由紀が佐倉恒一を意識し始めたのは、正確にいつからだったのか、自分でもわからなかった。
最初に市役所を訪れたとき、彼は丁寧で、的確で、感じがいい職員だと思った。
二度目に会ったとき、少しだけ「この人、何か抱えてるな」と感じた。
三度目──ひよりちゃんを連れて行ったとき、彼がひよりちゃんの頭に手を置いた瞬間を見て、由紀の胸は少しだけ温かくなった。
そして、カフェで三人で過ごした日。
公園で並んで歩いた夕暮れの時間。
由紀は気づいてしまった。
自分が、佐倉恒一に惹かれていることを。
それから数日後。
由紀は病院の相談室で、ひよりちゃんの母・美和さんと面談をしていた。
美和さんは三十四歳。細身で、少し疲れた表情をしている。けれど、目には強い意志が宿っていた。
「ひよりには、まだ全部は話してないんです」
美和さんは静かに言った。
「病気のこと、治療のこと。あの子なりに気づいてるとは思うんですけど……言葉にしたら、本当になっちゃう気がして」
由紀は頷いた。
「お気持ち、わかります。でも、ひよりちゃんはもう気づいてますよ」
「……そうですよね」
美和さんは目を伏せた。
「あの子、最近わたしのこと、名前で呼ばなくなったんです」
「名前で?」
「はい。前は『お母さん』って呼んでくれてたんですけど、最近は『ねえ』とか、そういう呼びかけばっかりで」
美和さんは小さく笑った。
「きっと、怖いんだと思います。名前を呼んだら、わたしがいなくなっちゃうんじゃないかって」
由紀は胸が痛んだ。
「美和さん……」
「わたしも同じです。ひよりの名前、ちゃんと呼べてない。呼んだら、別れが近づく気がして」
美和さんの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「でも、それって間違ってますよね。名前って、大切な人を呼ぶためにあるのに」
由紀は、何も言えなかった。
ただ、美和さんの手をそっと握った。
美和さんは、その手を握り返した。
面談を終えて相談室を出ると、廊下の窓際にひよりちゃんが座っていた。
絵本を読んでいる。
由紀は隣に座った。
「ひよりちゃん、待っててくれてありがとう」
「ううん」
ひよりちゃんは絵本を閉じて、由紀を見上げた。
「篠原さん、お母さんと何話してたの?」
「お母さんの体のこととか、これからのこととか」
「……お母さん、死んじゃうの?」
ひよりちゃんの声は、驚くほど冷静だった。
由紀は少しだけ驚いたが、すぐに答えた。
「わからない。でも、お医者さんも篠原さんも、お母さんが少しでも元気でいられるように頑張ってるよ」
「うん」
ひよりちゃんは頷いた。
「わたしもね、お母さんが元気でいてほしい。でも……」
ひよりちゃんは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「もし、お母さんがいなくなっちゃったら、わたし、ちゃんと名前呼んであげられなかったこと、後悔すると思う」
由紀は息を呑んだ。
「……名前?」
「うん。最近、お母さんのこと『お母さん』って呼んでない。『ねえ』とか『ちょっと』とか、そういうのばっかり」
ひよりちゃんは膝の上で手を組んだ。
「呼んだら、終わっちゃう気がして。でも、呼ばなかったら、もっと後悔する気がする」
由紀は、ひよりちゃんの肩を抱いた。
「ひよりちゃんは、すごく大人だね」
「大人じゃないよ。怖いもん」
ひよりちゃんは由紀の腕の中で、小さく震えていた。
「でもね、佐倉さんが言ってた。『名前は、届く』って」
「佐倉さんが?」
「うん。前に、わたしがお母さんのこと話したとき、そう言ってくれた気がする」
由紀は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
佐倉さんは、ひよりちゃんにそんな言葉をかけていたのか。
それは、きっと彼自身が抱えている痛みから出た言葉なのだろう。
その日の夜。
由紀は自宅のソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面には何かのドラマが映っているが、内容は頭に入ってこない。
由紀が考えていたのは、佐倉恒一のことだった。
彼は優しい。
誰に対しても丁寧で、誠実で、傷つけることを恐れている。
けれど、それは同時に──誰にも本当の距離まで近づかせないということでもある。
由紀は自分の気持ちに気づいていた。
好きだ、と。
佐倉さんのことが、好きだ。
でも、それを伝えることができるのか。
伝えたとして、彼は受け止めてくれるのか。
それ以前に──彼は、由紀の名前を呼んでくれるのか。
由紀はため息をついた。
スマホを手に取り、連絡先リストを開く。
佐倉恒一
名前の横には、市役所の番号が登録されている。
由紀は、通話ボタンに指を置いた。
けれど、押せなかった。
何を話せばいいのか。
「好きです」と言えるわけがない。
「もっと近づきたい」と言うのも、重すぎる。
由紀はスマホを置いた。
翌週。
由紀が病院で仕事をしていると、受付から内線が入った。
「篠原さん、市役所の佐倉さんから電話です」
由紀は少し驚いた。
佐倉さんから?
