影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第9話 生徒会の条件 
 
 七月上旬の昼休み。チャイムが鳴った直後、穂乃花の机の端の「10円相談」の箱より先に、担任が黒板の前で手を叩いた。

 「2年2組。生徒会から呼び出し。……龍星、あと穂乃花。いま、募金――じゃない、集めてる硬貨の件だそうだ」

 「……はい」

 龍星は返事をして、急いで椅子を引いた。教室の後ろの棚に置いていた瓶をそっと抱える。透明なガラス越しに、1円玉が光って見えた。

 惺大が箸を止めて、わざとらしく胸を張る。
 「おいおい、俺たちの善行が公式に表彰されるやつ?」
 「公式に止められるやつだよ」
 生久実が小さく拍手をして、惺大の額を指でつついた。

 穂乃花は弁当のふたを閉め、レシートを一枚だけ折り畳んでポケットに入れた。龍星の持つ瓶に視線を落とし、つぶやく。
 「割ったら、弁償」
 「割りません」
 龍星の声が、ほんの少しだけ硬い。

 廊下を歩くと、窓から入る日差しが床の白線に細く落ちた。穂乃花はその影を踏まないよう、迷いなく足先をずらす。龍星は同じだけずらして、肩がぶつからない距離を保った。

 生徒会室は職員室の近くにあった。扉の前で一度深呼吸して、龍星がノックをする。
 「2年2組の龍星です。……入ります」

 室内は机がきれいに並び、掲示物の角が全部そろっていた。生徒会長は書類を閉じ、眼鏡の奥で二人を見た。隣には副会長らしい上級生が、ペンを持ったまま動かない。

 「……あなたたちが、硬貨を集めている生徒?」
 「はい。あの、目的があって……」
 龍星は瓶を胸の高さで抱え、深く頭を下げた。
 「祖父の望遠鏡の修理のためです。七月七日の夜に、車いすの祖母に――」

 「気持ちは分かる。でも、無許可で金銭を集めるのはだめ。紛失したら、誰が責任を取るの。強制だと感じる人もいる」

 龍星の背中が、少しだけ丸くなる。言い返さない。言えない。

 その横で、穂乃花が瓶を机の上に置いた。ガラスが机に当たる前に、下に白いハンカチを敷く。どこから出したのか、誰も分からない速さだった。
 「机、傷つくと、直す費用が出る」
 副会長のペン先が止まった。

 穂乃花は瓶のふたを回して外すと、硬貨を机の上へ静かに広げた。金属の音が小さく跳ねて、室内の空気が一瞬ひりつく。

 「……え、全部出すの?」
 副会長が言う。
 穂乃花は返事をしない。代わりに、1円玉と10円玉をすっと分け、指先で数を作っていく。まるで算数の授業のように速い。

 「1円玉、三百二十七枚。10円玉、十二枚。合計、四百四十七円」
 「え」
 「……今、数えたの?」
 生徒会長が目を丸くした。

 穂乃花は、1円玉を十枚ずつに並べ直しながら言う。
 「数は、嘘つかない。嘘つくのは、人」
 「言い方」
 副会長が思わず突っ込む。

 穂乃花は顔色を変えず、折り畳んだ紙を一枚、机の中央に出した。小さな文字が、きっちり揃っている。
 「だから、嘘つけない形にする」

 生徒会長がその紙を読む。

 『使用目的:望遠鏡の修理部品代(ねじ・接眼部品)
  期間:本日から7月7日まで
  保管場所:生徒会室の金庫(毎日、入室時に出納確認)
  記録:日付・硬貨の枚数・合計金額を帳面に記入
  確認者:2名(龍星・穂乃花)+生徒会の立会い1名』

 「……ここまで考えてるの?」
 生徒会長が言うと、龍星が驚いたように穂乃花を見る。
 穂乃花は視線を逸らしたまま、ハンカチの端をぴしっと折り直す。
 「考えないと、信用が減る」

 生徒会長は指で紙を軽く叩いた。
 「でも、容器がガラスなのは危ない。割れたら怪我もする。廊下で落としたら終わりだよ」

 「その通り」
 穂乃花は即答した。反論ではなく、同意だった。
 「だから、割れない容器に替える。口は狭くして、手が入らない形。封をして、剥がしたら分かる紙も貼る」

 副会長が半笑いになる。
 「それ、どこまでやる気なの」
 「やらないと、やってないって言われる」
 穂乃花は硬貨を元の円に戻すように、静かに集め始めた。

 生徒会長が少しだけ肩の力を抜いた。
 「強制だと感じる人、って話は?」
 龍星が口を開くより先に、穂乃花が言った。
 「影を踏んだら1円は、遊び。入れない選択もある。机の横に『自由』って書く。誰も追いかけない」
 「惺大は追いかけます」
 龍星が小さく言ってしまい、穂乃花がちらりと見る。
 「追いかけたら、1円」
 「今のも?」
 「今のは、口」

 副会長が吹き出して、慌てて咳払いをした。生徒会長は笑わないように唇を引き結ぶが、目尻だけが少し柔らかい。

 「分かった。条件付きで許可する」
 生徒会長は机の引き出しから生徒会の書式を出し、ペンを差し出した。
 「この内容を正式に提出。容器はガラスじゃないもの。金庫で保管、帳面の記録は毎日。七月七日で終了。守れなかったら、その時点で中止」

 龍星が深く頭を下げた。
 「ありがとうございます。必ず守ります」

 穂乃花はペンを受け取って、書類の空欄を迷いなく埋めた。文字がまっすぐで、余白が均等だ。最後の欄に自分の名前を書いてから、龍星へペンを渡す。

 龍星が署名する手元を見ながら、穂乃花が小さく言った。
 「頭を下げるのは無料。でも、守るのは有料。時間も、手間も」
 「……うん」
 龍星は頷いた。頷き方が、さっきより軽い。

 生徒会室を出ると、廊下の光が少し眩しかった。龍星は胸の奥のつかえが取れたように息を吐く。
 「穂乃花さん、助かった。俺、言葉が足りないから……」
 「足りないなら、書く」
 穂乃花は返したあと、ポケットの中でレシートを指で押さえた。
 「あと、容器。今から探す。割れないやつ」

 「昼休み、もう終わる」
 龍星が時計を見ると、穂乃花は小走りになった。廊下の影を器用に避けながら。
 「走るのは無料。転ぶのは有料」

 龍星は苦笑して、遅れないように追いかけた。追いかけながら、ふと思う。
 ――この人は、硬貨を守っているようで、いちばん守っているのは、誰かが信じたくなる形なのかもしれない。

 教室へ戻る途中、惺大が廊下の向こうから手を振った。
 「おーい! どうだった? 俺の顔、使った?」
 穂乃花が足を止め、惺大の影の真上を指さす。
 「今、踏んだ。1円」
 「え、俺、踏んでない!」
 「影は嘘つかない」
 「それ、さっき聞いた!」

 生久実の拍手が、また廊下に弾んだ。

【続】