その名前を、呼べたなら

 美和の容態が再び悪化したのは、それから一週間後のことだった。
 ひよりは学校から帰るとすぐに病院へ向かうようになっていた。宿題も、夕食も、すべて病室で済ませる。そして夜遅くまで母のそばにいて、由紀か恒一が家まで送っていく。
 そんな日々が続いていた。
 ある日の夕方。
 ひよりが病室で宿題をしていると、美和が静かに言った。
「ひより」
「なに?」
「お願いがあるの」
 ひよりは顔を上げた。
 美和は、少し疲れた表情をしていた。
「家に、お母さんの荷物があるでしょ」
「うん」
「その中に、手帳があるの。茶色い革の」
「手帳?」
「うん。それ、持ってきてくれる?」
 ひよりは頷いた。
「わかった。明日持ってくる」
「ありがとう」
 美和は微笑んだ。
 翌日。
 ひよりは学校が終わると、一度家に戻った。
 母の部屋に入るのは、久しぶりだった。
 ベッドは綺麗に整えられていて、デスクには本が積まれている。
 ひよりはクローゼットを開け、母の荷物を探した。
 段ボール箱が一つ。
 中を開けると、古い手紙、写真、そして──茶色い革の手帳があった。
 ひよりはそれを手に取った。
 少し使い込まれている。
 ひよりは、開いてみたい衝動に駆られた。
 でも、これは母のものだ。
 勝手に見てはいけない。
 ひよりは手帳をバッグにしまい、病院へ向かった。
 病室に着くと、美和は窓の外を見つめていた。
「美和さん、持ってきたよ」
 ひよりは手帳を差し出した。
「ありがとう」
 美和は手帳を受け取り、じっと見つめた。
「これね、お母さんが二十歳のときから書いてたの」
「そうなの?」
「うん。大事なこと、全部ここに書いてた」
 美和は手帳を開いた。
 ページをめくりながら、少しだけ笑った。
「ひよりが生まれた日のことも、書いてある」
「見せて」
 ひよりは母の隣に座った。
 美和は、あるページを開いた。
 二月十四日 ひより、誕生
 その下に、小さな文字で何かが書かれている。
 『今日、ひよりが生まれた。小さくて、柔らかくて、すごく軽かった。初めて名前を呼んだとき、ちゃんと目を開けてくれた気がした。この子を守ろう。この子のために生きよう』
 ひよりは、涙が出そうになった。
「美和さん……」
「ひより、ごめんね」
 美和は手帳を閉じた。
「お母さん、ちゃんと約束守れなかった」
「……何の約束?」
「ひよりを守るって約束」
 美和の目に、涙が浮かんだ。
「でも、お母さん、もうすぐいなくなっちゃう」
「美和さん、そんなこと言わないで」
 ひよりは母の手を握った。
「まだわかんないよ。先生だって、わからないって」
「……そうだね」
 美和は小さく笑った。
「ごめん。弱音吐いちゃった」
「ううん」
 ひよりは母を抱きしめた。
「美和さんは強いよ。だから、大丈夫」
 美和は、ひよりの背中をそっと撫でた。
 その夜。
 恒一が病室を訪れた。
 ひよりは宿題を終えて、ベッドの横で本を読んでいた。
 美和は眠っている。
「こんばんは」
 恒一は静かに声をかけた。
「あ、佐倉さん」
 ひよりは顔を上げた。
「由紀さんは?」
「今日は別の患者さんの対応があって。俺が代わりに来ました」
「そっか」
 ひよりは本を閉じた。
 恒一はひよりの隣に座った。
「お母さん、どう?」
「今日は調子いい。さっきまで話してたんだ」
「そっか。よかった」
 恒一は美和の方を見た。
 穏やかな寝顔だった。
 ひよりが、ふと言った。
「ねえ、佐倉さん」
「なに?」
「お母さんが死んじゃったら、わたしどうなるの?」
 恒一は、少しだけ驚いた。
「……どうして、そんなこと聞くの?」
「だって、わたし、まだ九歳だもん。一人で生きていけない」
 ひよりの声は、冷静だった。
「親戚もいないし。施設に行くのかな」
 恒一は、何と答えればいいのかわからなかった。
「……ひよりちゃん」
「大丈夫。怖くない」
 ひよりは小さく笑った。
「施設にも、きっといい人いるよね」
「ひよりちゃん」
 恒一は、ひよりの肩に手を置いた。
「俺たちが、ちゃんと考えるから」
「……本当?」
「うん。由紀さんも、俺も、ひよりちゃんのこと一人にしない」
 ひよりは、恒一を見上げた。
「ありがとう」
 それから、少しだけ考えるように間を置いた。
「佐倉さん、由紀さんのこと、名前で呼ぶようになったんだね」
「……うん」
「よかった」
 ひよりは嬉しそうに笑った。
「二人、付き合ってるの?」
 恒一は少し慌てた。
「い、いや、そういうわけじゃ……」
「でも、好きなんでしょ?」
「……まあ」
「じゃあ、ちゃんと付き合えばいいのに」
 ひよりは不思議そうに首を傾げた。
 恒一は苦笑した。
「そうだね」
 数日後。
 美和の容態がさらに悪化した。
 食事もほとんど取れなくなり、会話も途切れがちになった。
 医師は、由紀と恒一を呼んで静かに言った。
「おそらく、あと数日です」
 由紀は、その言葉を聞いて唇を噛んだ。
「……わかりました」
「ご家族には、伝えますか?」
「いえ」
 由紀は首を振った。
「ひよりちゃんには、まだ……」
「わかりました」
 医師は頷いた。
 その日の夕方。
 ひよりが病室を訪れると、美和は目を覚ましていた。
「ひより」
「うん」
「ちょっと、お母さんの荷物、整理してくれる?」
「え?」
「家にある、お母さんの服とか本とか」
 美和は静かに言った。
「もう、いらないから」
 ひよりは、その言葉の意味を理解した。
 母は、準備をしている。
 終わりの準備を。
「……うん」
 ひよりは頷いた。
「わかった」
「ありがとう」
 美和は、ひよりの頭を撫でた。
「ひよりは、本当にいい子だね」
「……美和さん」
「うん」
「死なないで」
 ひよりの声が、震えた。
「わたし、まだ美和さんと話したいことがいっぱいあるの」
「……ひより」
「だから、死なないで」
 ひよりは涙を流した。
 美和は、ひよりを抱きしめた。
「ごめんね」
 それだけしか、言えなかった。
 その夜。
 恒一は由紀と一緒に、病院近くのカフェにいた。
 二人とも、コーヒーに口をつけていない。
「恒一さん」
 由紀が口を開いた。
「はい」
「美和さん、もう長くないです」
「……そうですね」
「ひよりちゃんに、どう伝えればいいんでしょう」
 由紀の声は、震えていた。
 恒一は、静かに答えた。
「きっと、ひよりちゃんはもう気づいてます」
「……そうですね」
「だから、俺たちができるのは、そばにいることだけです」
 恒一は由紀の手を取った。
「由紀さん、一緒に支えましょう」
 由紀は頷いた。
「はい」
 二人は、静かに手を握り合った。