その名前を、呼べたなら

 美和が最後の言葉を残したのは、それから二日後のことだった。
 朝、ひよりが学校へ行く前に病室を訪れると、美和は珍しく目を覚ましていた。
「おはよう、ひより」
「おはよう、美和さん」
 ひよりはベッドの横に座った。
「今日、学校休んでもいい?」
「ダメ」
 美和は首を振った。
「ひよりは、ちゃんと学校に行かなきゃ」
「でも……」
「大丈夫。お母さん、ここで待ってるから」
 美和は微笑んだ。
「それに、今日は佐倉さんと篠原さんが来てくれるって」
「……うん」
 ひよりは頷いた。
 それから、美和の手を握った。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
 ひよりは立ち上がり、病室を出ようとした。
 そのとき、美和が呼んだ。
「ひより」
「なに?」
「大好きだよ」
 ひよりは振り返った。
 美和は、優しく笑っていた。
「わたしも、大好き」
 ひよりは笑顔を作って、病室を出た。
 廊下に出た瞬間、涙がこぼれた。
 ひよりは、わかっていた。
 あれが、最後の「いってらっしゃい」になるかもしれないことを。
 午前十時。
 由紀が病室を訪れると、美和は起きていた。
「美和さん、おはようございます」
「篠原さん、おはよう」
 美和の声は、とても弱々しかった。
 由紀はベッドの横に座った。
「今日、調子はどうですか?」
「……もう、限界かな」
 美和は静かに笑った。
「自分でわかるの。もうすぐだって」
「美和さん……」
「ひよりのこと、お願いします」
 美和は、由紀の手を握った。
「あの子、強がってるけど、本当はすごく寂しがり屋なんです」
「はい」
「だから、時々でいいから、話を聞いてあげてください」
「わかりました」
 由紀は涙をこらえた。
「それから……」
 美和は少し考えるように間を置いた。
「佐倉さんと、うまくいってますか?」
 由紀は少し驚いた。
「……どうして?」
「ひよりから聞いたの。篠原さん、佐倉さんのこと好きだって」
 美和は微笑んだ。
「あの人、優しそうですね」
「はい。とても」
「よかった」
 美和は目を閉じた。
「ひよりに、優しい人たちがいてくれて」
「美和さん、もう話さなくていいです。休んでください」
「……うん」
 美和は、そのまま眠りに落ちた。
 午後二時。
 恒一が病室を訪れた。
 由紀が、ベッドの横で座っている。
「由紀さん」
「恒一さん」
 由紀は立ち上がった。
「美和さん、さっき少し話しました。でも、もう……」
 由紀の声が震えた。
 恒一は、由紀の肩を抱いた。
「大丈夫です。そばにいましょう」
「……はい」
 二人は、美和のベッドの横に座った。
 美和は、静かに眠っている。
 時々、かすかに呼吸の音がする。
 恒一は、美和の顔を見つめた。
 まだ三十四歳。
 自分より一つ下。
 こんなにも若く、母として懸命に生きてきた女性が、今、静かに命を終えようとしている。
 恒一は、母のことを思い出した。
 母も、こんなふうに静かに逝ったのだろうか。
 恒一は、最後に立ち会えなかった。
 でも、今度は違う。
 今度は、ここにいる。
 午後四時。
 ひよりが学校から戻ってきた。
 病室に入ると、恒一と由紀が静かに座っていた。
「ただいま」
 ひよりは小さく言った。
「おかえり、ひよりちゃん」
 由紀が答えた。
 ひよりは、母の方を見た。
「美和さん、寝てるの?」
「うん」
 ひよりはベッドの横に座った。
 母の手を取る。
 まだ、温かかった。
「美和さん、わたし帰ってきたよ」
 小さな声で呼ぶ。
 美和の瞼が、わずかに動いた。
 そして、ゆっくりと開いた。
「……ひより」
「うん」
「おかえり」
「ただいま」
 ひよりは涙をこらえた。
 美和は、ひよりの手を握った。
「ひより……手帳……」
「手帳?」
「引き出し……見て」
 ひよりは、ベッド横の引き出しを開けた。
 そこには、あの茶色い革の手帳があった。
 ひよりはそれを取り出した。
「これ?」
「うん……最後のページ……」
 美和の声は、とても小さかった。
 ひよりは手帳を開き、最後のページをめくった。
 そこには、日付と短い文章が並んでいた。
 二月十四日 今日は、ひよりを呼んだ日
 三月二十日 今日は、ひよりを呼んだ日
 五月十日 今日は、ひよりを呼んだ日
 毎年、ひよりの誕生日に、同じ言葉が書かれていた。
 今日は、ひよりを呼んだ日
 ひよりは、涙が止まらなくなった。
「美和さん……」
「名前を呼ぶことが……大事なんだって……気づいたの」
 美和は、かすかに笑った。
「あなたが生まれたとき……初めて『ひより』って呼んだ」
「うん」
「それから……毎年……誕生日に……ちゃんと呼ぼうって……決めたの」
 美和の目から、涙がこぼれた。
「名前は……存在の証明……」
「美和さん……」
「ひより……あなたは……ここにいる……」
 美和は、ひよりの手を強く握った。
「ずっと……ここにいる……」
「うん……」
「忘れないで……」
 美和の声が、途切れた。
 ひよりは、母を抱きしめた。
「忘れないよ。絶対、忘れない」
 美和は、もう何も言わなかった。
 ただ、ひよりの背中に手を回した。
 そして――静かに、その手が力を失った。
 午後四時三十七分。
 美和は、静かに息を引き取った。
 ひよりは、母を抱きしめたまま、泣き続けた。
 由紀も、涙を流していた。
 恒一は、二人を見守りながら、自分の母のことを思っていた。
 母も、恒一の名前を呼んでくれていた。
 留守電に残された、あの声。
 『恒一』
 恒一は、初めて気づいた。
 母は、最後まで恒一の名前を呼んでくれていた。
 それは、恒一がここにいることを、確かめるためだったのだ。
 恒一は、静かに涙を流した。
 その日の夜。
 ひよりは由紀に付き添われて、家に帰った。
 恒一も一緒だった。
 三人は、リビングに座った。
 誰も、何も言わなかった。
 ひよりは、母の手帳を膝の上に置いている。
 しばらくして、ひよりが口を開いた。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「佐倉さんのお母さんも、佐倉さんの名前呼んでた?」
 恒一は、少しだけ驚いた。
「……うん」
「よかった」
 ひよりは小さく笑った。
「名前を呼ぶって、すごく大事なことなんだね」
「……そうだね」
 恒一は頷いた。
「俺も、今日やっとわかった」
 ひよりは手帳を開いた。
 今日は、ひよりを呼んだ日
 その言葉を、じっと見つめた。
「わたし、これからもちゃんと美和さんの名前呼ぶ」
「……うん」
「そうしたら、美和さん、まだここにいてくれる気がする」
 ひよりは、涙を流しながら笑った。
 由紀は、ひよりを抱きしめた。
「大丈夫。美和さんは、ずっとひよりちゃんのそばにいるよ」
「うん」
 恒一も、二人に寄り添った。
 三人は、静かに寄り添い合った。
 長い、長い夜だった。