春が来た。
ひよりが十歳になり、新学期が始まった。
恒一の家での生活も、半年が過ぎようとしていた。
ひよりは、すっかり馴染んでいた。
学校から帰ると「ただいま」と言い、恒一が「おかえり」と返す。
由紀も、週の半分は恒一の家で過ごすようになっていた。
三人は、家族のような日々を送っていた。
けれど、恒一にはまだ一つ、やり残したことがあった。
ある週末。
恒一は、一人で実家のある岩手へ向かった。
由紀とひよりには、「母の法事がある」と伝えていた。
嘘ではない。
ただ、本当の目的は別にあった。
新幹線に揺られて三時間。
恒一は、十年ぶりに故郷の駅に降り立った。
景色は、ほとんど変わっていなかった。
駅前の商店街、小さな本屋、母と一緒に歩いた道。
恒一は、ゆっくりと歩いた。
目的地は、母の墓だった。
墓地は、町外れの静かな場所にあった。
恒一は、母の墓石の前に立った。
佐倉良子之墓
墓石には、母の名前が刻まれている。
恒一は、花を供えた。
それから、墓石の前に座った。
「母さん、久しぶり」
恒一は、静かに話し始めた。
「十年ぶりかな。ちゃんと来るの」
風が、優しく吹いた。
「俺、ずっと逃げてた。母さんの墓参りも、母さんのことを思い出すことも」
恒一の声は、少しだけ震えていた。
「でも、最近……ようやくわかったんだ」
恒一は、空を見上げた。
「母さんが残してくれた留守電、あれ……ずっと消せなかった」
恒一は、スマホを取り出した。
「今でも、ここにある」
画面には、十年前の着信履歴。
母からの最後の電話。
「でも、聞けなかったんだ。怖くて」
恒一は、スマホを握りしめた。
「今なら、聞ける気がする」
恒一は、再生ボタンを押した。
『恒一、良子です』
母の声が、流れた。
十年前と同じ、優しい声。
『今日ね、入院することになって。大したことじゃないから心配しないで。ただ、声が聞きたかっただけ』
恒一の目から、涙がこぼれた。
『……恒一』
もう一度、名前を呼ぶ声。
『元気でいてね』
それだけだった。
留守電は、そこで終わった。
恒一は、涙を流し続けた。
『声が聞きたかっただけ』
母は、ただそれだけを言いたかった。
恒一の声を聞きたかった。
恒一の名前を呼びたかった。
それだけだったのに、恒一は応えなかった。
「ごめん……」
恒一は、墓石に額をつけた。
「ごめん、母さん」
声が、震えた。
「俺、最後まで……母さんの名前、ちゃんと呼べなかった」
恒一は、嗚咽を漏らした。
「『お母さん』じゃなくて、『良子』って……呼びたかった」
風が、優しく吹いた。
恒一は、顔を上げた。
「でもね、母さん」
恒一は、涙をぬぐった。
「俺、今……ちゃんと呼べる人がいるんだ」
恒一は、少しだけ笑った。
「由紀さんって人。俺の恋人」
恒一は、由紀のことを話した。
それから、ひよりのことも。
「ひよりちゃんって子も、一緒に暮らしてる。まだ十歳なのに、すごくしっかりしてる子で」
恒一の声は、少しずつ明るくなっていった。
「母さんが教えてくれたんだよね。名前を呼ぶことの大切さ」
恒一は、墓石に手を置いた。
「遅くなったけど……今、呼んでもいい?」
恒一は、深く息を吸った。
そして――
「良子さん」
名前を、呼んだ。
「俺のお母さん、良子さん」
涙が、こぼれた。
「ありがとう。俺を生んでくれて」
恒一は、墓石を抱きしめた。
「大好きだよ」
風が、優しく吹いた。
まるで、母が応えてくれているようだった。
墓参りを終えて、恒一は実家へ向かった。
もう誰も住んでいない、空き家になった家。
恒一は鍵を開けて、中に入った。
ほこりが積もっている。
家具も、そのまま残っている。
恒一は、母の部屋に入った。
ベッド、デスク、本棚。
すべてが、十年前のまま。
恒一は、デスクの引き出しを開けた。
中には、古い写真や手紙が入っていた。
恒一は、その中から一冊のノートを見つけた。
母の日記だった。
恒一は、ページをめくった。
最後のページに、こんな言葉が書かれていた。
『恒一へ。あなたが大人になったら、読んでください。お母さんは、いつもあなたのことを誇りに思っていました。たとえ離れていても、あなたはお母さんの宝物です。名前を呼ぶことは、愛を伝えること。これからも、大切な人の名前を、ちゃんと呼んであげてください。お母さんより』
恒一は、ノートを抱きしめた。
涙が、止まらなかった。
