由紀が佐倉恒一に告白しようと決めたのは、それからさらに一週間後のことだった。
きっかけは、ひよりちゃんの何気ない一言だった。
病院の待合室で、ひよりちゃんが絵本を読みながらぽつりと言った。
「篠原さんって、佐倉さんのこと好きなんでしょ?」
由紀は思わず手元の書類を落としそうになった。
「え……?」
「だって、佐倉さんの話するとき、顔が優しくなるもん」
ひよりちゃんはまっすぐに由紀を見つめた。
「お母さんも、わたしのこと好きなときそういう顔する」
由紀は、何も言えなかった。
ひよりちゃんは絵本を閉じて、膝の上に置いた。
「でも、お母さんは最近わたしの名前呼んでくれない。篠原さんも、佐倉さんの名前呼んでないよね」
「……それは」
「好きなのに、呼べないの?」
ひよりちゃんの声には、非難の色はなかった。
ただ、純粋な疑問があるだけだった。
由紀は深く息をついた。
「ひよりちゃんの言う通りかもね」
「じゃあ、呼べばいいじゃん」
「……そうだね」
由紀は小さく笑った。
「呼べばいいんだよね」
その日の夜。
由紀は自宅で、スマホを握りしめていた。
画面には、恒一の連絡先が表示されている。
もう何度も見た画面。
けれど、今日は違った。
由紀は、通話ボタンを押した。
コール音が二回鳴った。
「もしもし」
恒一の声。
由紀は一瞬、息を止めた。
「佐倉さん、篠原です」
「篠原さん。どうかしましたか?」
「あの……仕事じゃないんです。個人的なお話で」
少しの沈黙。
「……はい」
「今、お時間大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
由紀は深く息を吸った。
「あのですね、私……佐倉さんに、ちゃんと伝えたいことがあって」
「……」
「会って、お話しできませんか?」
また沈黙。
由紀の心臓は、早鐘を打っていた。
恒一が答えた。
「……わかりました。いつがいいですか?」
「明日の夕方とか……」
「大丈夫です。どこで会いましょうか」
「市役所の近くの公園、わかりますか?」
「はい」
「じゃあ、六時に」
「わかりました」
電話が切れた。
由紀はスマホを握ったまま、ソファに沈み込んだ。
──言ってしまった。
もう後には引けない。
翌日。
由紀は仕事が手につかなかった。
書類を見ても、文字が頭に入ってこない。
患者さんと話していても、上の空になりそうになる。
午後五時。
由紀は早めに病院を出た。
公園まで歩いて十五分。
由紀は少し早く着いて、ベンチに座って待った。
冬の夕暮れは早い。もう空は薄暗くなり始めていた。
午後六時。
恒一が現れた。
いつものスーツ姿。コートを着て、少し寒そうにしている。
由紀は立ち上がり、軽く手を振った。
恒一は歩み寄ってきた。
「お待たせしました」
「ううん、私も今来たところです」
二人は並んでベンチに座った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
公園には誰もいない。
滑り台とブランコが、静かに風に揺れている。
由紀が先に口を開いた。
「あの、急に呼び出してごめんなさい」
「いえ」
「でも、電話じゃ言えなくて」
由紀は膝の上で手を組んだ。
「佐倉さんに、伝えたいことがあるんです」
恒一は黙って待っていた。
由紀は深く息を吸った。
「私……佐倉さんのこと、好きです」
言葉が、空気の中に溶けた。
恒一は、動かなかった。
由紀は続けた。
「最初はただ、仕事で関わってるだけだって思ってました。でも、ひよりちゃんと三人で過ごす時間が増えて、佐倉さんのことをもっと知りたいって思うようになって」
由紀の声は震えていた。
「佐倉さんは優しくて、誠実で、誰よりもひよりちゃんのことを考えてくれて。そんな佐倉さんを見てるうちに、気づいたら……好きになってました」
恒一は、まだ何も言わなかった。
由紀は少しだけ笑った。
「でも、佐倉さんは私の名前、呼んでくれませんよね」
恒一の肩が、わずかに動いた。
「いつも『篠原さん』って。それが、すごく寂しくて」
由紀は恒一の方を向いた。
「私のこと、どう思ってますか?」
恒一は、ようやく口を開いた。
「……篠原さん」
「はい」
「俺は……」
恒一は言葉を探していた。
由紀は待った。
恒一は視線を落とした。
「俺は、誰かを好きになることが、怖いんです」
由紀は息を呑んだ。
「怖い……?」
「はい」
恒一は、ゆっくりと話し始めた。
「十年前、母が亡くなりました。入院してるって連絡をもらったんですが、俺は仕事を理由に会いに行かなかった。母からの留守電も、すぐに聞かなかった」
恒一の声は、静かに震えていた。
「そのまま、母は逝きました。俺が最後に母の名前を呼んだのがいつだったのか、もう思い出せません」
由紀は、何も言えなかった。
恒一は続けた。
