その名前を、呼べたなら

 四月。
 桜が満開の季節。
 恒一と由紀の結婚式は、小さな式場で行われた。
 参列者は二十人ほど。市役所の同僚、病院の仲間、そしてひよりの学校の先生。
 ひよりは、淡いピンクのドレスを着て、由紀の隣に立っていた。
 恒一は、黒いスーツ。
 由紀は、白いウェディングドレス。
 シンプルで、温かな式だった。
 誓いの言葉。
 恒一は、由紀の手を取った。
「篠原由紀さん」
 恒一は、まっすぐに由紀を見た。
「いえ……由紀さん」
 その呼び方に、由紀の目に涙が浮かんだ。
「俺は、長い間、誰かの名前を呼ぶことが怖かった」
 恒一の声は、静かに響いた。
「大切な人を失うことが怖くて、最初から距離を置いていた」
 恒一は、由紀の手を強く握った。
「でも、由紀さんが教えてくれました」
 恒一の目にも、涙が浮かんだ。
「名前を呼ぶことは、逃げることじゃない。向き合うことだって」
 由紀は、涙をこらえた。
「これから、毎日、由紀さんの名前を呼びます」
 恒一は微笑んだ。
「朝起きたとき、家に帰ったとき、眠る前に」
 恒一の声は、温かかった。
「由紀さん、よろしくお願いします」
 由紀は、涙を流しながら頷いた。
 次は、由紀の番だった。
 由紀は、恒一の手を握り返した。
「佐倉恒一さん」
 由紀は、少しだけ微笑んだ。
「いえ……恒一さん」
 その呼び方に、恒一の胸が熱くなった。
「私も、恒一さんと同じでした」
 由紀の声は、少しだけ震えていた。
「誰かを好きになることが、怖かった」
 由紀は、恒一をまっすぐ見た。
「でも、恒一さんとひよりちゃんに出会って、変わりました」
 由紀の目から、涙がこぼれた。
「名前を呼ぶことは、愛を伝えることだって」
 由紀は、恒一の手を強く握った。
「これから、毎日、恒一さんの名前を呼びます」
 由紀は微笑んだ。
「おはよう、おかえり、おやすみ、全部、恒一さんって呼びます」
 由紀の声は、温かかった。
「恒一さん、よろしくお願いします」
 恒一は、涙を流しながら頷いた。
 指輪の交換。
 恒一が、由紀の左手に指輪をはめた。
 由紀も、恒一の左手に指輪をはめた。
 二人は、静かに抱き合った。
 拍手が起こった。
 ひよりも、嬉しそうに拍手していた。
 涙を流しながら。
 披露宴は、和やかな雰囲気だった。
 恒一の同僚が、恒一のことをスピーチした。
「佐倉くんは、いつも丁寧で、誠実で、誰に対しても優しい人です。でも、どこか壁を作っているような印象もありました」
 同僚は、恒一を見た。
「でも、最近の佐倉くんは違います。表情が柔らかくなって、よく笑うようになった」
 同僚は微笑んだ。
「きっと、篠原さんとひよりちゃんのおかげですね」
 拍手が起こった。
 恒一は、少し照れたように頭を下げた。
 次は、由紀の同僚だった。
「篠原さんは、患者さんに寄り添う、とても優しい人です。でも、自分のことは後回しにしてしまう癖がありました」
 同僚は、由紀を見た。
「でも、最近の篠原さんは、すごく幸せそうです」
 同僚は微笑んだ。
「佐倉さん、篠原さんをよろしくお願いします」
 恒一は、深く頭を下げた。
「はい。大切にします」
 そして、ひよりがスピーチに立った。
 小さな体で、マイクの前に立つ。
 会場が、静かになった。
 ひよりは、少しだけ緊張した様子で話し始めた。
「わたしの名前は、山本ひよりです」
 ひよりの声は、小さかったが、はっきりしていた。
「わたしのお母さんは、去年、死にました」
 会場が、少しざわついた。
 でも、ひよりは続けた。
「お母さんは、わたしに大切なことを教えてくれました」
 ひよりは、恒一と由紀を見た。
「名前を呼ぶことは、その人がここにいることを認めること」
 ひよりの目に、涙が浮かんだ。
「お母さんは、毎年わたしの誕生日に、わたしの名前を呼んでくれました」
 ひよりは、少しだけ笑った。
「だから、わたしもお母さんの名前を呼びます。美和さんって」
 ひよりは、会場を見回した。
「そして、今日から、わたしには新しいお父さんとお母さんができました」
 ひよりは、恒一と由紀を見た。
「恒一さんと、由紀さん」
 ひよりの声は、温かかった。
「二人とも、わたしを大切にしてくれます」
 ひよりは、涙を流した。
「だから、わたしも二人の名前を、ちゃんと呼びます」
 ひよりは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
 会場は、静まり返っていた。
 それから──大きな拍手が起こった。
 恒一も、由紀も、涙を流していた。
 披露宴が終わり、夕方になった。
 三人は、式場の外に出た。
 桜の木の下で、三人で写真を撮った。
 恒一が真ん中に立ち、由紀が右、ひよりが左。
 カメラマンが「笑って」と言った。
 三人は、笑った。
 シャッターが切られた。
 その写真には、三人の笑顔が収められていた。
 その夜。
 三人は、新しい家に帰った。
 恒一と由紀が結婚するにあたり、もう少し広い家を借りていた。
 三LDK。リビングも広く、ひよりの部屋も、夫婦の寝室も、それぞれある。
 ひよりは、自分の部屋で荷物を整理していた。
 恒一と由紀は、リビングで並んで座っていた。
「疲れましたね」
 由紀が言った。
「そうですね」
 恒一も笑った。
「でも、いい式でした」
「はい」
 由紀は、恒一の肩にもたれかかった。
「ひよりちゃんのスピーチ、よかったですね」
「ええ」
 恒一は頷いた。
「あの子、本当に強い」
「恒一さんのおかげですよ」
「いえ、由紀さんのおかげです」
 二人は、笑い合った。
 そのとき、ひよりが部屋から出てきた。
「ねえ、お父さん、お母さん」
 その呼び方に、恒一と由紀は少し驚いた。
「なに、ひより?」
 恒一が答えた。
「今日ね、美和さんの墓に行きたい」
 ひよりは、真剣な顔をしていた。
「今から?」
「うん。美和さんに、報告したいの」
 恒一と由紀は、顔を見合わせた。
 それから、恒一が言った。
「わかった。じゃあ、三人で行こう」
「本当?」
「うん」
 ひよりは、嬉しそうに笑った。
 三人は、車で美和の墓へ向かった。
 夜の霊園は、静かだった。
 街灯の明かりだけが、墓石を照らしている。
 三人は、美和の墓の前に立った。
 ひよりは、花を供えた。
「美和さん、今日、結婚式だったんだ」
 ひよりは、墓石に向かって話しかけた。
「恒一さんと由紀さんが、結婚したの」
 ひよりは、少しだけ笑った。
「わたしも、二人の子どもになったよ」
 ひよりの目に、涙が浮かんだ。
「美和さん、寂しくない?」
 風が、優しく吹いた。
「わたしね、美和さんのこと、ずっと覚えてるから」
 ひよりは、墓石に手を置いた。
「名前も、ちゃんと呼ぶから」
 ひよりは、涙を流した。
「だから、安心してね」
 恒一と由紀は、少し離れたところで見守っていた。
 しばらくして、ひよりが振り返った。
「お父さん、お母さん、ありがとう」
 二人は、ひよりを抱きしめた。
 三人は、静かに抱き合った。
 美和が見守る中で。