その夜。
恒一は実家に泊まった。
母のベッドで、母のノートを読み返した。
母は、恒一のことをずっと想っていた。
恒一が遠くにいても、忙しくても、それでも愛していた。
恒一は、ようやく理解した。
母は、恒一が名前を呼び返してくれなくても、怒っていなかった。
ただ、恒一が幸せであることを願っていた。
恒一は、スマホを取り出した。
由紀に電話をかけた。
二回コールして、由紀が出た。
「もしもし、恒一さん」
「由紀さん」
恒一の声は、少しだけ震えていた。
「どうしたんですか?」
「……俺、今、母の墓参りに来てて」
「はい」
「それで、やっと……母の名前を呼べたんです」
由紀は、少しだけ驚いた様子だった。
「……そうなんですか」
「うん。十年越しで」
恒一は、涙をぬぐった。
「由紀さんのおかげです。ひよりちゃんのおかげです」
「恒一さん……」
「二人がいてくれたから、俺は変われた」
恒一の声は、温かかった。
「ありがとう、由紀さん」
「こちらこそ」
由紀も、涙声だった。
「恒一さん、おかえりなさい」
「……ただいま」
二人は、しばらく無言で電話を繋いでいた。
それから、恒一が言った。
「由紀さん、俺……結婚したいです」
電話の向こうで、由紀が息を呑む音が聞こえた。
「……え?」
「由紀さんと、ひよりちゃんと、三人で家族になりたい」
恒一は、真剣だった。
「正式に」
由紀は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さな声で答えた。
「……私も、そうしたいです」
恒一の胸が、熱くなった。
「本当ですか?」
「はい」
由紀は、泣きながら笑っていた。
「恒一さんと、ずっと一緒にいたいです」
「……ありがとうございます」
恒一も、涙を流した。
「帰ったら、ちゃんとプロポーズします」
「はい」
「ひよりちゃんにも、ちゃんと話します」
「はい」
二人は、静かに笑い合った。
電話を切って、恒一は天井を見上げた。
母の顔が、浮かんだ。
今度は、悲しい顔ではなく、笑顔だった。
恒一は、小さく呟いた。
「母さん、俺、幸せになるよ」
その言葉は、誰にも届かなかった。
でも、確かに──母に届いた気がした。
ひよりが十歳になり、新学期が始まった。
恒一の家での生活も、半年が過ぎようとしていた。
ひよりは、すっかり馴染んでいた。
学校から帰ると「ただいま」と言い、恒一が「おかえり」と返す。
由紀も、週の半分は恒一の家で過ごすようになっていた。
三人は、家族のような日々を送っていた。
けれど、恒一にはまだ一つ、やり残したことがあった。
ある週末。
恒一は、一人で実家のある岩手へ向かった。
由紀とひよりには、「母の法事がある」と伝えていた。
嘘ではない。
ただ、本当の目的は別にあった。
新幹線に揺られて三時間。
恒一は、十年ぶりに故郷の駅に降り立った。
景色は、ほとんど変わっていなかった。
駅前の商店街、小さな本屋、母と一緒に歩いた道。
恒一は、ゆっくりと歩いた。
目的地は、母の墓だった。
墓地は、町外れの静かな場所にあった。
恒一は、母の墓石の前に立った。
佐倉良子之墓
墓石には、母の名前が刻まれている。
恒一は、花を供えた。
それから、墓石の前に座った。
「母さん、久しぶり」
恒一は、静かに話し始めた。
「十年ぶりかな。ちゃんと来るの」
風が、優しく吹いた。
「俺、ずっと逃げてた。母さんの墓参りも、母さんのことを思い出すことも」
恒一の声は、少しだけ震えていた。
「でも、最近……ようやくわかったんだ」
恒一は、空を見上げた。
「母さんが残してくれた留守電、あれ……ずっと消せなかった」
恒一は、スマホを取り出した。
「今でも、ここにある」
画面には、十年前の着信履歴。
母からの最後の電話。
「でも、聞けなかったんだ。怖くて」
恒一は、スマホを握りしめた。
「今なら、聞ける気がする」
恒一は、再生ボタンを押した。
『恒一、良子です』
母の声が、流れた。
十年前と同じ、優しい声。
『今日ね、入院することになって。大したことじゃないから心配しないで。ただ、声が聞きたかっただけ』
恒一の目から、涙がこぼれた。
『……恒一』
もう一度、名前を呼ぶ声。
『元気でいてね』
それだけだった。
留守電は、そこで終わった。
恒一は、涙を流し続けた。
『声が聞きたかっただけ』
母は、ただそれだけを言いたかった。
