美和の容態が急変したのは、それから三日後のことだった。
深夜二時。
ひよりの携帯に、病院から電話が入った。
ひよりは一人で家にいた。美和が入院してから、ひよりは週に何度か一人で夜を過ごすことに慣れていた。
「もしもし」
眠い目をこすりながら電話に出ると、篠原さんの声がした。
「ひよりちゃん、篠原です」
その声は、いつもと違っていた。
少しだけ、焦っている。
「篠原さん……?」
「お母さんの容態が変わって。今、病院に来られる?」
ひよりの体が、一瞬固まった。
「……うん」
「一人で来るのは危ないから、今からタクシー手配するね。すぐに来て」
「わかった」
電話が切れた。
ひよりは、しばらく動けなかった。
容態が変わった。
それが何を意味するのか、ひよりにはわかっていた。
ひよりは急いで着替え、ランドセルに必要なものを詰めた。
母の写真。
母が好きだった本。
そして、母に渡そうと思って書いていた手紙。
十分後、タクシーが到着した。
ひよりは夜の街を走る車の中で、じっと窓の外を見つめていた。
街灯が流れていく。
ひよりは、心の中で何度も呟いた。
間に合って。
お願い、間に合って。
病院に着くと、篠原さんが玄関で待っていてくれた。
「ひよりちゃん」
篠原さんは走り寄ってきて、ひよりの手を取った。
「お母さんは?」
「今、先生たちが診てる。大丈夫、まだ間に合うから」
篠原さんの声は優しかったが、その目には不安が宿っていた。
二人は廊下を走った。
病室の前に着くと、医師が出てきた。
「山本さんのご家族の方ですね」
「はい」
篠原さんが答えた。
「お母様の容態ですが、呼吸が不安定になり、意識レベルも低下しています。今、酸素投与と点滴で対応していますが……」
医師は少しだけ言葉を選んだ。
「予断を許さない状況です」
ひよりは、その言葉の意味を理解した。
もう、長くはない。
「……会えますか?」
ひよりは小さな声で尋ねた。
「はい。どうぞ」
医師は病室のドアを開けた。
ひよりは、ゆっくりと中に入った。
母は、ベッドに横たわっていた。
酸素マスクをつけて、目を閉じている。
胸が、かすかに上下していた。
ひよりはベッドの横に座り、母の手を取った。
冷たかった。
「美和さん……」
ひよりは小さく呼んだ。
母の瞼が、わずかに動いた。
「わたし、来たよ」
母の手が、少しだけひよりの手を握り返した。
ひよりは涙をこらえた。
「ねえ、美和さん。まだ話したいことがいっぱいあるの」
母の唇が、かすかに動いた。
何か言おうとしている。
ひよりは顔を近づけた。
「……ひより」
小さな、小さな声。
でも、確かに届いた。
「うん」
「……ありがとう」
それだけだった。
母はもう一度、ひよりの手を握った。
そして、また静かになった。
ひよりは、母の手を握ったまま、涙を流した。
「美和さん、わたし、ちゃんと大きくなるから」
母は、何も答えなかった。
けれど、その手の温もりだけは、まだそこにあった。
病室の外で、篠原さんは壁にもたれて立っていた。
目を閉じて、深く息をついている。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
篠原さんが顔を上げると、恒一が走ってきた。
「篠原さん」
「佐倉さん……どうして?」
「ひよりちゃんのこと、心配で」
恒一は息を切らしていた。
「病院から連絡もらって……間に合いますか?」
「わからない。でも、ひよりちゃんは今、お母さんと一緒にいます」
篠原さんは病室のドアを見つめた。
「……佐倉さん」
「はい」
「私、佐倉さんに言いたいことがあります」
恒一は、篠原さんを見つめた。
篠原さんは、まっすぐに恒一を見た。
「今度も、逃げますか?」
恒一は、息を呑んだ。
「……え?」
「佐倉さんは、十年前お母さんを失った。そのとき、最後に名前を呼べなかった」
篠原さんの声は、静かに、しかし強く響いた。
「でも、今度は違います。ひよりちゃんがいる。私がいる」
「篠原さん……」
「逃げないでください。もう、誰も失わないように」
