その名前を、呼べたなら

 美和の葬儀は、小さなものだった。
 参列者は十人ほど。美和の職場の同僚、ひよりの学校の先生、そして由紀と恒一。
 ひよりは喪服を着て、誰よりもしっかりとした表情で立っていた。
 泣かなかった。
 涙は、もう枯れていた。
 葬儀が終わり、参列者が帰っていく中、ひよりは一人で母の遺影の前に座っていた。
 写真の中の美和は、優しく笑っている。
 ひよりは、その写真に向かって小さく呟いた。
「美和さん、お疲れさま」
 それだけだった。
 葬儀の翌日。
 恒一は市役所で、ひよりの今後について調べていた。
 児童相談所との連携、里親制度、児童養護施設の情報。
 ひよりには親族がいない。父親も不明。
 このままでは、施設に入ることになる。
 恒一は、それでいいのかと自問していた。
 ひよりは、施設で幸せになれるだろうか。
 見知らぬ場所で、見知らぬ人たちに囲まれて。
 恒一は、資料から顔を上げた。
 窓の外を見つめる。
 冬の空は、どこまでも青い。
 恒一は、決断しようとしていた。
 ただ、その決断が正しいのかどうか、まだわからなかった。
 その日の夕方。
 恒一は由紀に電話をかけた。
「もしもし、由紀さん」
「恒一さん、どうしました?」
「今、少し時間ありますか?」
「はい」
「会って話したいことがあるんです」
 由紀は、少しだけ驚いた様子だった。
「わかりました。どこで会いましょう?」
「いつもの公園で」
「わかりました。三十分後でいいですか?」
「はい」
 電話を切って、恒一は市役所を出た。
 公園に着くと、由紀はすでに待っていた。
 ベンチに座り、コートの襟を立てている。
 恒一は隣に座った。
「お待たせしました」
「ううん、私も今来たところです」
 由紀は恒一を見た。
「話って、何ですか?」
 恒一は、少しだけ躊躇した。
 それから、ゆっくりと口を開いた。
「ひよりちゃんのこと、です」
「……はい」
「今、児童相談所と調整してるんですが、このままだと施設に入ることになります」
「そうですね」
 由紀も、それはわかっていた。
 恒一は続けた。
「でも、俺……それでいいのかって、ずっと考えてて」
「……恒一さん」
「ひよりちゃんは、まだ九歳です。母親を失って、知らない場所で暮らすことになる」
 恒一の声は、少しだけ震えていた。
「もし、俺が引き取ることができたら……」
 由紀は、息を呑んだ。
「引き取る……?」
「はい」
 恒一は由紀をまっすぐ見た。
「養育里親として、ひよりちゃんを引き取りたいんです」
 由紀は、しばらく何も言えなかった。
 それから、静かに尋ねた。
「本気ですか?」
「本気です」
「でも、恒一さん一人で子どもを育てるのは……」
「わかってます」
 恒一は頷いた。
「簡単じゃない。仕事との両立も大変だし、ひよりちゃん自身がどう思うかもわからない」
「それでも……?」
「それでも、俺は……」
 恒一は言葉を探した。
「母を失ったとき、俺は一人でした。誰も支えてくれる人がいなくて、ただ一人で抱え込んでた」
 恒一の目には、痛みが宿っていた。
「でも、ひよりちゃんには、俺がいる。由紀さんがいる」
「恒一さん……」
「だから、せめて……ひよりちゃんを一人にしたくない」
 由紀は、涙をこらえた。
「私も、同じ気持ちです」
「……由紀さん」
「ひよりちゃんを、一人にしたくない」
 由紀は恒一の手を取った。
「だから、私も手伝います」
「でも……」
「いいんです。私も、ひよりちゃんのそばにいたい」
 由紀は微笑んだ。
「それに、恒一さん一人じゃ心配だし」
 恒一は、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
 二人は、静かに手を握り合った。
 その夜。
 恒一は、ひよりの家を訪れた。
 由紀も一緒だった。
 ひよりは、リビングで宿題をしていた。
「こんばんは、ひよりちゃん」
「あ、佐倉さん。由紀さんも」
 ひよりは顔を上げた。
「どうしたの?」
「少し、話があって」
 恒一は、ひよりの向かいに座った。
 由紀も隣に座る。
 ひよりは、二人の真剣な表情を見て、少しだけ緊張した。
「……何?」
 恒一は、ゆっくりと口を開いた。
「ひよりちゃん、これから、どうしたい?」
「どうしたいって……?」
「お母さんがいなくなって、ひよりちゃん一人になった。だから、これからのこと、ちゃんと考えなきゃいけない」
 ひよりは、少しだけ視線を落とした。
「施設に行くんでしょ?」
「……そうなるかもしれない」
「でも」
 恒一は、ひよりの目を見た。
「もし、俺の家に来たいなら、来てもいい」
 ひよりは、目を見開いた。
「……え?」
「俺が、ひよりちゃんの里親になる。一緒に暮らす」
 ひよりは、信じられないという顔をした。
「本当……?」
「本当」
 恒一は頷いた。
「もちろん、ひよりちゃんが嫌なら無理にとは言わない。でも、もし一緒に暮らしてもいいって思ってくれるなら……」
「行きたい」
 ひよりは即答した。
「佐倉さんの家に、行きたい」
 恒一は、少しだけ驚いた。
「……いいの?」
「うん」
 ひよりは頷いた。
「だって、佐倉さんと由紀さんがいたら、寂しくない」
 ひよりは、二人を見た。
「施設も悪くないと思うけど、知らない人ばっかりだし」
 ひよりは小さく笑った。
「それなら、佐倉さんと由紀さんと一緒の方がいい」
 由紀は、涙をこらえた。
「ひよりちゃん……」
「でも」
 ひよりは、少しだけ真面目な顔になった。
「わたし、ちゃんと手伝うから。料理も掃除も、できるよ」
「ひよりちゃん」
 恒一は、ひよりの頭に手を置いた。
「無理しなくていい。ひよりちゃんは、ただ子どもでいてくれればいい」
「……でも」
「いいんだ」
 恒一は優しく笑った。
「俺たちが、ちゃんと支えるから」
 ひよりは、涙を流した。
「ありがとう」
 由紀も、ひよりを抱きしめた。
「ひよりちゃん、これから一緒に頑張ろうね」
「うん」
 三人は、静かに抱き合った。
 それから数週間。
 恒一は、里親認定のための手続きを進めた。
 面談、研修、家庭訪問。
 すべてをクリアし、正式に養育里親として認定された。
 そして――ひよりは、恒一の家で暮らし始めた。
 恒一のアパートは一人暮らしには十分だったが、二人で暮らすには少し狭かった。
 恒一は、少し広い部屋を借りることにした。
 二LDK。ひより専用の部屋もある。
 引っ越しの日、由紀も手伝いに来た。
 三人で段ボールを運び、家具を配置し、カーテンをつけた。
 夕方、ようやく作業が終わった。
 リビングに座り、三人で缶ジュースを飲んだ。
「疲れたね」
 ひよりが言った。
「うん、疲れた」
 恒一も笑った。
「でも、いい部屋だね」
 由紀が言った。
「広いし、明るい」
「うん」
 ひよりは窓の外を見た。
「ここから、公園が見える」
「そうだね」
 恒一も窓の外を見た。
 三人は、静かに並んで座っていた。
 新しい生活が、始まろうとしていた。