気温と湿度の変化でフィリーネがかけている眼鏡のレンズは曇った。
フィリーネはバケツを一旦床に下ろす。
眼鏡をはずして服の袖で曇りを取ろうとすると、うっかり眼鏡を大理石の床に落としてしまった。眼鏡は数メートル先まで滑っていく。
「め、眼鏡が!!」
フィリーネは視力が悪い。
もともと悪くはなかったが、五年前から針仕事を始めたのを機にガクッと落ちてしまった。それ故に、近くのものは眼鏡なしでも見えるけれど、遠くのものはぼんやりとしか見えない。
ハビエルに報告すると渋々ながらに眼鏡を買い与えてくれた。その代わり、眼鏡代を上乗せするように仕事量は増やされてしまったが……。
フィリーネは目を凝らして滑っていった眼鏡を探す。
「大変です。眼鏡がないと何も見えません! どこへ行ったのでしょうか」
しゃがんで手探りで探していると、高価な革張りの靴が視界に入る。それは男性もので、綺麗に磨き上げられていた。
一瞬、ハビエルかと思ってフィリーネの心臓が大きく跳ねる。しかし、先ほどの朝食で数日出かけると言っていたので彼ではない。
では、この立派な靴は誰のものだろう。疑問を抱くと同時に上から声が降ってくる。
「これを探しているの?」
聞いたことのない男性の声だった。
目の前にはフィリーネが落とした眼鏡が差し出されている。
「はい、私の眼鏡です!」
フィリーネは元気よく返事をしてパッと顔を輝かせる。
相手が誰かという疑問は吹き飛んだ。そんなことよりも大事な眼鏡が見つかったのだ。
これで遠くのものがしっかり見えるし、胸を張って歩いていける。
フィリーネは両手で眼鏡を受け取った。これでもう安心だ。
「ありがとうございます。困っていたので助かりまし……」
眼鏡をかけて顔を上げたフィリーネはピシリと固まった。
目の前にいるのは、触ってみたくなるようなふわふわとした亜麻色の髪に、深緑の瞳をした青年。
小柄そうに見えるがフィリーネが立ち上がるとそれなりに上背があり、品の良い紺色のコートがよく似合っている。
フィリーネはこの青年をよく知っていた。



