その名前を、呼べたなら

 恒一が岩手から帰ってきたのは、翌日の夕方だった。
 新幹線を降りて、アパートへ向かう途中、恒一は花屋に寄った。
 白いバラを一輪買った。
 それから、ケーキ屋でひよりの好きなショートケーキを買った。
 荷物を抱えて、アパートの前に着くと、由紀が先に来ていた。
 玄関の前で、コートを着たまま待っている。
「由紀さん」
「恒一さん、おかえりなさい」
 由紀は微笑んだ。
「ただいま」
 恒一は、由紀の前に立った。
 それから、白いバラを差し出した。
「これ……」
「ありがとうございます」
 由紀は、バラを受け取った。
 二人は、少しだけ見つめ合った。
 それから、恒一が静かに言った。
「由紀さん、昨日の話……覚えてますか?」
「はい」
「本気です」
 恒一は、由紀の手を取った。
「俺と、結婚してください」
 由紀の目に、涙が浮かんだ。
「……はい」
 由紀は頷いた。
「喜んで」
 恒一は、由紀を抱きしめた。
 由紀も、恒一にしがみついた。
 二人は、玄関の前でしばらく抱き合っていた。
 部屋に入ると、ひよりがリビングで宿題をしていた。
「おかえりー」
 ひよりは顔を上げた。
「ただいま」
 恒一は、ケーキをテーブルに置いた。
「ケーキ買ってきたよ」
「やったー!」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
 それから、恒一と由紀の様子に気づいた。
「……なんか、二人とも変だよ?」
「変?」
「うん。なんか、ニヤニヤしてる」
 ひよりは不思議そうに首を傾げた。
 恒一と由紀は、顔を見合わせた。
 それから、恒一がひよりの向かいに座った。
「ひよりちゃん、話があるんだ」
「なに?」
 ひよりは、少し緊張した様子で宿題を閉じた。
 恒一は、由紀の手を取った。
「俺と由紀さん、結婚することにした」
 ひよりの目が、大きく見開かれた。
「……本当?」
「本当」
 恒一は頷いた。
「それで、ひよりちゃんにも聞きたいんだけど……」
 恒一は、ひよりをまっすぐ見た。
「俺たちと、家族になってくれる?」
 ひよりは、少しだけ驚いた顔をした。
「……家族?」
「うん」
 由紀も、ひよりの隣に座った。
「ひよりちゃん、私たちと一緒に暮らしてくれる?」
 ひよりは、二人を見た。
 それから、少しだけ考えた。
「……わたし、養子になるの?」
「まだ正式には決まってないけど、そうなると思う」
 恒一は正直に答えた。
「でも、ひよりちゃんが嫌なら……」
「嫌じゃない」
 ひよりは首を振った。
「わたし、嬉しい」
 ひよりは、少し照れたように笑った。
「佐倉さんと由紀さんと、家族になれるなら」
 恒一と由紀は、ほっとした表情を見せた。
「よかった」
 恒一は、ひよりの頭を撫でた。
 ひよりは、少しだけ真面目な顔になった。
「でもね、一つだけお願いがあるの」
「なに?」
「わたし、苗字変えたくない」
 恒一は、少し驚いた。
「……そうなの?」
「うん」
 ひよりは頷いた。
「『山本ひより』って名前、美和さんがつけてくれたから」
 ひよりは、少しだけ寂しそうに笑った。
「これだけは、残しておきたい」
 恒一は、ひよりの気持ちを理解した。
「わかった。じゃあ、そのままでいいよ」
「本当?」
「うん」
 恒一は優しく笑った。
「名前は大事だから」
 ひよりは、嬉しそうに笑った。
 それから、恒一と由紀を抱きしめた。
「ありがとう」
 三人は、静かに抱き合った。
 その夜。
 三人でケーキを食べながら、これからのことを話した。
「結婚式、するの?」
 ひよりが聞いた。
「どうしようか」
 恒一は由紀を見た。
「私は、小さくてもいいからしたいです」
 由紀は答えた。
「ひよりちゃんにも、ドレス着てほしいし」
「わたし、ドレス着るの?」
 ひよりの目が輝いた。
「うん」
「やった!」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
