由紀が再び市役所を訪れたのは、前回から一週間後のことだった。
今度は書類の確認ではなく、ひよりを連れてきていた。
午後三時。まだ窓口が混み合う前の時間帯。
恒一がカウンターで作業をしていると、入口のドアが開き、由紀とひよりが並んで入ってきた。
ひよりは由紀の隣で少し緊張した様子だったが、恒一を見つけると小さく手を振った。
恒一は立ち上がり、カウンターから出て二人に近づいた。
「ひよりちゃん。篠原さんも」
「こんにちは、佐倉さん」
由紀は穏やかに笑った。
「今日は、ひよりちゃんと一緒に手続きの確認に来たんです。お時間、大丈夫ですか?」
「はい。相談室へどうぞ」
恒一は二人を相談室へ案内した。
ひよりは由紀の隣に座り、少しだけ恒一の方を見た。
「佐倉さん、お母さんのこと、ちゃんと手伝ってくれてるんだよね」
「うん。できる範囲でね」
恒一は優しく答えた。
由紀が口を挟んだ。
「ひよりちゃんね、今日は自分から『市役所に行きたい』って言ってくれたんです」
「そうなんだ」
「うん。お母さんのことちゃんと知りたいから」
ひよりはまっすぐに恒一を見つめた。
その瞳には、九歳とは思えない覚悟のようなものが宿っていた。
恒一は資料を広げながら、ゆっくりと説明を始めた。
ひとり親世帯への支援制度。医療費の助成。学校との連携の可能性。
ひよりは真剣に聞いていた。時折、由紀が補足を入れる。
三人で話していると、不思議な安心感があった。
恒一は気づいていた。
この二人といると、自分の「壁」が少しだけ薄くなる気がする、と。
手続きの説明が終わると、ひよりは「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
「また何かあったら来てね」
恒一はそう言って、ひよりの頭に軽く手を置いた。
ひよりは少しだけ照れたように笑った。
「佐倉さん、優しいね」
「そんなことないよ」
「ううん、優しい」
ひよりはもう一度笑って、由紀の手を取った。
「篠原さん、帰ろ」
「うん。じゃあ佐倉さん、ありがとうございました」
由紀も立ち上がり、恒一に会釈をした。
恒一は二人を相談室の外まで送った。
廊下を歩きながら、ひよりが由紀に何かを囁いている。
由紀が「え?」と少し驚いた顔をした。
それから、ひよりは振り返って恒一に言った。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「篠原さんのこと、名前で呼ばないの?」
恒一は、息を呑んだ。
「……え?」
「だって、『篠原さん』ってずっと言ってる。『由紀さん』じゃないの?」
ひよりは不思議そうに首を傾げた。
由紀は少し慌てた様子で、ひよりの肩を軽く押した。
「ひより、それは……」
「でも、仲いいんでしょ?」
「仲がいいとか、そういうのじゃなくて……」
由紀は少し顔を赤らめながら、恒一の方を見た。
「すみません、子どもって素直すぎて」
「いえ」
恒一は曖昧に笑った。
けれど、心臓が少しだけ速く打っていた。
ひよりの言葉は、図星だった。
恒一は、由紀のことを「篠原さん」としか呼んでいない。
名前を呼ぶことが、怖かった。
それは、近づきすぎることを意味するから。
二人を見送ったあと、恒一は相談室に戻り、しばらく椅子に座ったままだった。
『篠原さんのこと、名前で呼ばないの?』
ひよりの声が、耳に残っている。
恒一は、由紀の顔を思い浮かべた。
穏やかで、優しくて、でもどこか強い女性。
仕事のときの真剣な表情も、ひよりに微笑みかけるときの柔らかい表情も、恒一の記憶に残っている。
恒一は──気づいていた。
自分が由紀に惹かれていることを。
けれど、それを認めることも、形にすることも、恒一にはできなかった。
名前を呼べば、距離が縮まる。
距離が縮まれば、失ったときの痛みが大きくなる。
恒一は、もうそれを経験したくなかった。
だから、呼ばない。
その夜。
恒一がアパートで一人、夕食を終えたころ、スマホが鳴った。
