その名前を、呼べたなら

 春が近づいていた。
 ひよりが恒一の家で暮らし始めて、三か月が経とうとしている。
 生活は、すっかり馴染んでいた。
 恒一とひよりの朝の会話も、自然になった。
 由紀も、週に三回は夕食を一緒に食べるようになった。
 三人は、少しずつ家族のような形になっていった。
 けれど、ひよりの心には、まだ母への想いが残っていた。
 ある日の夜。
 ひよりは自分の部屋で、母の手帳を開いていた。
 あの茶色い革の手帳。
 最後のページには、毎年同じ言葉が書かれている。
 今日は、ひよりを呼んだ日
 ひよりは、その言葉をじっと見つめた。
 母は、毎年ひよりの誕生日に、この言葉を書いていた。
 名前を呼ぶことが、どれだけ大切か。
 母は、それを教えてくれた。
 ひよりは手帳を閉じ、机の引き出しにしまった。
 そして、ベッドに横になった。
 天井を見つめる。
 母の顔が、浮かんだ。
 『ひより、大好きだよ』
 最後に言ってくれた言葉。
 ひよりは、涙をこらえた。
 もう泣かないと決めていた。
 でも、時々――どうしても涙が出てしまう。
 そのとき、部屋のドアがノックされた。
「ひよりちゃん、起きてる?」
 恒一の声だった。
「うん」
 ひよりは起き上がった。
 恒一が、ドアを開けた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
 ひよりは笑顔を作った。
 でも、恒一にはわかっていた。
 恒一は、ひよりの隣に座った。
「泣いてた?」
「……ちょっとだけ」
 ひよりは正直に答えた。
「お母さんのこと、思い出してた」
「そっか」
 恒一は、ひよりの頭を撫でた。
「泣いてもいいんだよ」
「……でも」
「いいんだ。我慢しなくていい」
 恒一は優しく言った。
 ひよりは、少しだけ泣いた。
 恒一は、何も言わず、ただそばにいた。
 翌週。
 ひよりの誕生日が近づいていた。
 二月十四日。ひよりが十歳になる日。
 恒一と由紀は、ひよりのために何かしてあげたいと考えていた。
「誕生日パーティー、しようか」
 由紀が提案した。
「うん。ケーキも買って」
「それから、プレゼントも」
「何がいいかな」
 二人で相談したが、なかなか決まらなかった。
 ひよりが欲しいものを、直接聞くことにした。
「ひよりちゃん、誕生日に何か欲しいものある?」
 恒一が尋ねた。
 ひよりは、少しだけ考えた。
「……お墓参り、行きたい」
 恒一と由紀は、少し驚いた。
「お墓参り?」
「うん」
 ひよりは頷いた。
「誕生日に、美和さんに会いに行きたい」
 恒一と由紀は、顔を見合わせた。
 それから、恒一が言った。
「わかった。じゃあ、三人で行こう」
「本当?」
「うん」
 ひよりは、嬉しそうに笑った。
 二月十四日。
 ひよりの誕生日。
 朝、恒一がひよりを起こした。
「ひよりちゃん、おはよう。誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 ひよりは笑顔で答えた。
 リビングに行くと、由紀がすでに来ていた。
「おめでとう、ひよりちゃん」
「ありがとう、由紀さん」
 三人で朝食を食べた。
 それから、車で美和の墓へ向かった。
 霊園に着くと、空は晴れていた。
 冬の日差しが、柔らかく地面を照らしている。
 三人は、美和の墓石の前に立った。
 ひよりは、花を供えた。
「美和さん、今日、わたし十歳になった」
 ひよりは、墓石に向かって話しかけた。
「覚えてる? 美和さんが手帳に書いてたこと」
 ひよりは、持ってきた手帳を開いた。
 今日は、ひよりを呼んだ日
「美和さんは、毎年わたしの名前を呼んでくれた」
 ひよりの声は、震えていた。
「だから、わたしも呼ぶね」
 ひよりは、深く息を吸った。
 そして――
「美和さん」