 恒一も笑った。
「じゃあ、春に式を挙げよう」
「春?」
「うん。桜が咲く頃に」
 恒一は、窓の外を見た。
「新しい始まりにふさわしいから」
 由紀は、恒一の手を握った。
「そうですね」
 ひよりが寝たあと。
 恒一と由紀は、リビングで二人きりになった。
「由紀さん」
「はい」
「岩手で、母の墓参りをして……いろいろ考えたんです」
 恒一は、静かに話し始めた。
「俺、ずっと母の名前を呼べなかった。最後まで」
 由紀は、黙って聞いていた。
「でも、今回……やっと呼べたんです」
 恒一の目には、涙が浮かんでいた。
「『良子さん』って」
「……恒一さん」
「それで、やっとわかったんです」
 恒一は、由紀をまっすぐ見た。
「名前を呼ぶことは、その人がここにいることを認めること」
 恒一の声は、温かかった。
「母は、もういない。でも、俺の中には生きてる」
「はい」
「だから、これからも呼び続けます。母の名前も、由紀さんの名前も、ひよりちゃんの名前も」
 恒一は、由紀の手を強く握った。
「大切な人の名前を、ちゃんと呼びます」
 由紀は、涙を流した。
「私も、恒一さんの名前、ちゃんと呼びます」
「……ありがとう」
 二人は、静かに抱き合った。
 それから数週間。
 恒一と由紀は、結婚の準備を進めた。
 役所への届け出、式場の予約、ひよりの養子縁組の手続き。
 すべてが、少しずつ形になっていった。
 ひよりも、新しい生活を楽しみにしていた。
 学校では、友達に「お父さんとお母さんができるんだ」と話していた。
 友達は「いいなー」と羨ましがった。
 ひよりは、嬉しかった。
 でも、時々――母のことを思い出して、寂しくなることもあった。
 そんなとき、ひよりは母の手帳を開いた。
 今日は、ひよりを呼んだ日
 その言葉を見ると、少しだけ落ち着いた。
 母は、もういない。
 でも、母が教えてくれたことは、ずっと残る。
 ひよりは、これからも母の名前を呼び続けようと決めていた。
 ある日の夜。
 ひよりは、ベッドで絵本を読んでいた。
 恒一がドアをノックした。
「ひよりちゃん、もう寝る時間だよ」
「うん、今読み終わるところ」
 ひよりは絵本を閉じた。
 恒一は、ひよりのベッドの横に座った。
「明日、学校どう?」
「楽しみ。遠足があるんだ」
「そっか。楽しんできてね」
「うん」
 ひよりは、恒一を見上げた。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「わたしね、佐倉さんのこと、何て呼べばいい?」
 恒一は、少し驚いた。
「……え?」
「だって、もうすぐお父さんになるんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「じゃあ、『お父さん』って呼んでもいい?」
 恒一は、胸が熱くなった。
「……いいの?」
「うん」
 ひよりは頷いた。
「佐倉さん、わたしのお父さんだもん」
 恒一は、涙をこらえた。
「ありがとう、ひよりちゃん」
「どういたしまして」
 ひよりは笑った。
 それから、少しだけ真面目な顔になった。
「でもね、美和さんのことは忘れないよ」
「……うん」
「美和さんは、わたしのお母さんだから」
 ひよりは、母の手帳を抱きしめた。
「二人、お母さんがいるの。美和さんと、由紀さん」
 恒一は、ひよりの頭を撫でた。
「そうだね」
「うん」
 ひよりは、安心したように目を閉じた。
「おやすみ、お父さん」
 恒一は、少しだけ驚いた。
 それから、優しく笑った。
「おやすみ、ひより」
 恒一は、電気を消して部屋を出た。
 廊下で、由紀が待っていた。
「聞こえました?」
 恒一は、由紀に言った。
「はい」
 由紀は微笑んだ。
「よかったですね」
「ええ」
 恒一は、由紀の手を取った。
「俺たち、本当に家族になるんですね」
「はい」
 二人は、静かに抱き合った。
 新しい家族の形が、確かに生まれようとしていた。