「それから、俺は誰の名前も呼ばないようになりました。近づきすぎると、失ったときの痛みが大きくなる。だから、最初から距離を保つ。それが、俺のやり方でした」
恒一は顔を上げた。
「篠原さんのことは……」
恒一は言葉を選んだ。
「……好きです」
由紀の胸が、熱くなった。
「でも、俺にはあなたの名前を呼ぶ勇気がない。近づく勇気がない。失うことが、怖いんです」
恒一の目には、痛みが宿っていた。
「だから……ごめんなさい」
由紀は、涙がこぼれそうになるのを堪えた。
好きだと言ってくれた。
でも、それは同時に──これ以上近づけない、という宣言でもあった。
由紀は小さく笑った。
「佐倉さんって、本当に優しいですね」
「……」
「自分が傷つくより、相手を傷つけない方を選ぶんですね」
由紀は立ち上がった。
「でも、それって……すごく寂しいことだと思います」
恒一は何も言えなかった。
由紀は恒一を見下ろした。
「私、待ちます」
「……え?」
「佐倉さんが、私の名前を呼んでくれる日まで」
由紀は微笑んだ。
「それがいつになるかわからないけど、私は待ちます。だから……」
由紀の声が、少しだけ震えた。
「逃げないでください」
恒一は、由紀をまっすぐ見つめた。
由紀は小さく頭を下げて、公園を出た。
恒一は、その背中を見送ることしかできなかった。
由紀が帰ったあと、恒一はしばらくベンチに座ったままだった。
空はもう暗くなっていた。
街灯が、一つずつ灯り始めている。
恒一は、由紀の言葉を反芻していた。
『逃げないでください』
逃げている、のか。
恒一は、自分では「守っている」つもりだった。
誰かを傷つけないように。
自分が傷つかないように。
けれど、由紀の目には──それが「逃げ」に見えていた。
恒一は立ち上がり、公園を出た。
アパートへの道を歩きながら、恒一は何度も由紀の顔を思い浮かべた。
『好きです』
あんなふうに、まっすぐに言ってくれた。
恒一も、同じ気持ちだった。
けれど、それを形にすることが──名前を呼ぶことが、怖かった。
恒一はアパートに着き、部屋に入った。
電気をつけ、コートを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
母の顔が浮かんだ。
そして、由紀の顔が重なった。
恒一は目を閉じた。
『由紀さん』
心の中で、名前を呼んだ。
けれど、それを声に出すことは──まだできなかった。
きっかけは、ひよりちゃんの何気ない一言だった。
病院の待合室で、ひよりちゃんが絵本を読みながらぽつりと言った。
「篠原さんって、佐倉さんのこと好きなんでしょ?」
由紀は思わず手元の書類を落としそうになった。
「え……?」
「だって、佐倉さんの話するとき、顔が優しくなるもん」
ひよりちゃんはまっすぐに由紀を見つめた。
「お母さんも、わたしのこと好きなときそういう顔する」
由紀は、何も言えなかった。
ひよりちゃんは絵本を閉じて、膝の上に置いた。
「でも、お母さんは最近わたしの名前呼んでくれない。篠原さんも、佐倉さんの名前呼んでないよね」
「……それは」
「好きなのに、呼べないの?」
ひよりちゃんの声には、非難の色はなかった。
ただ、純粋な疑問があるだけだった。
由紀は深く息をついた。
「ひよりちゃんの言う通りかもね」
「じゃあ、呼べばいいじゃん」
「……そうだね」
由紀は小さく笑った。
「呼べばいいんだよね」
その日の夜。
由紀は自宅で、スマホを握りしめていた。
画面には、恒一の連絡先が表示されている。
もう何度も見た画面。
けれど、今日は違った。
由紀は、通話ボタンを押した。
コール音が二回鳴った。
「もしもし」
恒一の声。
由紀は一瞬、息を止めた。
「佐倉さん、篠原です」
「篠原さん。どうかしましたか?」
「あの……仕事じゃないんです。個人的なお話で」
少しの沈黙。
「……はい」
「今、お時間大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
由紀は深く息を吸った。
「あのですね、私……佐倉さんに、ちゃんと伝えたいことがあって」
「……」
「会って、お話しできませんか?」
また沈黙。
由紀の心臓は、早鐘を打っていた。
恒一が答えた。
「……わかりました。いつがいいですか?」
「明日の夕方とか……」
「大丈夫です。どこで会いましょうか」
「市役所の近くの公園、わかりますか?」
「はい」
「じゃあ、六時に」
「わかりました」
電話が切れた。
由紀はスマホを握ったまま、ソファに沈み込んだ。
──言ってしまった。
もう後には引けない。
翌日。
由紀は仕事が手につかなかった。
書類を見ても、文字が頭に入ってこない。
患者さんと話していても、上の空になりそうになる。
午後五時。
由紀は早めに病院を出た。
公園まで歩いて十五分。
