梅雨と雨恋 図書室の鳴らないオルゴール

第2話 油を差したら、しみこんだのは

 その日の放課後も、空は鉛色のままだった。教室の窓を閉めても、雨の匂いが廊下の隙間から入り込んでくる。望愛は傘を持ったまま図書室へ戻り、机の上の木箱を見下ろした。昼休みに閉じた蓋が、まだ冷たい。

 想は先に来ていて、新聞紙を二枚、作業机に広げていた。紙面の黒い文字が湿気で少し波打っている。理科室で見かけるような細いドライバーと、ピンセット、それから小さなライトが並べられていた。

「借りてきた。先生に、戻す時間も言ってある」
 想はそう言い、工具の先端を布で拭いた。雨の日でも手が濡れていないのは、傘を畳むときに何度も振り落としたからだと分かる。

 寿樹が遅れて飛び込んできた。手には、透明なボトルが一本。振ると中の液体が、ちゃぷ、と音を立てた。
「これ。潤滑油。うちの倉庫にあった! 絶対、これで鳴る!」
 寿樹は勢いよくボトルを掲げ、明乃に見せつけた。

 明乃は入口の傘立てに自分の傘を差し、手首の水滴を払ってから、少し離れた本棚にもたれた。机に近づかず、距離だけで全体を見ている。
「寿樹、今の言い方、すでに鳴ってる。あなたの声が」
「え、俺、うるさい?」
「静かな図書室で、あなたの声は蛍光灯みたい」
 明乃がさらっと言うと、寿樹は口を手でふさいだ。「すみません」と小声で言うのが妙に大きい。

 望愛は、ノートを取り出して机の端に置いた。いつもと同じ場所。自分の手が止まりそうなときに、文字にして押さえ込むための場所。木箱を守りたい気持ちが、今日は胸の内側で鳴っている。

 想が木箱を新聞紙の中央に置いた。
「まず、外から。油は最後」
 想の言い方は押しつけがましくない。けれど、手順だけはきっちりしている。寿樹は「はいっ」と小声で返事をし、ボトルのキャップを開けた。

 その瞬間だった。
 寿樹が「ほんのちょっとだけ」と言いながら、ほんのちょっとの概念を見失った。ボトルの口を傾けた角度が深く、透明な雫が、細い糸になって落ちる。想が「待って」と言うより早く、一滴が机の端へ跳ねた。

 望愛のノートに、ぽとり。

 薄い紙が、じわりと色を変えた。インクの線があるページの端で、油が丸く広がっていく。
 望愛は声を出さなかった。驚いた顔もしない。ただ、ページを一枚、めくる。次もめくる。さらにめくる。指先が油に触れないように、紙の角だけをつまんで、黙々と進める。

 寿樹の顔色が、雨雲みたいに灰色になった。
「ご、ごめん! え、ティッシュ! いや、紙って、だめ? 吸う? 吸ったら破ける!?」
 寿樹は机の引き出しを開けようとして、逆側の取っ手を引いた。何も開かない。さらに焦って、今度は自分のカバンのチャックを開ける音だけが鳴る。

 明乃が本棚から一歩だけ近づき、乾いた声で言った。
「寿樹、ノートを救う前に、あなたの手が救いを求めてる」
「手が、震えてる……!」
「震えてると、また落とすよ」
 明乃の言葉で、寿樹はぴたりと動きを止めた。止めるのに、ものすごい力が要った顔をしている。

 想はティッシュを一枚取り、油の輪の外側にそっと当てた。押さえず、吸わせるだけ。手首の角度が一定で、無駄な力が入っていない。
「広がりは止まる。破れない」
 想は短く言い、望愛のほうを見る。慰めの言葉を探している顔ではない。ただ、次に何をするかを確認する顔だ。

 望愛は、めくるのを止めた。油のついたページの上に、指を置かないまま視線だけを落とす。
「大丈夫」
 その声は小さいのに、寿樹の肩が少し下がった。

 望愛は一拍置いて、続けた。
「汚れは……書き直せる。でも、失ったら戻らない」
 自分でも、なぜそう言ったのか分からない。言った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。寿樹は「うっ」と詰まり、明乃は眉を動かしただけで何も言わなかった。

 想は、紙片を挟むためのクリアファイルを机の上に置いた。
「ノート、これに入れよう。次から、机の真ん中を空ける」
 命令ではなく提案の形で、現実的な対策が出る。望愛はうなずき、ノートをそっと滑らせてファイルへ入れた。

「木箱のほう、続ける」
 想は木箱の金具を確認し、寿樹に視線を向けた。
「油は、あとで。寿樹、キャップ閉めて」
「はい……閉めます……二度と開けません……」
「開けるのは必要なときだけ」
 想が淡々と返すと、寿樹は「必要なときだけ!」と復唱した。図書室で響くその小声に、明乃が口の端を上げる。

 想が蓋をゆっくり開けた。中の布は、薄い灰色に変色している。金属の部品に錆があり、湿気の匂いが強い。望愛は呼吸を浅くして覗き込み、木の内側に焼き印のような跡を見つけた。

「……文字?」
 望愛が言うと、想がライトを当てた。木箱の内側、角のあたりに、薄い刻印が残っている。
 読み取れたのは、三文字と二文字。
『岸本時計店』

 寿樹が目を丸くした。
「時計店? ここ、図書室なのに?」
 明乃が肩をすくめる。
「図書室にも迷子は来る。寿樹も来る」
「俺、迷子扱い!?」

 望愛は刻印から目を離せなかった。商店街の名前を思い浮かべるより先に、胸の奥がまたざらつく。木箱が、誰かの手から誰かの手へ渡ってきた道筋が、文字の形になって残っている。

 想は蓋を閉じ、木箱を新聞紙の中央に戻した。
「土曜、店に行こう。雨なら、傘は二本ある」
 望愛は「うん」と答えた。自分の声がちゃんと出たことに、少しだけ安心する。寿樹は「俺、傘の骨も直してもらおうかな」と言い、明乃に即座に視線だけで止められた。

 帰り支度をするとき、望愛はクリアファイル越しにノートを撫でた。油の輪は残ったまま。けれど、ページは破れていない。書き直す場所も、まだある。

 雨はまだ降っている。けれど、次の行き先が一つ、具体的な名前を持った。
【続】