その名前を、呼べたなら

 それから、一年が過ぎた。
 恒一とひよりと由紀の三人は、穏やかな日々を送っていた。
 朝は三人で朝食を食べ、ひよりは学校へ、恒一は市役所へ、由紀は病院へ。
 夕方、三人は家に集まり、夕食を囲む。
 時々、ひよりが学校での出来事を話す。
 恒一が仕事の愚痴をこぼす。
 由紀が患者さんのことを心配する。
 そんな、何でもない日常。
 でも、それが何よりも大切な時間だった。
 ひよりは、十一歳になった。
 小学五年生。
 背も少し伸びて、顔つきも大人びてきた。
 学校では、友達も増えた。
 時々、友達を家に連れてくることもあった。
 友達は「ひよりのお父さん、優しいね」と言った。
 ひよりは、誇らしげに頷いた。
 母のことを思い出すことは、少なくなった。
 でも、忘れたわけではない。
 ひよりの部屋には、美和の写真が飾られている。
 そして、あの茶色い革の手帳も、大切に保管されている。
 ある週末。
 三人は、久しぶりに美和の墓参りに行った。
 春の日差しが、柔らかく降り注いでいる。
 墓石の前で、三人は手を合わせた。
 ひよりが、花を供えた。
「美和さん、元気にしてる?」
 ひよりは、いつものように話しかけた。
「わたしね、もうすぐ六年生になるんだ」
 ひよりは、少しだけ誇らしげだった。
「学校も楽しいし、友達もいっぱいできた」
 ひよりは、恒一と由紀を見た。
「お父さんとお母さんも、元気だよ」
 ひよりは、墓石に手を置いた。
「美和さんがいなくて、やっぱり寂しいけど……でも、大丈夫」
 ひよりは微笑んだ。
「わたし、ちゃんと幸せだから」
 風が、優しく吹いた。
 恒一と由紀は、ひよりの後ろで静かに見守っていた。
 墓参りの帰り道。
 車の中で、ひよりがふと言った。
「ねえ、お父さん」
「なに?」
「お父さんのお母さんって、どんな人だったの?」
 恒一は、少し驚いた。
 バックミラー越しに、ひよりを見た。
「……優しい人だったよ」
「お父さんに似てる?」
「どうかな」
 恒一は少し笑った。
「でも、俺のことをすごく大切にしてくれた」
「そっか」
 ひよりは頷いた。
「わたしも、会いたかったな」
「そうだね」
 恒一は、前を見た。
「母も、ひよりに会いたかったと思う」
 由紀が、助手席から言った。
「恒一さんのお母さんも、きっと喜んでますよ」
「……そうですね」
 恒一は頷いた。
「三人で、幸せに暮らしてるって」
 その夜。
 ひよりが寝たあと、恒一と由紀はリビングで二人きりになった。
 由紀が、静かに言った。
「恒一さん、今日ひよりちゃんが言ってたこと……」
「お母さんのこと?」
「はい」
 由紀は、恒一の手を取った。
「恒一さん、お母さんのお墓、私も連れて行ってもらえますか?」
 恒一は、少し驚いた。
「……いいんですか?」
「はい」
 由紀は微笑んだ。
「私、ちゃんとご挨拶したいんです」
 恒一の胸が、温かくなった。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
 由紀は、恒一の肩にもたれかかった。
「来月、ひよりちゃんの春休みに、三人で岩手に行きませんか?」
「いいですね」
 恒一は頷いた。
「母も、きっと喜びます」
 一か月後。
 春休み。
 三人は、岩手へ向かった。
 新幹線の中で、ひよりは窓の外を見ていた。
「お父さん、岩手ってどんなところ?」
「静かで、自然が多いところだよ」
「楽しみ」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
 岩手に着き、恒一の母の墓へ向かった。
 墓石の前で、三人は手を合わせた。
 恒一が、静かに話しかけた。
「母さん、久しぶり」
 恒一は、由紀とひよりを見た。
「今日は、家族を連れてきました」
 恒一は、由紀の手を取った。
「これが、俺の妻の由紀です」
 由紀は、深く頭を下げた。
「はじめまして。由紀です。恒一さんを、いつもありがとうございます」
 恒一は、ひよりの肩に手を置いた。
「そして、これが俺の娘のひよりです」
 ひよりも、頭を下げた。
