その名前を、呼べたなら

 恒一が母・良子(よしこ)の病気を知ったのは、二十五歳の冬だった。
 胃がん。ステージ二。
 電話口で告げた母の声は、驚くほど穏やかだった。
「心配しないで。ちゃんと治療するから」
 恒一は受話器を持ったまま、何も言えなかった。
「恒一?」
「……うん」
「それだけ?」
「……大丈夫、なの?」
「大丈夫よ。先生もそう言ってるし」
 母は笑っていた。少なくとも、笑っているように聞こえた。
 恒一は「そっか」と答えて、電話を切った。
 それから一時間、アパートの床に座ったまま動けなかった。
 母・良子は、岩手の小さな町で一人暮らしをしていた。
 父は恒一が十二歳のときに家を出て、それきりだ。それ以来、良子は恒一を一人で育て、恒一が就職して家を出てからは、誰にも頼らず静かに生きてきた。
 良子という人は、多くを語らない女性だった。
 感情を大げさに表現することもなく、愚痴を言うこともなく、ただ淡々と日々をこなす。それは強さでもあり、孤独でもあった。
 恒一は母に似た、と言われることが多かった。
 確かに似ている、と恒一も思う。感情を内側に抱え込んで、言葉にするのが遅い。近づきすぎることを恐れる。
 母と子で、同じ癖を持っていた。
 手術は成功した。
 再発もなかった。
 恒一は安堵し、岩手への帰省の頻度は元に戻った。年に二度、お盆と正月。それが恒一の「正しい距離」だった。
 母は文句を言わなかった。
 「仕事、忙しいんでしょう」と言って、いつも笑っていた。
 恒一もそれに甘えた。
 甘えている、とは思っていなかった。
 ただ、それが自然なことだと思っていた。
 異変に気づいたのは、恒一が三十二歳の秋だった。
 電話をかけると、以前より少し声が細くなっていた。
「最近どう?」
「元気よ。ちょっと疲れやすくなってきたけど、年のせいかしら」
「病院は行ってる?」
「定期的にね」
「そっか」
 それだけだった。
 恒一は深く掘り下げなかった。母も詳しくは話さなかった。
 二人は、どちらも「正しい距離」を保っていた。
 そしてその年の十二月、恒一は年末の繁忙期を理由に帰省を先延ばしにした。
 「年明けに行く」
 そう決めて、電話でそう伝えた。
「わかった。待ってるよ」
 母の声は穏やかだった。


 十二月三十日。
 恒一の携帯に、見慣れない番号から着信が入った。
 ちょうど仕事の引き継ぎで忙しく、出られなかった。
 折り返そうと思いながら、後回しにした。
 夕方、やっと手が空いたとき、もう一件の着信に気づいた。
 今度は母からだった。
 留守電が入っている。
 恒一は再生しようとして──止まった。
 なんとなく、今は聞きたくなかった。
 理由はわからない。
 疲れていたのかもしれない。
 それとも、聞いてしまったら何かが変わる気がして、怖かったのかもしれない。
 「後で聞こう」
 そう思って、スマホをポケットにしまった。
 翌朝。
 知らない番号からの電話で目が覚めた。
 午前六時。
 恒一は眠い目をこすりながら電話に出た。
「佐倉恒一さんですか」
 女性の声。落ち着いていて、しかし微妙に緊張している。
「はい」
「岩手中央病院の看護師です。お母様の佐倉良子さんのことで……」
 恒一は、そこで目が覚めた。
「はい」
「昨夜、容態が急変しまして」
 一瞬の間。
「今朝、五時十七分にお亡くなりになりました」
 恒一は、しばらくの間、何も聞こえなかった。


 声が遠くなった。
 部屋が静かになった。
 それから、じわじわと現実が戻ってきた。
 お亡くなりになりました。
 恒一は「わかりました」と答えた。
 なぜそう答えたのか、自分でもわからなかった。


 電話を切って、スマホを見た。
 母からの着信。
 留守電のアイコンが、まだそこにある。
 恒一は再生ボタンを押した。
 『恒一、良子です』
 母の声だった。
 細くて、かすれていて、でも確かに母の声だった。
 『今日ね、入院することになって。大したことじゃないから心配しないで。ただ、声が聞きたかっただけ』
 少しの間。
 『……恒一』
 もう一度、名前を呼ぶ声。
 『元気でいてね』
 それだけだった。
 三十秒もない留守電だった。
 恒一はスマホを握ったまま、動けなかった。
 『声が聞きたかっただけ』
 母は、ただそれだけを言い残して、逝った。
 恒一は、聞かなかった。
 聞けたのに、聞かなかった。
 折り返せたのに、しなかった。
 「後で」と思ったまま、その「後で」は永遠に来なかった。


 恒一が岩手に着いたのは、その日の夕方だった。
 病院の霊安室で、母と対面した。
 穏やかな顔をしていた。
 眠っているようにも見えた。
 恒一は母の手を取った。
 冷たかった。
 恒一は、母の名前を呼ぼうとした。
 「お母さん」でもいい。「良子」でもいい。
 ただ、呼べなかった。
 声が、出なかった。
 今更呼んでも、届かない。
 そう思ったら、言葉が喉の奥で凍りついた。
 恒一はただ、冷たくなった手を握ったまま、立ち尽くしていた。
 涙も出なかった。
 ただ、静かに、何かが終わったのだと感じていた。


 葬儀は小さなものだった。
 母の知人が数人来てくれた。
 「良子さんはいつも、恒一くんのことを自慢してたよ」
 ある女性がそう言った。
 恒一は頭を下げた。
「ありがとうございます」
 それ以上、何も言えなかった。
 自慢してくれていた。
 それなのに、恒一は年に二度しか帰らなかった。
 電話もこまめにしなかった。
 留守電を、すぐに聞かなかった。
 帰りの新幹線の中で、恒一は窓の外を見つめていた。
 冬の田んぼが、白く凍っている。


 恒一は、静かに気づいていた。
 自分は、怖かったのだ。
 近づきすぎることが。
 大切にしすぎることが。
 失うことが。
 だから「正しい距離」を保った。
 だから名前を呼ばなかった。
 だから「後で」と思った。
 その結果が、これだ。
 最後に母の声を聞いたとき、恒一は忙しさを理由に聞き流した。
 最後に会ったのは半年前で、そのときも当たり障りない会話をして、早々に帰った。
 最後に「お母さん」と呼んだのは、いつだったか。


 恒一には、思い出せなかった。
 それから三年が経った。
 恒一は市役所で働き続けた。
 仕事は丁寧にこなした。
 誰に対しても優しかった。
 ただ、誰にも近づかなかった。
 名前を呼ばなかった。
 それが恒一の、贖罪のような生き方だった。


 誰かを大切に思えば、また失う。
 失ったとき、自分はまた何もできない。
 だから、最初から深く関わらない。
 そうやって十年が過ぎた。
 篠原由紀が現れるまで。
 山本ひよりが現れるまで。