 名前を、呼んだ。
「わたしのお母さん、美和さん」
 涙が、こぼれた。
「ありがとう。生んでくれて」
 ひよりは、墓石に額をつけた。
「大好きだよ」
 恒一と由紀は、少し離れたところで見守っていた。
 二人とも、涙をこらえていた。
 しばらくして、ひよりが立ち上がった。
 涙をぬぐい、二人の方を向いた。
「佐倉さん、由紀さん」
「なに?」
「ありがとう。わたしを、一人にしないでいてくれて」
 ひよりは、深く頭を下げた。
 恒一は、ひよりに歩み寄った。
「ひよりちゃん」
「うん」
「俺こそ、ありがとう」
 恒一は、ひよりの頭に手を置いた。
「ひよりちゃんがいてくれたから、俺は変われた」
「……え?」
「俺、ずっと逃げてたんだ。誰かを大切に思うことから」
 恒一は、ひよりをまっすぐ見た。
「でも、ひよりちゃんが教えてくれた。名前を呼ぶことの大切さを」
 恒一は、由紀の方を見た。
 由紀も、頷いた。
 恒一は、もう一度ひよりを見た。
「だから、ありがとう」
 ひよりは、涙を流しながら笑った。
「どういたしまして」
 三人は、静かに抱き合った。
 墓石の前で。
 美和が見守る中で。
 帰り道。
 車の中で、ひよりが言った。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「わたしね、決めたことがある」
「なに?」
「美和さんのこと、ちゃんと覚えておく。そして、大きくなったら、わたしも誰かの名前をちゃんと呼べる人になる」
 ひよりは、まっすぐ前を見た。
「名前を呼ぶって、すごく大事なことだから」
 恒一は、バックミラー越しにひよりを見た。
「……そうだね」
「佐倉さんも、由紀さんの名前、ちゃんと呼んでる?」
「うん、呼んでるよ」
「よかった」
 ひよりは満足そうに頷いた。
 由紀が、助手席から振り返った。
「ひよりちゃん、ケーキ食べたい?」
「食べたい!」
「じゃあ、帰りに買って帰ろう」
「やった!」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
 その夜。
 三人は、恒一の家でささやかな誕生日パーティーをした。
 ケーキに十本のろうそくを立て、火を灯した。
「ひよりちゃん、願い事した?」
 由紀が聞いた。
「うん」
 ひよりは目を閉じた。
 それから、ろうそくを吹き消した。
「何お願いしたの?」
「秘密」
 ひよりは笑った。
 三人でケーキを食べながら、笑い合った。
 窓の外では、星が輝いている。
 ひよりは、心の中で思った。
 母は、もういない。
 でも、母が教えてくれたことは、ずっと残る。
 名前を呼ぶこと。
 それは、誰かがここにいることを、確かめる行為。
 ひよりは、これからもちゃんと名前を呼んでいこうと決めた。
 佐倉さんも、由紀さんも、そして――
 美和さんも。
 その夜、ひよりが寝たあと。
 恒一と由紀は、リビングで二人きりになった。
「今日、ひよりちゃん、すごく成長したね」
 由紀が言った。
「そうですね」
 恒一は頷いた。
「母親を失って、三か月。まだ十歳なのに、あんなに強く生きてる」
「恒一さんのおかげですよ」
「いえ、由紀さんのおかげです」
 二人は、笑い合った。
 それから、恒一が真面目な顔になった。
「由紀さん」
「はい」
「俺、由紀さんと……ずっと一緒にいたいです」
 由紀は、少し驚いた顔をした。
「……恒一さん」
「ひよりちゃんと、由紀さんと、三人で」
 恒一は、由紀の手を取った。
「家族になりたい」
 由紀の目に、涙が浮かんだ。
「私も、同じ気持ちです」
「……本当ですか?」
「はい」
 由紀は微笑んだ。
「恒一さんと、ひよりちゃんと、ずっと一緒にいたい」
 二人は、静かに抱き合った。
 窓の外では、冬の月が静かに輝いている。
 新しい家族の形が、生まれようとしていた。