「はじめまして。ひよりです」
 ひよりは、少しだけ緊張していた。
 恒一は、墓石に手を置いた。
「母さん、俺……幸せです」
 恒一の目に、涙が浮かんだ。
「由紀さんと、ひよりと、三人で暮らしてます」
 恒一の声は、温かかった。
「母さんが教えてくれたこと、忘れてません」
 恒一は、涙を流した。
「名前を呼ぶことの大切さ」
 恒一は、由紀を見た。
「由紀さん」
 それから、ひよりを見た。
「ひより」
 恒一は微笑んだ。
「二人の名前を、毎日呼んでます」
 恒一は、もう一度墓石に向かった。
「ありがとう、母さん。良子さん」
 風が、優しく吹いた。
 まるで、母が応えてくれているようだった。
 墓参りのあと、三人は恒一の実家へ向かった。
 もう誰も住んでいない、空き家。
 でも、恒一は時々訪れて、掃除をしていた。
 家の中は、綺麗に保たれている。
 ひよりは、家の中を興味深そうに見て回った。
「これ、お父さんが子どものときの写真?」
「うん」
 恒一は、古いアルバムを開いた。
「これが、小学生のとき」
「かわいい」
 ひよりは笑った。
 由紀も、アルバムを覗き込んだ。
「恒一さん、昔から真面目そうですね」
「そうですか?」
「はい」
 三人で、昔の写真を見ながら笑い合った。
 その夜。
 三人は、実家に泊まることにした。
 布団を敷いて、三人で川の字になって寝た。
 電気を消すと、部屋は静かになった。
 しばらくして、ひよりが言った。
「ねえ、お父さん」
「なに?」
「お父さんのお母さん、きっと優しい人だったんだね」
「……うん」
「だって、お父さんがこんなに優しいもん」
 恒一は、少しだけ笑った。
「ありがとう」
 ひよりは、少しだけ間を置いた。
「わたしね、二人のお母さんがいて、幸せだよ」
「……二人?」
「うん。美和さんと、由紀さん」
 ひよりは、由紀の方を向いた。
「どっちも、わたしのお母さん」
 由紀は、涙をこらえた。
「ひより……」
「だから、両方大切にする」
 ひよりは微笑んだ。
「お父さんも、良子さんのこと、大切にしてね」
 恒一は、涙を流した。
「……うん」
 三人は、静かに寄り添い合った。
 窓の外では、星が静かに輝いている。
 翌朝。
 三人は、実家を後にした。
 駅へ向かう途中、恒一は立ち止まった。
 由紀とひよりも、足を止めた。
「どうしたの?」
 由紀が聞いた。
 恒一は、二人を見た。
「……ありがとう」
「え?」
「二人が、俺の家族でいてくれて」
 恒一の目に、涙が浮かんだ。
「俺、本当に幸せです」
 由紀は、恒一の手を取った。
「私も、幸せです」
 ひよりも、恒一の手を取った。
「わたしも」
 三人は、静かに手を繋いだ。
 そして、駅へ向かって歩き始めた。
 数か月後。
 初夏。
 ひよりは、小学六年生になった。
 学校では、卒業文集を書く課題が出た。
 テーマは「大切な人」。
 ひよりは、迷わず書き始めた。
 大切な人
 山本ひより
 わたしには、大切な人がたくさんいます。
 まず、美和さん。わたしのお母さんです。
 美和さんは、わたしが九歳のときに死にました。
 でも、美和さんが教えてくれたことは、ずっと覚えています。
 「名前を呼ぶことは、その人がここにいることを認めること」
 美和さんは、毎年わたしの誕生日に、わたしの名前を呼んでくれました。
 だから、わたしも美和さんの名前を呼びます。
 次に、恒一さん。わたしのお父さんです。
 恒一さんは、わたしを引き取ってくれました。
 優しくて、料理が上手で、いつもわたしのことを心配してくれます。
 恒一さんも、昔、大切な人を失ったことがあるそうです。
 だから、わたしの気持ちをわかってくれます。
 次に、由紀さん。わたしのお母さんです。
 由紀さんは、いつも笑顔で、わたしを抱きしめてくれます。
 美和さんとは違うけど、由紀さんもわたしのお母さんです。
 わたしは、二人のお母さんがいて、幸せです。
 最後に、良子さん。恒一さんのお母さんです。
 良子さんには会ったことがないけど、きっと優しい人だったんだと思います。
 だって、恒一さんがこんなに優しいから。