由紀は少し早く着いて、ベンチに座って待った。
冬の夕暮れは早い。もう空は薄暗くなり始めていた。
午後六時。
恒一が現れた。
いつものスーツ姿。コートを着て、少し寒そうにしている。
由紀は立ち上がり、軽く手を振った。
恒一は歩み寄ってきた。
「お待たせしました」
「ううん、私も今来たところです」
二人は並んでベンチに座った。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
公園には誰もいない。
滑り台とブランコが、静かに風に揺れている。
由紀が先に口を開いた。
「あの、急に呼び出してごめんなさい」
「いえ」
「でも、電話じゃ言えなくて」
由紀は膝の上で手を組んだ。
「佐倉さんに、伝えたいことがあるんです」
恒一は黙って待っていた。
由紀は深く息を吸った。
「私……佐倉さんのこと、好きです」
言葉が、空気の中に溶けた。
恒一は、動かなかった。
由紀は続けた。
「最初はただ、仕事で関わってるだけだって思ってました。でも、ひよりちゃんと三人で過ごす時間が増えて、佐倉さんのことをもっと知りたいって思うようになって」
由紀の声は震えていた。
「佐倉さんは優しくて、誠実で、誰よりもひよりちゃんのことを考えてくれて。そんな佐倉さんを見てるうちに、気づいたら……好きになってました」
恒一は、まだ何も言わなかった。
由紀は少しだけ笑った。
「でも、佐倉さんは私の名前、呼んでくれませんよね」
恒一の肩が、わずかに動いた。
「いつも『篠原さん』って。それが、すごく寂しくて」
由紀は恒一の方を向いた。
「私のこと、どう思ってますか?」
恒一は、ようやく口を開いた。
「……篠原さん」
「はい」
「俺は……」
恒一は言葉を探していた。
由紀は待った。
恒一は視線を落とした。
「俺は、誰かを好きになることが、怖いんです」
由紀は息を呑んだ。
「怖い……?」
「はい」
恒一は、ゆっくりと話し始めた。
「十年前、母が亡くなりました。入院してるって連絡をもらったんですが、俺は仕事を理由に会いに行かなかった。母からの留守電も、すぐに聞かなかった」
恒一の声は、静かに震えていた。
「そのまま、母は逝きました。俺が最後に母の名前を呼んだのがいつだったのか、もう思い出せません」
由紀は、何も言えなかった。
恒一は続けた。
「それから、俺は誰の名前も呼ばないようになりました。近づきすぎると、失ったときの痛みが大きくなる。だから、最初から距離を保つ。それが、俺のやり方でした」
恒一は顔を上げた。
「篠原さんのことは……」
恒一は言葉を選んだ。
「……好きです」
由紀の胸が、熱くなった。
「でも、俺にはあなたの名前を呼ぶ勇気がない。近づく勇気がない。失うことが、怖いんです」
恒一の目には、痛みが宿っていた。
「だから……ごめんなさい」
由紀は、涙がこぼれそうになるのを堪えた。
好きだと言ってくれた。
でも、それは同時に──これ以上近づけない、という宣言でもあった。
由紀は小さく笑った。
「佐倉さんって、本当に優しいですね」
「……」
「自分が傷つくより、相手を傷つけない方を選ぶんですね」
由紀は立ち上がった。
「でも、それって……すごく寂しいことだと思います」
恒一は何も言えなかった。
由紀は恒一を見下ろした。
「私、待ちます」
「……え?」
「佐倉さんが、私の名前を呼んでくれる日まで」
由紀は微笑んだ。
「それがいつになるかわからないけど、私は待ちます。だから……」
由紀の声が、少しだけ震えた。
「逃げないでください」
恒一は、由紀をまっすぐ見つめた。
由紀は小さく頭を下げて、公園を出た。
恒一は、その背中を見送ることしかできなかった。
由紀が帰ったあと、恒一はしばらくベンチに座ったままだった。
空はもう暗くなっていた。
街灯が、一つずつ灯り始めている。
恒一は、由紀の言葉を反芻していた。
『逃げないでください』
逃げている、のか。
恒一は、自分では「守っている」つもりだった。
誰かを傷つけないように。
自分が傷つかないように。
けれど、由紀の目には──それが「逃げ」に見えていた。
恒一は立ち上がり、公園を出た。
アパートへの道を歩きながら、恒一は何度も由紀の顔を思い浮かべた。
『好きです』
あんなふうに、まっすぐに言ってくれた。
恒一も、同じ気持ちだった。
けれど、それを形にすることが──名前を呼ぶことが、怖かった。
恒一はアパートに着き、部屋に入った。
電気をつけ、コートを脱ぎ、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見つめる。
母の顔が浮かんだ。
そして、由紀の顔が重なった。
恒一は目を閉じた。
『由紀さん』
心の中で、名前を呼んだ。
けれど、それを声に出すことは──まだできなかった。