病院からだった。
恒一は少し驚きながら電話に出た。
「もしもし」
「佐倉さん、篠原です」
由紀の声だった。
恒一は背筋を伸ばした。
「篠原さん。どうかしましたか?」
「あの、今日はひよりがあんなこと言って、すみませんでした」
「いえ、気にしてないです」
「でも……」
由紀は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「ひより、あれでも結構気を遣ってるんです。大人の顔色を見ながら、自分がどう振る舞えばいいか考えてる。だから、あんなふうに素直に疑問を口にするのって、実は珍しいんです」
「……そうなんですか」
「はい。佐倉さんのこと、信頼してるんだと思います」
恒一は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。いつも丁寧に対応していただいて」
それから、少しの沈黙。
恒一は、何か言葉を探していた。
けれど、何を言えばいいのかわからなかった。
由紀が先に口を開いた。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「もしよければ、今度……ひよりも一緒に、三人でお茶でもどうですか?」
恒一は少しだけ驚いた。
「お茶、ですか」
「はい。仕事とは関係なく、ただ……ひよりも佐倉さんと話すの楽しみにしてるみたいだし」
由紀の声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
恒一は迷った。
断る理由はない。
けれど、受け入れることは――距離を縮めることだ。
「……いいんですか?」
「はい。私も、佐倉さんともう少しお話ししたいなって」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の心臓が跳ねた。
「わかりました。じゃあ、また日程を」
「ありがとうございます。じゃあ、また連絡しますね」
「はい」
電話が切れた。
恒一はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
それから数日後。
恒一、由紀、ひよりの三人は、市役所近くの小さなカフェで待ち合わせた。
日曜日の午後。天気は晴れ。
ひよりはいつもよりも少しおしゃれな服を着ていて、由紀は白いニットにジーンズという、いつもとは違う柔らかい雰囲気だった。
恒一も、スーツではなくセーターにチノパンという格好で来ていた。
「佐倉さん、スーツじゃないんだ」
ひよりが最初に言った。
「休みの日だからね」
「なんか、若く見える」
「……そうかな」
恒一は少し照れた。
由紀が笑った。
「確かに。いつもより柔らかい感じがします」
「篠原さんも、いつもと雰囲気違いますね」
恒一がそう言うと、由紀は少しだけ頬を染めた。
「そうですか?」
「はい」
三人はテーブルに座り、それぞれ飲み物を注文した。
ひよりはオレンジジュース、由紀はカフェラテ、恒一はブラックコーヒー。
最初は少しぎこちなかったが、ひよりが話し始めると自然と会話が弾んだ。
「佐倉さんって、お休みの日は何してるの?」
「特に何も。本読んだり、散歩したり」
「つまんなくない?」
「……まあ、そうかもね」
恒一は苦笑した。
由紀が言った。
「私もそうですよ。休みの日は家でゴロゴロしてることが多いです」
「篠原さんもそうなんですか」
「はい。映画見たり、料理したり」
「料理、得意なんですか?」
「まあまあ、かな」
由紀は少し照れたように笑った。
ひよりが言った。
「じゃあ、今度お家に呼んでよ」
「え?」
「わたし、篠原さんの料理食べたい」
由紀は少し困ったように笑った。
「それは……お母さんに許可もらわないと」
「大丈夫、お母さん最近元気だし」
ひよりは屈託なく笑った。
恒一は、その笑顔を見て少しだけ安心した。
ひよりは、まだ笑える。
それだけで、救われる気がした。
カフェを出たあと、三人は少しだけ近くの公園を歩いた。