由紀は急いで電話に出た。
「もしもし、篠原です」
「篠原さん、佐倉です」
恒一の声は、いつもと同じように落ち着いていた。
「お疲れさまです。どうかしましたか?」
「山本さんのケースで、少し確認したいことがあって」
「はい」
恒一は淡々と説明を始めた。
制度の適用範囲、書類の提出期限、今後の流れ。
由紀は丁寧にメモを取りながら、相槌を打った。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
この人と、もっと話したい。
仕事の話じゃなく、もっと個人的な話を。
あなたのこと、もっと知りたい。
電話が終わろうとしたとき、由紀は思わず言った。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「今度、また……三人でお茶でもどうですか?」
少しの沈黙。
由紀は自分の心臓の音が聞こえる気がした。
「……いいんですか?」
「はい。ひよりちゃんも、佐倉さんに会うの楽しみにしてるみたいですし」
「わかりました。じゃあ、また日程を調整しましょう」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
由紀はスマホを握ったまま、深く息をついた。
──また、逃げた。
本当は「ひよりちゃんも」じゃなくて、「私も」と言いたかった。
でも、言えなかった。
由紀は自分の臆病さに、少しだけ腹が立った。
それから数日後。
日曜日の午後。
恒一、由紀、ひよりちゃんは、前と同じカフェで待ち合わせた。
ひよりちゃんは今日も機嫌がよく、恒一に学校での出来事を話していた。
由紀はその様子を見ながら、微笑んでいた。
けれど、心のどこかで焦りを感じていた。
このままでいいのか。
このまま、何も言わないまま時間だけが過ぎていくのか。
ひよりちゃんがトイレに立ったとき、由紀と恒一は二人きりになった。
由紀は少しだけ緊張しながら、口を開いた。
「佐倉さん」
「はい」
「私、佐倉さんともっとお話ししたいなって思ってるんです」
恒一は少し驚いた表情を見せた。
「……仕事のことですか?」
「いえ、そうじゃなくて」
由紀は視線を落とした。
「もっと、個人的なこと。佐倉さんのこと、知りたいです」
恒一は、何も言わなかった。
由紀は続けた。
「無理にとは言いません。でも……もし、話してくれるなら、ちゃんと聞きます」
「……篠原さん」
「はい」
「俺は……」
恒一は言葉を探していた。
けれど、その先が出てこなかった。
そのとき、ひよりちゃんが戻ってきた。
「ただいまー」
ひよりちゃんは屈託なく笑った。
由紀は笑顔を作って、ひよりちゃんを迎えた。
恒一も、いつもの穏やかな表情に戻った。
けれど、由紀には伝わっていた。
彼は、まだ踏み出せない。
名前すら、呼べない。
その夜。
由紀はベッドに横になりながら、天井を見つめていた。
『もし、話してくれるなら、ちゃんと聞きます』
あんなふうに言ってしまった。
でも、彼は答えてくれなかった。
由紀は目を閉じた。
好きになるのが、怖い。
相手が踏み込んでこないとわかっているのに、自分だけ近づいていくのが、怖い。
由紀は、ひよりちゃんの言葉を思い出した。
『好きなら、呼べばいいのに。名前』
そうだ。
呼べばいい。
「佐倉さん」じゃなくて、「恒一さん」と。
でも──それを口にする勇気が、由紀にはまだなかった。
由紀は枕に顔を埋めた。
涙が、少しだけ滲んだ。
──好きなのに、届かない。
それが、どれだけ苦しいことか。
由紀は初めて、ひよりちゃんの気持ちが少しだけわかった気がした。
最初に市役所を訪れたとき、彼は丁寧で、的確で、感じがいい職員だと思った。
二度目に会ったとき、少しだけ「この人、何か抱えてるな」と感じた。
三度目──ひよりちゃんを連れて行ったとき、彼がひよりちゃんの頭に手を置いた瞬間を見て、由紀の胸は少しだけ温かくなった。
そして、カフェで三人で過ごした日。
公園で並んで歩いた夕暮れの時間。
由紀は気づいてしまった。
自分が、佐倉恒一に惹かれていることを。
それから数日後。
由紀は病院の相談室で、ひよりちゃんの母・美和さんと面談をしていた。
美和さんは三十四歳。細身で、少し疲れた表情をしている。けれど、目には強い意志が宿っていた。
「ひよりには、まだ全部は話してないんです」
