時。
 ひよりが目を覚ました。
 母のベッドの横で丸くなって眠っていた小さな体が、ゆっくりと動いた。
「……おはよう」
 由紀が声をかけた。
 ひよりは目をこすりながら、由紀を見た。
「篠原さん……」
「よく眠れた?」
「うん」
 ひよりは母の方を見た。
 美和は、まだ眠っている。
 でも、昨夜よりは呼吸が安定しているように見えた。
「お母さん、大丈夫?」
「うん。今は落ち着いてるよ」
 由紀は優しく答えた。
 ひよりは、ほっとしたように息をついた。
 そのとき、病室のドアが開いた。
 恒一が、コンビニの袋を持って入ってきた。
「おはよう、ひよりちゃん」
「佐倉さん……来てくれてたの?」
「うん。心配だったから」
 恒一はひよりの隣に座り、袋からおにぎりとお茶を取り出した。
「朝ごはん、食べた?」
「まだ」
「じゃあ、これ食べて」
 恒一はおにぎりを差し出した。
 ひよりは「ありがとう」と言って、受け取った。
 三人で、静かに朝食を食べた。
 窓の外では、冬の朝日が病室を照らしている。
 ひよりは、おにぎりを半分ほど食べたところで、ふと顔を上げた。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「篠原さんのこと、名前で呼んだ?」
 恒一は、少し驚いた顔をした。
 由紀も、思わず恒一を見た。
「……呼んだよ」
 恒一は静かに答えた。
「昨日の夜」
「本当?」
 ひよりの目が、輝いた。
「うん」
「よかった」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからも呼んであげて」
「……ああ」
 恒一は、由紀の方を見た。
 由紀は少し照れたように視線を逸らした。
 ひよりは、二人の様子を見て満足そうに頷いた。
 午前十時。
 美和が目を覚ました。
 ひよりは母の手を握ったまま、じっと見つめていた。
「美和さん」
 小さな声で呼んだ。
 美和の瞼が、ゆっくりと開いた。
「……ひより」
 かすれた声。
 でも、確かに母の声だった。
「うん、わたしだよ」
 ひよりは涙をこらえた。
 美和は、ゆっくりと周囲を見回した。
 由紀と恒一が、少し離れたところに立っている。
「篠原さん……それに……」
「佐倉です。市役所の」
 恒一は前に出て、軽く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
 美和は小さく笑った。
「ひよりが、お世話になって」
「いえ」
 恒一は首を振った。
「ひよりちゃんは、しっかりしてます。俺たちの方が、教えられることばかりで」
 美和は、ひよりの方を見た。
「ひより、大きくなったね」
「まだ九歳だよ」
「それでも、大きくなった」
 美和は、ひよりの頭を撫でた。
「ごめんね、心配かけて」
「ううん」
 ひよりは首を振った。
「美和さんが元気になってくれたら、それでいい」
 美和は、少しだけ目を細めた。
「『美和さん』って呼ぶの、もう慣れた?」
「うん」
「そっか」
 美和は微笑んだ。
「わたしも、ちゃんと『ひより』って呼ぶね」
「うん」
 二人は、静かに手を握り合った。
 その日の午後。
 恒一と由紀は、病院の中庭で少しだけ休憩していた。
 ベンチに並んで座り、缶コーヒーを飲んでいる。
 冬の日差しは柔らかく、少しだけ温かかった。
「由紀さん」
 恒一が口を開いた。
 由紀は、その呼び方に少しだけ驚いた顔をした。
「はい」
「昨日、俺に言ってくれたこと……ありがとうございました」
「……どういたしまして」
 由紀は缶コーヒーを両手で包んだ。
「でも、私も言い過ぎたかなって思ってます。『逃げないでください』なんて」
「いえ」
 恒一は首を振った。
「その通りでした。俺は、ずっと逃げてた」
 恒一は空を見上げた。
「母が亡くなってから、誰かを大切に思うことが怖くなった。失うことが怖くて、最初から近づかないようにしてた」