冬の夕暮れ。空はオレンジ色に染まっている。
ひよりは少し先を歩いていて、由紀と恒一は並んで歩いていた。
由紀が静かに言った。
「ひより、楽しそうでしたね」
「そうですね」
「佐倉さんのおかげです」
「いえ、篠原さんがいてくれたから」
由紀は少しだけ恒一を見た。
「佐倉さんって、優しいですよね」
「……そんなことないです」
「いえ、優しい。でも……」
由紀は言葉を探すように視線を落とした。
「どこか、遠いなって思うときがあります」
恒一は、息を止めた。
「遠い、ですか」
「はい。すごく丁寧で、優しいんだけど、どこか一線を引いてるような」
由紀の声は、責めるような響きではなかった。
ただ、静かに、事実を述べているだけだった。
恒一は、何も言えなかった。
図星だったから。
由紀は続けた。
「でも、それってきっと、理由があるんですよね」
「……」
「無理に聞こうとは思いません。ただ……」
由紀は立ち止まり、恒一の方を向いた。
「もし、いつか話してくれる日が来たら、ちゃんと聞きます」
恒一は、由紀の瞳をまっすぐ見つめた。
その瞳には、優しさと、強さと、少しだけ寂しさが混ざっていた。
「……ありがとうございます」
恒一はそれだけしか言えなかった。
由紀は小さく笑った。
「私、佐倉さんのこと、もっと知りたいなって思ってます」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の胸が締めつけられた。
嬉しさと、恐怖が、同時に襲ってきた。
恒一は──由紀に惹かれている。
けれど、近づけない。
名前を呼べない。
それが、恒一の限界だった。
その夜、恒一はアパートのベッドで横になりながら、由紀の言葉を反芻していた。
『もっと知りたいなって思ってます』
恒一も、由紀のことをもっと知りたかった。
でも、知れば知るほど、失うことが怖くなる。
恒一は天井を見つめた。
母の顔が、浮かんだ。
そして──由紀の顔が、重なった。
恒一は目を閉じた。
『由紀さん』
心の中で、初めて名前を呼んだ。
けれど、それを口に出すことは、まだできなかった。
今度は書類の確認ではなく、ひよりを連れてきていた。
午後三時。まだ窓口が混み合う前の時間帯。
恒一がカウンターで作業をしていると、入口のドアが開き、由紀とひよりが並んで入ってきた。
ひよりは由紀の隣で少し緊張した様子だったが、恒一を見つけると小さく手を振った。
恒一は立ち上がり、カウンターから出て二人に近づいた。
「ひよりちゃん。篠原さんも」
「こんにちは、佐倉さん」
由紀は穏やかに笑った。
「今日は、ひよりちゃんと一緒に手続きの確認に来たんです。お時間、大丈夫ですか?」
「はい。相談室へどうぞ」
恒一は二人を相談室へ案内した。
ひよりは由紀の隣に座り、少しだけ恒一の方を見た。
「佐倉さん、お母さんのこと、ちゃんと手伝ってくれてるんだよね」
「うん。できる範囲でね」
恒一は優しく答えた。
由紀が口を挟んだ。
「ひよりちゃんね、今日は自分から『市役所に行きたい』って言ってくれたんです」
「そうなんだ」
「うん。お母さんのことちゃんと知りたいから」
ひよりはまっすぐに恒一を見つめた。
その瞳には、九歳とは思えない覚悟のようなものが宿っていた。
恒一は資料を広げながら、ゆっくりと説明を始めた。
ひとり親世帯への支援制度。医療費の助成。学校との連携の可能性。
ひよりは真剣に聞いていた。時折、由紀が補足を入れる。
三人で話していると、不思議な安心感があった。
恒一は気づいていた。
この二人といると、自分の「壁」が少しだけ薄くなる気がする、と。
手続きの説明が終わると、ひよりは「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
「また何かあったら来てね」
恒一はそう言って、ひよりの頭に軽く手を置いた。
ひよりは少しだけ照れたように笑った。
「佐倉さん、優しいね」