 わたしは、名前を呼ぶことが大好きです。
 美和さん、恒一さん、由紀さん、良子さん。
 みんなの名前を呼ぶと、心が温かくなります。
 これからも、大切な人の名前を、ちゃんと呼んでいきます。
 ひよりは、文集を書き終えた。
 それを、恒一と由紀に見せた。
 二人は、涙を流しながら読んだ。
「ひより、ありがとう」
 恒一が言った。
「どういたしまして」
 ひよりは笑った。
 その夜。
 三人は、リビングで並んで座っていた。
 テレビはつけていない。
 ただ、静かに寄り添い合っている。
 恒一が、静かに言った。
「由紀さん」
「はい」
「ひより」
「うん」
 恒一は、二人を見た。
「俺、今、すごく幸せです」
 由紀は、恒一の手を握った。
「私も」
 ひよりも、恒一の手を握った。
「わたしも」
 三人は、静かに微笑み合った。
 窓の外では、夏の夕暮れが静かに沈んでいく。
 新しい一日が、また明日来る。
 そして、三人は――これからも、お互いの名前を呼び続ける。
 それが、三人の愛の形だった。
 振り返った彼女の名前を、今度は迷わず呼べる気がした。その名前を、呼べたなら
第12章 その名前を、呼べたなら
第1話
 四月。
 桜が満開の季節。
 恒一と由紀の結婚式は、小さな式場で行われた。
 参列者は二十人ほど。市役所の同僚、病院の仲間、そしてひよりの学校の先生。
 ひよりは、淡いピンクのドレスを着て、由紀の隣に立っていた。
 恒一は、黒いスーツ。
 由紀は、白いウェディングドレス。
 シンプルで、温かな式だった。
 誓いの言葉。
 恒一は、由紀の手を取った。
「篠原由紀さん」
 恒一は、まっすぐに由紀を見た。
「いえ……由紀さん」
 その呼び方に、由紀の目に涙が浮かんだ。
「俺は、長い間、誰かの名前を呼ぶことが怖かった」
 恒一の声は、静かに響いた。
「大切な人を失うことが怖くて、最初から距離を置いていた」
 恒一は、由紀の手を強く握った。
「でも、由紀さんが教えてくれました」
 恒一の目にも、涙が浮かんだ。
「名前を呼ぶことは、逃げることじゃない。向き合うことだって」
 由紀は、涙をこらえた。
「これから、毎日、由紀さんの名前を呼びます」
 恒一は微笑んだ。
「朝起きたとき、家に帰ったとき、眠る前に」
 恒一の声は、温かかった。
「由紀さん、よろしくお願いします」
 由紀は、涙を流しながら頷いた。
 次は、由紀の番だった。
 由紀は、恒一の手を握り返した。
「佐倉恒一さん」
 由紀は、少しだけ微笑んだ。
「いえ……恒一さん」
 その呼び方に、恒一の胸が熱くなった。
「私も、恒一さんと同じでした」
 由紀の声は、少しだけ震えていた。
「誰かを好きになることが、怖かった」
 由紀は、恒一をまっすぐ見た。
「でも、恒一さんとひよりちゃんに出会って、変わりました」
 由紀の目から、涙がこぼれた。
「名前を呼ぶことは、愛を伝えることだって」
 由紀は、恒一の手を強く握った。
「これから、毎日、恒一さんの名前を呼びます」
 由紀は微笑んだ。
「おはよう、おかえり、おやすみ、全部、恒一さんって呼びます」
 由紀の声は、温かかった。
「恒一さん、よろしくお願いします」
 恒一は、涙を流しながら頷いた。
 指輪の交換。
 恒一が、由紀の左手に指輪をはめた。
 由紀も、恒一の左手に指輪をはめた。
 二人は、静かに抱き合った。
 拍手が起こった。
 ひよりも、嬉しそうに拍手していた。
 涙を流しながら。
 披露宴は、和やかな雰囲気だった。
 恒一の同僚が、恒一のことをスピーチした。
「佐倉くんは、いつも丁寧で、誠実で、誰に対しても優しい人です。でも、どこか壁を作っているような印象もありました」
 同僚は、恒一を見た。
「でも、最近の佐倉くんは違います。表情が柔らかくなって、よく笑うようになった」
 同僚は微笑んだ。
「きっと、篠原さんとひよりちゃんのおかげですね」
 拍手が起こった。
 恒一は、少し照れたように頭を下げた。
 次は、由紀の同僚だった。
「篠原さんは、患者さんに寄り添う、とても優しい人です。でも、自分のことは後回しにしてしまう癖がありました」