美和さんは静かに言った。
「病気のこと、治療のこと。あの子なりに気づいてるとは思うんですけど……言葉にしたら、本当になっちゃう気がして」
由紀は頷いた。
「お気持ち、わかります。でも、ひよりちゃんはもう気づいてますよ」
「……そうですよね」
美和さんは目を伏せた。
「あの子、最近わたしのこと、名前で呼ばなくなったんです」
「名前で?」
「はい。前は『お母さん』って呼んでくれてたんですけど、最近は『ねえ』とか、そういう呼びかけばっかりで」
美和さんは小さく笑った。
「きっと、怖いんだと思います。名前を呼んだら、わたしがいなくなっちゃうんじゃないかって」
由紀は胸が痛んだ。
「美和さん……」
「わたしも同じです。ひよりの名前、ちゃんと呼べてない。呼んだら、別れが近づく気がして」
美和さんの目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「でも、それって間違ってますよね。名前って、大切な人を呼ぶためにあるのに」
由紀は、何も言えなかった。
ただ、美和さんの手をそっと握った。
美和さんは、その手を握り返した。
面談を終えて相談室を出ると、廊下の窓際にひよりちゃんが座っていた。
絵本を読んでいる。
由紀は隣に座った。
「ひよりちゃん、待っててくれてありがとう」
「ううん」
ひよりちゃんは絵本を閉じて、由紀を見上げた。
「篠原さん、お母さんと何話してたの?」
「お母さんの体のこととか、これからのこととか」
「……お母さん、死んじゃうの?」
ひよりちゃんの声は、驚くほど冷静だった。
由紀は少しだけ驚いたが、すぐに答えた。
「わからない。でも、お医者さんも篠原さんも、お母さんが少しでも元気でいられるように頑張ってるよ」
「うん」
ひよりちゃんは頷いた。
「わたしもね、お母さんが元気でいてほしい。でも……」
ひよりちゃんは、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「もし、お母さんがいなくなっちゃったら、わたし、ちゃんと名前呼んであげられなかったこと、後悔すると思う」
由紀は息を呑んだ。
「……名前?」
「うん。最近、お母さんのこと『お母さん』って呼んでない。『ねえ』とか『ちょっと』とか、そういうのばっかり」
ひよりちゃんは膝の上で手を組んだ。
「呼んだら、終わっちゃう気がして。でも、呼ばなかったら、もっと後悔する気がする」
由紀は、ひよりちゃんの肩を抱いた。
「ひよりちゃんは、すごく大人だね」
「大人じゃないよ。怖いもん」
ひよりちゃんは由紀の腕の中で、小さく震えていた。
「でもね、佐倉さんが言ってた。『名前は、届く』って」
「佐倉さんが?」
「うん。前に、わたしがお母さんのこと話したとき、そう言ってくれた気がする」
由紀は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
佐倉さんは、ひよりちゃんにそんな言葉をかけていたのか。
それは、きっと彼自身が抱えている痛みから出た言葉なのだろう。
その日の夜。
由紀は自宅のソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面には何かのドラマが映っているが、内容は頭に入ってこない。
由紀が考えていたのは、佐倉恒一のことだった。
彼は優しい。
誰に対しても丁寧で、誠実で、傷つけることを恐れている。
けれど、それは同時に──誰にも本当の距離まで近づかせないということでもある。
由紀は自分の気持ちに気づいていた。
好きだ、と。
佐倉さんのことが、好きだ。
でも、それを伝えることができるのか。
伝えたとして、彼は受け止めてくれるのか。
それ以前に──彼は、由紀の名前を呼んでくれるのか。
由紀はため息をついた。
スマホを手に取り、連絡先リストを開く。
佐倉恒一
名前の横には、市役所の番号が登録されている。
由紀は、通話ボタンに指を置いた。
けれど、押せなかった。
何を話せばいいのか。
「好きです」と言えるわけがない。
「もっと近づきたい」と言うのも、重すぎる。
由紀はスマホを置いた。
翌週。
由紀が病院で仕事をしていると、受付から内線が入った。
「篠原さん、市役所の佐倉さんから電話です」
由紀は少し驚いた。
佐倉さんから?