「……」
「でも、それは違ってた」
 恒一は由紀の方を向いた。
「ひよりちゃんを見てると、わかるんです。あの子は、失うことを恐れながらも、それでも母親の名前を呼んだ。近づくことを選んだ」
 恒一の声は、少しだけ震えていた。
「俺も、そうしたい。もう逃げたくない」
 由紀は、恒一をまっすぐ見つめた。
「恒一さん」
 その呼び方に、恒一は少しだけ驚いた。
「はい」
「私、待ちます」
「……え?」
「恒一さんが、本当に前に進めるまで」
 由紀は微笑んだ。
「焦らなくていいです。ゆっくりでいいから、一歩ずつ」
 恒一は、胸が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
 由紀は缶コーヒーを飲み干した。
「でも、一つだけ約束してください」
「なんでしょう」
「これから、私のこと『由紀さん』って呼んでください」
 由紀は少しだけ照れたように笑った。
「それだけでいいです」
 恒一は頷いた。
「わかりました。由紀さん」
 その言葉を聞いて、由紀の顔がほころんだ。
 夕方。
 ひよりは母の病室で、宿題をしていた。
 美和は、ベッドに座ってその様子を見守っている。
「ひより、算数得意になった?」
「まあまあかな」
 ひよりは鉛筆を動かしながら答えた。
「国語の方が好き」
「そっか。お母さんも、国語得意だったよ」
「知ってる」
 ひよりは顔を上げた。
「美和さんの本棚、国語の本ばっかりだもん」
「そうだね」
 美和は笑った。
 それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ひより」
「なに?」
「もし、お母さんがいなくなったら……」
 ひよりは、手を止めた。
「美和さん」
「うん」
「そういう話、今はしたくない」
 ひよりはまっすぐに母を見つめた。
「美和さんは、まだここにいる。だから、今のことだけ考える」
 美和は、少しだけ驚いた顔をした。
 それから、優しく笑った。
「そうだね。ごめん」
「ううん」
 ひよりは宿題に戻った。
 美和は、その後ろ姿を見つめた。
 娘は、本当に強くなった。
 自分がいなくなっても、きっと大丈夫だ。
 そう思うと、少しだけ安心した。
 でも同時に、寂しさも込み上げてきた。
 美和は窓の外を見つめた。
 夕日が、静かに沈んでいく。
 その夜。
 恒一は病院を出て、アパートへの帰り道を歩いていた。
 スマホが鳴った。
 由紀からだった。
「もしもし」
「恒一さん、今大丈夫ですか?」
「はい」
「あのですね、ひよりちゃんのこと、少し相談したくて」
「どうかしましたか?」
「美和さんの容態が、また不安定になりそうなんです」
 由紀の声は、少しだけ沈んでいた。
「医師が言うには、今回持ち直したのは本当に奇跡的で……次は、もう……」
 由紀は言葉を濁した。
 恒一は、立ち止まった。
「……そうですか」
「はい。だから、ひよりちゃんに、ちゃんと心の準備をさせてあげたいんです」
「わかりました」
 恒一は深く息をついた。
「俺にできることがあれば、言ってください」
「ありがとうございます」
 それから、少しの沈黙。
 由紀が言った。
「恒一さん」
「はい」
「今日、恒一さんが来てくれて、本当に嬉しかったです」
「……俺も」
 恒一は少しだけ笑った。
「由紀さんがいてくれて、よかった」
「これから、一緒にひよりちゃんを支えましょう」
「はい」
 電話が切れた。
 恒一は、スマホを握ったまま、空を見上げた。
 星が、いくつか見えた。
 母のことを、思い出した。
 そして──ひよりのことを、思った。
 あの子は、これから母を失う。
 恒一と同じように。
 でも、恒一は逃げない。
 もう、誰も一人にしたくなかった。
 恒一は歩き始めた。
 これから何ができるのか、まだわからない。
 でも、できることをする。
 それだけは、決めていた。