恒一は、何も言えなかった。
篠原さんは続けた。
「佐倉さんは優しい人です。でも、その優しさは時に、自分を守るための壁になってる」
「……」
「私は、その壁の向こう側にいる佐倉さんを知りたい。本当の佐倉さんを」
篠原さんの目には、涙が浮かんでいた。
「だから、お願いです。私の名前を呼んでください」
恒一は、篠原さんをまっすぐ見つめた。
心臓が、激しく打っていた。
名前を呼ぶこと。
それは、近づくこと。
失うことを覚悟すること。
でも――
恒一は、ゆっくりと口を開いた。
「……由紀さん」
篠原さんの目が、大きく見開かれた。
「もう一度」
「由紀さん」
恒一は、もう一度呼んだ。
由紀は、涙を流した。
「ありがとう」
恒一は、由紀の手を取った。
「俺、もう逃げません」
「……うん」
「ひよりちゃんのために、美和さんのために、そしてあなたのために」
恒一の声は、震えていた。
「俺にできることをします」
由紀は頷いた。
二人は、病室のドアを見つめた。
その夜、美和の容態は安定した。
奇跡的に、呼吸も落ち着き、意識も少しだけ戻った。
医師は「峠は越えたかもしれません」と言った。
けれど、「まだ予断を許さない」とも付け加えた。
ひよりは母の横で眠っていた。
由紀と恒一は、廊下のベンチに座っていた。
夜明けが近づいている。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。
「佐倉さん」
「はい」
「さっき、私の名前呼んでくれましたよね」
「……はい」
「嬉しかった」
由紀は恒一の方を向いた。
「でも、それだけじゃダメです」
「……え?」
「これから、ずっと呼んでください」
由紀は微笑んだ。
「私も、佐倉さんじゃなくて、恒一さんって呼びます」
恒一は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「……わかりました」
「約束ですよ」
「はい」
二人は、静かに夜明けを待った。
窓の外で、空がオレンジ色に染まり始めていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。
深夜二時。
ひよりの携帯に、病院から電話が入った。
ひよりは一人で家にいた。美和が入院してから、ひよりは週に何度か一人で夜を過ごすことに慣れていた。
「もしもし」
眠い目をこすりながら電話に出ると、篠原さんの声がした。
「ひよりちゃん、篠原です」
その声は、いつもと違っていた。
少しだけ、焦っている。
「篠原さん……?」
「お母さんの容態が変わって。今、病院に来られる?」
ひよりの体が、一瞬固まった。
「……うん」
「一人で来るのは危ないから、今からタクシー手配するね。すぐに来て」
「わかった」
電話が切れた。
ひよりは、しばらく動けなかった。
容態が変わった。
それが何を意味するのか、ひよりにはわかっていた。
ひよりは急いで着替え、ランドセルに必要なものを詰めた。
母の写真。
母が好きだった本。
そして、母に渡そうと思って書いていた手紙。
十分後、タクシーが到着した。
ひよりは夜の街を走る車の中で、じっと窓の外を見つめていた。
街灯が流れていく。
ひよりは、心の中で何度も呟いた。
間に合って。
お願い、間に合って。
病院に着くと、篠原さんが玄関で待っていてくれた。
「ひよりちゃん」
篠原さんは走り寄ってきて、ひよりの手を取った。
「お母さんは?」
「今、先生たちが診てる。大丈夫、まだ間に合うから」
篠原さんの声は優しかったが、その目には不安が宿っていた。
二人は廊下を走った。
病室の前に着くと、医師が出てきた。
「山本さんのご家族の方ですね」
「はい」
篠原さんが答えた。
「お母様の容態ですが、呼吸が不安定になり、意識レベルも低下しています。今、酸素投与と点滴で対応していますが……」
医師は少しだけ言葉を選んだ。
「予断を許さない状況です」
ひよりは、その言葉の意味を理解した。
もう、長くはない。
「……会えますか?」
