第8話 屋上の星はまだ小さい
七月上旬の夜。定食屋の看板の電球が二回ほど瞬いて、穂乃花は家の鍵を回した。指先に残る食器用洗剤の匂いが、まだ少しだけ甘い。
校門をくぐると、昼間の熱がやっと抜けて、アスファルトがぬるく息をしていた。遠くで波の音が、消しゴムを机でこするみたいに一定で、星見町の灯りが海へ溶けている。
昇降口の前で、龍星が待っていた。手には、双眼鏡と、理科準備室の鍵が入った小さな封筒。封筒の角が、きっちり折られている。
「先生、貸してくれた。『屋上は走るな』って」
「走らない。階段は、転ぶと治療代」
穂乃花が言うと、惺大が後ろから肩を鳴らした。
「治療代なら、俺が払う。俺は太っ腹だから」
「胃で払わないで」
生久実が笑いながら、両手で拍手を一回だけ打った。ぱん。
四人は理科室の横を通り、非常階段の入口へ向かった。夜の校舎は、昼より音が大きい。蛍光灯の残り香みたいな明るさが、廊下にうっすら残っている。
穂乃花は階段の手すりを握りながら、一段ずつ数えるみたいに上がった。踊り場に差し込む街灯の影を、つい避けてしまう。足が黒い形を踏みそうになると、体が勝手に一歩ずれる。
「影、踏むと一円だっけ」
惺大がわざと足を伸ばすと、穂乃花は即座にポケットから空の小袋を出した。
「屋上は募金瓶がない。だから袋。踏んだら入れて」
「準備いいな!」
惺大は嬉しそうに影を踏み、財布から一円玉を出した。ちゃり、と袋の底で鳴る。
生久実がまた拍手した。
「はい、いまの一円、きれい!」
屋上の扉は、金属の音を立てて開いた。ひやりとした風が、髪の毛の隙間に入ってくる。フェンスの向こうに、海と山の黒い輪郭。遠くの漁船の灯りが、点々と浮いていた。
雲は厚い。けれど真上のどこかに、薄い裂け目が一筋だけあった。
龍星が双眼鏡のストラップを首にかけ、フェンス際で膝をついた。靴ひもを結び直し、持ち物を地面から少し離して置く。風で転がらないように、角度まで揃える。
「落ちたら、戻せないから」
その言い方が、望遠鏡の部品の話にも、祖母の時間の話にも聞こえて、穂乃花は口を閉じた。
龍星が双眼鏡を覗き、息を短く吸った。
「見える。……一つだけ」
「一つ?」
生久実が背伸びをして、龍星の肩のあたりを覗き込む。惺大は「俺にも貸せ」と騒ぎ、穂乃花は「順番は無料だけど、抜かしたら一円」と抑えた。
龍星は最初に生久実へ双眼鏡を渡した。ストラップを手の甲に通してから。生久実は覗いた瞬間、肩が跳ねた。
「うわ……ちっちゃい! でも、ちゃんと光ってる!」
拍手が先に出る。ぱん、ぱん。
「ほら、そこ。ちょっと左。あれが——」
龍星が指で空をなぞる。指先は星に届かないのに、言葉は届いていく。
次に惺大が覗き、すぐに得意げな声を上げた。
「見えた! 俺の未来みたいに、キラキラ!」
穂乃花が間髪入れず返す。
「未来は売ってない」
「じゃあ今の俺、無料で輝いてるってこと?」
「無料は、光熱費が痛い」
生久実が笑って、また拍手した。笑いと拍手が混ざって、屋上の風に飛んでいく。
最後に穂乃花が双眼鏡を受け取った。手のひらでレンズの縁を押さえ、指紋がつかないように袖を少しだけ引く。覗き込むと、黒い世界が丸く切り取られ、その真ん中に針の先みたいな光があった。
——これが、あの人の空。
息を吐くと、双眼鏡の中で光が小さく揺れた。揺れても消えない。
穂乃花は思わず笑ってしまう。
「名前、あるの?」
「ある。いま見えてるのは、たぶん——」
龍星は空を見上げたまま、星座の並びを短く説明した。北の方向、隣の星との間隔、雲の流れ。言葉が、手順書みたいにきれいに並ぶ。
穂乃花は双眼鏡から目を離し、言った。
「名前が付くと、買ったみたい」
惺大が「買うならいくらだ?」と乗る。
穂乃花は即答した。
「一円」
「安っ!」
「一円でも、払ったら責任が発生する。星に願うなら、責任の方が重い」
