その名前を、呼べたなら

 篠原由紀(しのはらゆき)が市役所を訪れたのは、ひよりが窓口に来てから三日後のことだった。

 総合病院の医療ソーシャルワーカーとして働く由紀は、患者やその家族が抱える生活上の問題を、医療と福祉の両面から支援する仕事をしている。病気そのものを治すことはできないが、その周辺にある「困りごと」を一緒に解決していく。それが由紀の役割だった。

 この日、由紀は山本美和という患者の件で、市役所との連携が必要になり、福祉課を訪れていた。

 午前十時。窓口は比較的空いている。

 由紀は受付で用件を伝え、担当者が来るのを待合で待った。白いブラウスに紺のカーディガン、膝丈のスカート。病院での仕事着は、清潔感と柔らかさの両立を意識している。

 しばらくすると、奥から男性職員が歩いてきた。

 三十代半ば。黒縁の眼鏡。紺色のスーツ。少し猫背気味の姿勢。表情は穏やかだが、どこか遠い印象を受ける。

「篠原さんですね。福祉課の佐倉です」

 男性──佐倉恒一は、軽く頭を下げた。

「お忙しいところ、ありがとうございます」

 由紀も会釈を返した。

「こちらこそ。お時間いただいて」

 恒一は由紀を相談室へ案内した。パーテーションで区切られた小さな空間。テーブルと椅子が二脚ずつ。窓からは駐車場が見える。

 二人は向かい合って座った。

 恒一は手元の資料に目を落とし、静かに口を開いた。

「山本美和さんのケースですね」

「はい。美和さんは現在、当院で治療中なんですが、お子さんが一人いらっしゃって」

「山本ひよりちゃん、ですね」

 恒一がそう言った瞬間、由紀は少し驚いた表情を見せた。

「ご存じなんですか?」

「数日前に、ひよりちゃんが一人で窓口に来ました。お母さんのことを心配していて」

 恒一は淡々と説明した。ひよりが訪れたときの様子、彼女が口にした言葉、そして渡したパンフレットのこと。

 由紀は静かに聞いていた。

「そうだったんですね……」

 由紀は少しだけ目を伏せた。

「実は、美和さんご本人が、ひよりちゃんに病状を伝えられずにいるんです。まだ九歳ですし、どこまで話すべきか悩んでいて」

「病名は……」

「詳しくはお伝えできませんが、長期的な治療が必要な状態です」

 恒一は頷いた。

「わかりました。では、ひとり親世帯への支援制度と、医療費助成の案内をお渡しします」

 恒一は手際よく書類を揃え、由紀に手渡した。説明も的確で、無駄がない。

 由紀は資料に目を通しながら、ふと恒一の横顔を見た。

 丁寧で、正確で、優しい。

 けれど──何かが、足りない気がした。

「佐倉さん」

 由紀は資料から顔を上げた。

「ひよりちゃんが窓口に来たとき、どんな様子でしたか?」

 恒一は少しだけ考えるように視線を落とした。

「……冷静でした。泣いているわけでもなく、ただ状況を整理して、必要な情報を得ようとしていた」

「九歳で?」

「はい」

 由紀は小さく息をついた。

「それって、本当は無理をしてるってことですよね」

 恒一は何も言わなかった。

 由紀は続けた。

「子どもって、大人が思ってるよりずっと敏感です。親が何かを隠そうとしてることも、何かが終わりに近づいてることも、ちゃんとわかってる。でも、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです」