「そんなことないよ」
「ううん、優しい」
ひよりはもう一度笑って、由紀の手を取った。
「篠原さん、帰ろ」
「うん。じゃあ佐倉さん、ありがとうございました」
由紀も立ち上がり、恒一に会釈をした。
恒一は二人を相談室の外まで送った。
廊下を歩きながら、ひよりが由紀に何かを囁いている。
由紀が「え?」と少し驚いた顔をした。
それから、ひよりは振り返って恒一に言った。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「篠原さんのこと、名前で呼ばないの?」
恒一は、息を呑んだ。
「……え?」
「だって、『篠原さん』ってずっと言ってる。『由紀さん』じゃないの?」
ひよりは不思議そうに首を傾げた。
由紀は少し慌てた様子で、ひよりの肩を軽く押した。
「ひより、それは……」
「でも、仲いいんでしょ?」
「仲がいいとか、そういうのじゃなくて……」
由紀は少し顔を赤らめながら、恒一の方を見た。
「すみません、子どもって素直すぎて」
「いえ」
恒一は曖昧に笑った。
けれど、心臓が少しだけ速く打っていた。
ひよりの言葉は、図星だった。
恒一は、由紀のことを「篠原さん」としか呼んでいない。
名前を呼ぶことが、怖かった。
それは、近づきすぎることを意味するから。
二人を見送ったあと、恒一は相談室に戻り、しばらく椅子に座ったままだった。
『篠原さんのこと、名前で呼ばないの?』
ひよりの声が、耳に残っている。
恒一は、由紀の顔を思い浮かべた。
穏やかで、優しくて、でもどこか強い女性。
仕事のときの真剣な表情も、ひよりに微笑みかけるときの柔らかい表情も、恒一の記憶に残っている。
恒一は──気づいていた。
自分が由紀に惹かれていることを。
けれど、それを認めることも、形にすることも、恒一にはできなかった。
名前を呼べば、距離が縮まる。
距離が縮まれば、失ったときの痛みが大きくなる。
恒一は、もうそれを経験したくなかった。
だから、呼ばない。
その夜。
恒一がアパートで一人、夕食を終えたころ、スマホが鳴った。
病院からだった。
恒一は少し驚きながら電話に出た。
「もしもし」
「佐倉さん、篠原です」
由紀の声だった。
恒一は背筋を伸ばした。
「篠原さん。どうかしましたか?」
「あの、今日はひよりがあんなこと言って、すみませんでした」
「いえ、気にしてないです」
「でも……」
由紀は少しだけ言葉を選ぶように間を置いた。
「ひより、あれでも結構気を遣ってるんです。大人の顔色を見ながら、自分がどう振る舞えばいいか考えてる。だから、あんなふうに素直に疑問を口にするのって、実は珍しいんです」
「……そうなんですか」
「はい。佐倉さんのこと、信頼してるんだと思います」
恒一は、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。いつも丁寧に対応していただいて」
それから、少しの沈黙。
恒一は、何か言葉を探していた。
けれど、何を言えばいいのかわからなかった。
由紀が先に口を開いた。
「あの、佐倉さん」
「はい」
「もしよければ、今度……ひよりも一緒に、三人でお茶でもどうですか?」
恒一は少しだけ驚いた。
「お茶、ですか」
「はい。仕事とは関係なく、ただ……ひよりも佐倉さんと話すの楽しみにしてるみたいだし」
由紀の声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
恒一は迷った。
断る理由はない。
けれど、受け入れることは――距離を縮めることだ。
「……いいんですか?」
「はい。私も、佐倉さんともう少しお話ししたいなって」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の心臓が跳ねた。
「わかりました。じゃあ、また日程を」
「ありがとうございます。じゃあ、また連絡しますね」
「はい」
電話が切れた。