ひよりは小さな声で尋ねた。
「はい。どうぞ」
医師は病室のドアを開けた。
ひよりは、ゆっくりと中に入った。
母は、ベッドに横たわっていた。
酸素マスクをつけて、目を閉じている。
胸が、かすかに上下していた。
ひよりはベッドの横に座り、母の手を取った。
冷たかった。
「美和さん……」
ひよりは小さく呼んだ。
母の瞼が、わずかに動いた。
「わたし、来たよ」
母の手が、少しだけひよりの手を握り返した。
ひよりは涙をこらえた。
「ねえ、美和さん。まだ話したいことがいっぱいあるの」
母の唇が、かすかに動いた。
何か言おうとしている。
ひよりは顔を近づけた。
「……ひより」
小さな、小さな声。
でも、確かに届いた。
「うん」
「……ありがとう」
それだけだった。
母はもう一度、ひよりの手を握った。
そして、また静かになった。
ひよりは、母の手を握ったまま、涙を流した。
「美和さん、わたし、ちゃんと大きくなるから」
母は、何も答えなかった。
けれど、その手の温もりだけは、まだそこにあった。
病室の外で、篠原さんは壁にもたれて立っていた。
目を閉じて、深く息をついている。
そのとき、廊下の向こうから足音が聞こえた。
篠原さんが顔を上げると、恒一が走ってきた。
「篠原さん」
「佐倉さん……どうして?」
「ひよりちゃんのこと、心配で」
恒一は息を切らしていた。
「病院から連絡もらって……間に合いますか?」
「わからない。でも、ひよりちゃんは今、お母さんと一緒にいます」
篠原さんは病室のドアを見つめた。
「……佐倉さん」
「はい」
「私、佐倉さんに言いたいことがあります」
恒一は、篠原さんを見つめた。
篠原さんは、まっすぐに恒一を見た。
「今度も、逃げますか?」
恒一は、息を呑んだ。
「……え?」
「佐倉さんは、十年前お母さんを失った。そのとき、最後に名前を呼べなかった」
篠原さんの声は、静かに、しかし強く響いた。
「でも、今度は違います。ひよりちゃんがいる。私がいる」
「篠原さん……」
「逃げないでください。もう、誰も失わないように」
恒一は、何も言えなかった。
篠原さんは続けた。
「佐倉さんは優しい人です。でも、その優しさは時に、自分を守るための壁になってる」
「……」
「私は、その壁の向こう側にいる佐倉さんを知りたい。本当の佐倉さんを」
篠原さんの目には、涙が浮かんでいた。
「だから、お願いです。私の名前を呼んでください」
恒一は、篠原さんをまっすぐ見つめた。
心臓が、激しく打っていた。
名前を呼ぶこと。
それは、近づくこと。
失うことを覚悟すること。
でも――
恒一は、ゆっくりと口を開いた。
「……由紀さん」
篠原さんの目が、大きく見開かれた。
「もう一度」
「由紀さん」
恒一は、もう一度呼んだ。
由紀は、涙を流した。
「ありがとう」
恒一は、由紀の手を取った。
「俺、もう逃げません」
「……うん」
「ひよりちゃんのために、美和さんのために、そしてあなたのために」
恒一の声は、震えていた。
「俺にできることをします」
由紀は頷いた。
二人は、病室のドアを見つめた。
その夜、美和の容態は安定した。
奇跡的に、呼吸も落ち着き、意識も少しだけ戻った。
医師は「峠は越えたかもしれません」と言った。
けれど、「まだ予断を許さない」とも付け加えた。
ひよりは母の横で眠っていた。
由紀と恒一は、廊下のベンチに座っていた。
夜明けが近づいている。
窓の外が、少しずつ明るくなり始めていた。
「佐倉さん」
「はい」
「さっき、私の名前呼んでくれましたよね」
「……はい」
「嬉しかった」
由紀は恒一の方を向いた。
「でも、それだけじゃダメです」
「……え?」
「これから、ずっと呼んでください」
由紀は微笑んだ。
「私も、佐倉さんじゃなくて、恒一さんって呼びます」
恒一は、少しだけ驚いた顔をした。
それから、小さく笑った。
「……わかりました」
「約束ですよ」
「はい」
二人は、静かに夜明けを待った。
窓の外で、空がオレンジ色に染まり始めていた。
新しい一日が、始まろうとしていた。