 同僚は、由紀を見た。
「でも、最近の篠原さんは、すごく幸せそうです」
 同僚は微笑んだ。
「佐倉さん、篠原さんをよろしくお願いします」
 恒一は、深く頭を下げた。
「はい。大切にします」
 そして、ひよりがスピーチに立った。
 小さな体で、マイクの前に立つ。
 会場が、静かになった。
 ひよりは、少しだけ緊張した様子で話し始めた。
「わたしの名前は、山本ひよりです」
 ひよりの声は、小さかったが、はっきりしていた。
「わたしのお母さんは、去年、死にました」
 会場が、少しざわついた。
 でも、ひよりは続けた。
「お母さんは、わたしに大切なことを教えてくれました」
 ひよりは、恒一と由紀を見た。
「名前を呼ぶことは、その人がここにいることを認めること」
 ひよりの目に、涙が浮かんだ。
「お母さんは、毎年わたしの誕生日に、わたしの名前を呼んでくれました」
 ひよりは、少しだけ笑った。
「だから、わたしもお母さんの名前を呼びます。美和さんって」
 ひよりは、会場を見回した。
「そして、今日から、わたしには新しいお父さんとお母さんができました」
 ひよりは、恒一と由紀を見た。
「恒一さんと、由紀さん」
 ひよりの声は、温かかった。
「二人とも、わたしを大切にしてくれます」
 ひよりは、涙を流した。
「だから、わたしも二人の名前を、ちゃんと呼びます」
 ひよりは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
 会場は、静まり返っていた。
 それから――大きな拍手が起こった。
 恒一も、由紀も、涙を流していた。
 披露宴が終わり、夕方になった。
 三人は、式場の外に出た。
 桜の木の下で、三人で写真を撮った。
 恒一が真ん中に立ち、由紀が右、ひよりが左。
 カメラマンが「笑って」と言った。
 三人は、笑った。
 シャッターが切られた。
 その写真には、三人の笑顔が収められていた。
 その夜。
 三人は、新しい家に帰った。
 恒一と由紀が結婚するにあたり、もう少し広い家を借りていた。
 三LDK。リビングも広く、ひよりの部屋も、夫婦の寝室も、それぞれある。
 ひよりは、自分の部屋で荷物を整理していた。
 恒一と由紀は、リビングで並んで座っていた。
「疲れましたね」
 由紀が言った。
「そうですね」
 恒一も笑った。
「でも、いい式でした」
「はい」
 由紀は、恒一の肩にもたれかかった。
「ひよりちゃんのスピーチ、よかったですね」
「ええ」
 恒一は頷いた。
「あの子、本当に強い」
「恒一さんのおかげですよ」
「いえ、由紀さんのおかげです」
 二人は、笑い合った。
 そのとき、ひよりが部屋から出てきた。
「ねえ、お父さん、お母さん」
 その呼び方に、恒一と由紀は少し驚いた。
「なに、ひより?」
 恒一が答えた。
「今日ね、美和さんの墓に行きたい」
 ひよりは、真剣な顔をしていた。
「今から?」
「うん。美和さんに、報告したいの」
 恒一と由紀は、顔を見合わせた。
 それから、恒一が言った。
「わかった。じゃあ、三人で行こう」
「本当?」
「うん」
 ひよりは、嬉しそうに笑った。
 三人は、車で美和の墓へ向かった。
 夜の霊園は、静かだった。
 街灯の明かりだけが、墓石を照らしている。
 三人は、美和の墓の前に立った。
 ひよりは、花を供えた。
「美和さん、今日、結婚式だったんだ」
 ひよりは、墓石に向かって話しかけた。
「恒一さんと由紀さんが、結婚したの」
 ひよりは、少しだけ笑った。
「わたしも、二人の子どもになったよ」
 ひよりの目に、涙が浮かんだ。
「美和さん、寂しくない?」
 風が、優しく吹いた。
「わたしね、美和さんのこと、ずっと覚えてるから」
 ひよりは、墓石に手を置いた。
「名前も、ちゃんと呼ぶから」
 ひよりは、涙を流した。
「だから、安心してね」
 恒一と由紀は、少し離れたところで見守っていた。
 しばらくして、ひよりが振り返った。
「お父さん、お母さん、ありがとう」
 二人は、ひよりを抱きしめた。
 三人は、静かに抱き合った。
 美和が見守る中で。