由紀は急いで電話に出た。
「もしもし、篠原です」
「篠原さん、佐倉です」
恒一の声は、いつもと同じように落ち着いていた。
「お疲れさまです。どうかしましたか?」
「山本さんのケースで、少し確認したいことがあって」
「はい」
恒一は淡々と説明を始めた。
制度の適用範囲、書類の提出期限、今後の流れ。
由紀は丁寧にメモを取りながら、相槌を打った。
けれど、心の中では別のことを考えていた。
この人と、もっと話したい。
仕事の話じゃなく、もっと個人的な話を。
あなたのこと、もっと知りたい。
電話が終わろうとしたとき、由紀は思わず言った。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「今度、また……三人でお茶でもどうですか?」
少しの沈黙。
由紀は自分の心臓の音が聞こえる気がした。
「……いいんですか?」
「はい。ひよりちゃんも、佐倉さんに会うの楽しみにしてるみたいですし」
「わかりました。じゃあ、また日程を調整しましょう」
「ありがとうございます」
電話が切れた。
由紀はスマホを握ったまま、深く息をついた。
──また、逃げた。
本当は「ひよりちゃんも」じゃなくて、「私も」と言いたかった。
でも、言えなかった。
由紀は自分の臆病さに、少しだけ腹が立った。
それから数日後。
日曜日の午後。
恒一、由紀、ひよりちゃんは、前と同じカフェで待ち合わせた。
ひよりちゃんは今日も機嫌がよく、恒一に学校での出来事を話していた。
由紀はその様子を見ながら、微笑んでいた。
けれど、心のどこかで焦りを感じていた。
このままでいいのか。
このまま、何も言わないまま時間だけが過ぎていくのか。
ひよりちゃんがトイレに立ったとき、由紀と恒一は二人きりになった。
由紀は少しだけ緊張しながら、口を開いた。
「佐倉さん」
「はい」
「私、佐倉さんともっとお話ししたいなって思ってるんです」
恒一は少し驚いた表情を見せた。
「……仕事のことですか?」
「いえ、そうじゃなくて」
由紀は視線を落とした。
「もっと、個人的なこと。佐倉さんのこと、知りたいです」
恒一は、何も言わなかった。
由紀は続けた。
「無理にとは言いません。でも……もし、話してくれるなら、ちゃんと聞きます」
「……篠原さん」
「はい」
「俺は……」
恒一は言葉を探していた。
けれど、その先が出てこなかった。
そのとき、ひよりちゃんが戻ってきた。
「ただいまー」
ひよりちゃんは屈託なく笑った。
由紀は笑顔を作って、ひよりちゃんを迎えた。
恒一も、いつもの穏やかな表情に戻った。
けれど、由紀には伝わっていた。
彼は、まだ踏み出せない。
名前すら、呼べない。
その夜。
由紀はベッドに横になりながら、天井を見つめていた。
『もし、話してくれるなら、ちゃんと聞きます』
あんなふうに言ってしまった。
でも、彼は答えてくれなかった。
由紀は目を閉じた。
好きになるのが、怖い。
相手が踏み込んでこないとわかっているのに、自分だけ近づいていくのが、怖い。
由紀は、ひよりちゃんの言葉を思い出した。
『好きなら、呼べばいいのに。名前』
そうだ。
呼べばいい。
「佐倉さん」じゃなくて、「恒一さん」と。
でも──それを口にする勇気が、由紀にはまだなかった。
由紀は枕に顔を埋めた。
涙が、少しだけ滲んだ。
──好きなのに、届かない。
それが、どれだけ苦しいことか。
由紀は初めて、ひよりちゃんの気持ちが少しだけわかった気がした。