恒一はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
それから数日後。
恒一、由紀、ひよりの三人は、市役所近くの小さなカフェで待ち合わせた。
日曜日の午後。天気は晴れ。
ひよりはいつもよりも少しおしゃれな服を着ていて、由紀は白いニットにジーンズという、いつもとは違う柔らかい雰囲気だった。
恒一も、スーツではなくセーターにチノパンという格好で来ていた。
「佐倉さん、スーツじゃないんだ」
ひよりが最初に言った。
「休みの日だからね」
「なんか、若く見える」
「……そうかな」
恒一は少し照れた。
由紀が笑った。
「確かに。いつもより柔らかい感じがします」
「篠原さんも、いつもと雰囲気違いますね」
恒一がそう言うと、由紀は少しだけ頬を染めた。
「そうですか?」
「はい」
三人はテーブルに座り、それぞれ飲み物を注文した。
ひよりはオレンジジュース、由紀はカフェラテ、恒一はブラックコーヒー。
最初は少しぎこちなかったが、ひよりが話し始めると自然と会話が弾んだ。
「佐倉さんって、お休みの日は何してるの?」
「特に何も。本読んだり、散歩したり」
「つまんなくない?」
「……まあ、そうかもね」
恒一は苦笑した。
由紀が言った。
「私もそうですよ。休みの日は家でゴロゴロしてることが多いです」
「篠原さんもそうなんですか」
「はい。映画見たり、料理したり」
「料理、得意なんですか?」
「まあまあ、かな」
由紀は少し照れたように笑った。
ひよりが言った。
「じゃあ、今度お家に呼んでよ」
「え?」
「わたし、篠原さんの料理食べたい」
由紀は少し困ったように笑った。
「それは……お母さんに許可もらわないと」
「大丈夫、お母さん最近元気だし」
ひよりは屈託なく笑った。
恒一は、その笑顔を見て少しだけ安心した。
ひよりは、まだ笑える。
それだけで、救われる気がした。
カフェを出たあと、三人は少しだけ近くの公園を歩いた。
冬の夕暮れ。空はオレンジ色に染まっている。
ひよりは少し先を歩いていて、由紀と恒一は並んで歩いていた。
由紀が静かに言った。
「ひより、楽しそうでしたね」
「そうですね」
「佐倉さんのおかげです」
「いえ、篠原さんがいてくれたから」
由紀は少しだけ恒一を見た。
「佐倉さんって、優しいですよね」
「……そんなことないです」
「いえ、優しい。でも……」
由紀は言葉を探すように視線を落とした。
「どこか、遠いなって思うときがあります」
恒一は、息を止めた。
「遠い、ですか」
「はい。すごく丁寧で、優しいんだけど、どこか一線を引いてるような」
由紀の声は、責めるような響きではなかった。
ただ、静かに、事実を述べているだけだった。
恒一は、何も言えなかった。
図星だったから。
由紀は続けた。
「でも、それってきっと、理由があるんですよね」
「……」
「無理に聞こうとは思いません。ただ……」
由紀は立ち止まり、恒一の方を向いた。
「もし、いつか話してくれる日が来たら、ちゃんと聞きます」
恒一は、由紀の瞳をまっすぐ見つめた。
その瞳には、優しさと、強さと、少しだけ寂しさが混ざっていた。
「……ありがとうございます」
恒一はそれだけしか言えなかった。
由紀は小さく笑った。
「私、佐倉さんのこと、もっと知りたいなって思ってます」
その言葉を聞いた瞬間、恒一の胸が締めつけられた。
嬉しさと、恐怖が、同時に襲ってきた。
恒一は──由紀に惹かれている。
けれど、近づけない。
名前を呼べない。
それが、恒一の限界だった。
その夜、恒一はアパートのベッドで横になりながら、由紀の言葉を反芻していた。
『もっと知りたいなって思ってます』
恒一も、由紀のことをもっと知りたかった。
でも、知れば知るほど、失うことが怖くなる。
恒一は天井を見つめた。
母の顔が、浮かんだ。
そして──由紀の顔が、重なった。
恒一は目を閉じた。
『由紀さん』
心の中で、初めて名前を呼んだ。
けれど、それを口に出すことは、まだできなかった。