 恒一はじっと由紀を見つめていた。

「篠原さんは、そういうお子さんをたくさん見てきたんですね」

「ええ。だから、できるだけ早く、ひよりちゃんにも適切なサポートを届けたくて」

 由紀の声には、静かな強さがあった。

 恒一は頷いた。

「わかりました。こちらでも、可能な範囲で協力します」

「ありがとうございます」

 由紀は立ち上がり、資料をバッグにしまった。

 恒一も立ち上がり、相談室の扉を開けた。

「何かあれば、またご連絡ください」

「はい。お世話になります」

 由紀は会釈をして、廊下へ出た。

 そして──ふと振り返った。

「あの、佐倉さん」

「はい」

「もしよろしければ、ひよりちゃんが次に窓口に来たときのこと、私にも教えていただけますか? 連携が取れた方が、美和さんにとってもいいと思うので」

 恒一は少しだけ迷うような表情を見せた。

 それから、静かに答えた。

「……わかりました」

「ありがとうございます」

 由紀は笑顔を向けた。

 恒一は、その笑顔をまっすぐ見つめることができなかった。

 由紀が帰ったあと、恒一は相談室に残り、書類を整理していた。

 山本美和、山本ひより。

 母と娘。

 そして、篠原由紀。

 恒一は、由紀の言葉を反芻していた。

 『子どもって、わかってることを口に出したら本当になっちゃう気がして、言えないんです』

 それは、大人も同じじゃないのか。

 恒一は書類を閉じ、相談室を出た。

 その日の夕方、恒一が窓口業務を終えて帰り支度をしていると、再びあの少女が現れた。

 ひよりだった。

 今日は黄色いジャンパーではなく、薄いピンクのパーカーを着ている。ランドセルはいつもと同じ紺色。

 ひよりは恒一を見つけると、小さく手を振った。

 恒一は少しだけ驚いたが、すぐにカウンターへ向かった。

「ひよりちゃん。また来てくれたんだね」

「はい」

 ひよりは頷いた。

「あのね、お母さん、病院に行ってるの」

「うん」

「それで、病院の人が、市役所の人と話すって言ってた」

 恒一は静かに頷いた。

「そうだね。今日、病院の篠原さんって人が来てくれたよ」

「篠原さん?」

「うん。お母さんのこと、ちゃんと考えてくれてる人」

 ひよりは少しだけ安心したような顔をした。

「そっか」

 それから、ひよりは少し考えるように視線を落とした。

「ねえ、佐倉さん」

「なに?」

「大人って、名前呼ぶの遅いよね」

 恒一は、思わず息を止めた。

「……え?」

「お母さん、わたしのこと最近あんまり呼ばない。前は『ひより』って呼んでくれたのに、今は『ねえ』とか『ちょっと』とか、そういうのばっかり」

 ひよりはまっすぐに恒一を見つめた。

「呼ばなくなるのって、何か理由があるの?」

 恒一は、答えられなかった。

 なぜなら、恒一自身が誰の名前も呼ばない人間だったから。

 篠原由紀のことも「篠原さん」としか呼んでいない。

 山本美和も、山本ひよりも、すべて「さん」「ちゃん」をつけて呼ぶ。

 名前を、呼ばない。

 それは恒一にとって、当たり前のことだった。

 けれど──このまっすぐな瞳で問われると、それが「普通」ではないことに気づかされる。

「……わからない」

 恒一は正直に答えた。

「でも、お母さんがひよりちゃんのこと大切に思ってるのは、変わらないと思うよ」

「うん」

 ひよりは頷いた。

「それは、わかってる」

 そして、ランドセルを背負い直した。

「ありがとう、佐倉さん。また来るね」

「うん。気をつけて」

 ひよりは小さく手を振って、市役所を出ていった。

 恒一はその背中を見送り、深く息をついた。

 その夜。

 恒一はアパートで、また一人で夕食を食べていた。

 テレビはつけていない。

 静かな部屋。

 恒一はふと、スマホを手に取った。

 連絡先のリストを開く。

 母の名前が、まだ残っている。

 佐倉 良子

 恒一は、その名前をじっと見つめた。

 そして──通話履歴を開いた。

 最後の着信は、十年前。

 再生ボタンは、すぐそこにある。

 けれど、恒一は押せなかった。

 母の声を聞けば、母の名前を呼び返さなかった自分を、もう一度思い出してしまう。

 恒一はスマホを置き、目を閉じた。

 『大人って、名前呼ぶの遅いよね』

 ひよりの言葉が、耳に残っていた。

 遅い、のではない。

 呼べない、のだ。

 恒一にとって、名前を呼ぶことは──誰かに近づくことであり、失うことを覚悟することだった。

 だから、呼ばない。
 それが、恒一の生き方だった。