恒一の声を聞きたかった。
恒一の名前を呼びたかった。
それだけだったのに、恒一は応えなかった。
「ごめん……」
恒一は、墓石に額をつけた。
「ごめん、母さん」
声が、震えた。
「俺、最後まで……母さんの名前、ちゃんと呼べなかった」
恒一は、嗚咽を漏らした。
「『お母さん』じゃなくて、『良子』って……呼びたかった」
風が、優しく吹いた。
恒一は、顔を上げた。
「でもね、母さん」
恒一は、涙をぬぐった。
「俺、今……ちゃんと呼べる人がいるんだ」
恒一は、少しだけ笑った。
「由紀さんって人。俺の恋人」
恒一は、由紀のことを話した。
それから、ひよりのことも。
「ひよりちゃんって子も、一緒に暮らしてる。まだ十歳なのに、すごくしっかりしてる子で」
恒一の声は、少しずつ明るくなっていった。
「母さんが教えてくれたんだよね。名前を呼ぶことの大切さ」
恒一は、墓石に手を置いた。
「遅くなったけど……今、呼んでもいい?」
恒一は、深く息を吸った。
そして――
「良子さん」
名前を、呼んだ。
「俺のお母さん、良子さん」
涙が、こぼれた。
「ありがとう。俺を生んでくれて」
恒一は、墓石を抱きしめた。
「大好きだよ」
風が、優しく吹いた。
まるで、母が応えてくれているようだった。
墓参りを終えて、恒一は実家へ向かった。
もう誰も住んでいない、空き家になった家。
恒一は鍵を開けて、中に入った。
ほこりが積もっている。
家具も、そのまま残っている。
恒一は、母の部屋に入った。
ベッド、デスク、本棚。
すべてが、十年前のまま。
恒一は、デスクの引き出しを開けた。
中には、古い写真や手紙が入っていた。
恒一は、その中から一冊のノートを見つけた。
母の日記だった。
恒一は、ページをめくった。
最後のページに、こんな言葉が書かれていた。
『恒一へ。あなたが大人になったら、読んでください。お母さんは、いつもあなたのことを誇りに思っていました。たとえ離れていても、あなたはお母さんの宝物です。名前を呼ぶことは、愛を伝えること。これからも、大切な人の名前を、ちゃんと呼んであげてください。お母さんより』
恒一は、ノートを抱きしめた。
涙が、止まらなかった。
その夜。
恒一は実家に泊まった。
母のベッドで、母のノートを読み返した。
母は、恒一のことをずっと想っていた。
恒一が遠くにいても、忙しくても、それでも愛していた。
恒一は、ようやく理解した。
母は、恒一が名前を呼び返してくれなくても、怒っていなかった。
ただ、恒一が幸せであることを願っていた。
恒一は、スマホを取り出した。
由紀に電話をかけた。
二回コールして、由紀が出た。
「もしもし、恒一さん」
「由紀さん」
恒一の声は、少しだけ震えていた。
「どうしたんですか?」
「……俺、今、母の墓参りに来てて」
「はい」
「それで、やっと……母の名前を呼べたんです」
由紀は、少しだけ驚いた様子だった。
「……そうなんですか」
「うん。十年越しで」
恒一は、涙をぬぐった。
「由紀さんのおかげです。ひよりちゃんのおかげです」
「恒一さん……」
「二人がいてくれたから、俺は変われた」
恒一の声は、温かかった。
「ありがとう、由紀さん」
「こちらこそ」
由紀も、涙声だった。
「恒一さん、おかえりなさい」
「……ただいま」
二人は、しばらく無言で電話を繋いでいた。
それから、恒一が言った。
「由紀さん、俺……結婚したいです」
電話の向こうで、由紀が息を呑む音が聞こえた。
「……え?」
「由紀さんと、ひよりちゃんと、三人で家族になりたい」
恒一は、真剣だった。
「正式に」
由紀は、しばらく何も言わなかった。
それから、小さな声で答えた。
「……私も、そうしたいです」
恒一の胸が、熱くなった。
「本当ですか?」
「はい」
由紀は、泣きながら笑っていた。
「恒一さんと、ずっと一緒にいたいです」
「……ありがとうございます」
恒一も、涙を流した。
「帰ったら、ちゃんとプロポーズします」
「はい」
「ひよりちゃんにも、ちゃんと話します」
「はい」
二人は、静かに笑い合った。
電話を切って、恒一は天井を見上げた。
母の顔が、浮かんだ。
今度は、悲しい顔ではなく、笑顔だった。
恒一は、小さく呟いた。
「母さん、俺、幸せになるよ」
その言葉は、誰にも届かなかった。
でも、確かに──母に届いた気がした。