生久実が「それ、かっこいい」と言いかけて、慌てて笑いに変えた。
「でも……穂乃花の言い方、なんか、胸がぎゅってする」
そのとき、雲の裂け目が少しだけ広がった。ほんの数秒、星が二つ、三つと増える。龍星が声を上げる。
「今!」
四人がいっせいに空を見上げる。生久実の拍手が止まって、惺大の口も閉じた。風だけが、フェンスを鳴らす。
増えた星は、すぐに雲に隠れた。残ったのは、さっきより冷たい夜気と、胸の奥の熱だ。
龍星が小さく笑った。
「まだ小さいけど、ちゃんとある」
穂乃花は双眼鏡を封筒の横に置き、ストラップを揃えてたたんだ。
「小さい方が、数えやすい」
「数えるの、好きだね」
龍星が言うと、穂乃花は返事をしなかった。返事の代わりに、屋上の床の白いラインの上を、靴先でまっすぐなぞった。影を踏まないように。
帰り道、校門を出ると、街灯の下に四人の影が伸びた。惺大がわざと変な歩き方をして影を揺らし、生久実が笑いながら「影がダンスしてる」と言う。龍星はその二人を前に行かせ、穂乃花の隣に並んだ。
歩幅を合わせるのが上手い。穂乃花が影を避けて一歩ずれると、龍星も同じだけずれる。言葉は少ないのに、足音が揃っていく。
「七夕に願うなら、穂乃花さんは何を願う?」
龍星が、街灯の明るさが途切れるところで聞いた。
穂乃花はポケットの中で、十円玉を親指でなぞった。硬貨のふちのギザギザが、指先に引っかかる。落としたら探すのが面倒なくせに、触っていると落ち着く。
「……損しない願い」
「損しない、って」
「減らないやつ」
穂乃花はそれだけ言って、十円玉を握り直した。手のひらの中で、金属がぬるくなる。
龍星は「そうか」とだけ言った。追いかけない。その代わり、少しだけ歩く速度を落とした。穂乃花が影を避ける余裕ができるように。
生久実の笑い声が前から飛んでくる。惺大が「俺の未来、今見た星よりでかい」と言い、生久実が「でかいのは声!」と拍手する。
穂乃花はその音を聞きながら、胸の奥で小さな光が揺れるのを確かめた。数えなくても消えない光が、どこかにある気がした。
【続】
七月上旬の夜。定食屋の看板の電球が二回ほど瞬いて、穂乃花は家の鍵を回した。指先に残る食器用洗剤の匂いが、まだ少しだけ甘い。
校門をくぐると、昼間の熱がやっと抜けて、アスファルトがぬるく息をしていた。遠くで波の音が、消しゴムを机でこするみたいに一定で、星見町の灯りが海へ溶けている。
昇降口の前で、龍星が待っていた。手には、双眼鏡と、理科準備室の鍵が入った小さな封筒。封筒の角が、きっちり折られている。
「先生、貸してくれた。『屋上は走るな』って」
「走らない。階段は、転ぶと治療代」
穂乃花が言うと、惺大が後ろから肩を鳴らした。
「治療代なら、俺が払う。俺は太っ腹だから」
「胃で払わないで」
生久実が笑いながら、両手で拍手を一回だけ打った。ぱん。
四人は理科室の横を通り、非常階段の入口へ向かった。夜の校舎は、昼より音が大きい。蛍光灯の残り香みたいな明るさが、廊下にうっすら残っている。
穂乃花は階段の手すりを握りながら、一段ずつ数えるみたいに上がった。踊り場に差し込む街灯の影を、つい避けてしまう。足が黒い形を踏みそうになると、体が勝手に一歩ずれる。
「影、踏むと一円だっけ」
惺大がわざと足を伸ばすと、穂乃花は即座にポケットから空の小袋を出した。
「屋上は募金瓶がない。だから袋。踏んだら入れて」
「準備いいな!」
惺大は嬉しそうに影を踏み、財布から一円玉を出した。ちゃり、と袋の底で鳴る。
生久実がまた拍手した。
「はい、いまの一円、きれい!」
屋上の扉は、金属の音を立てて開いた。ひやりとした風が、髪の毛の隙間に入ってくる。フェンスの向こうに、海と山の黒い輪郭。遠くの漁船の灯りが、点々と浮いていた。
雲は厚い。けれど真上のどこかに、薄い裂け目が一筋だけあった。
龍星が双眼鏡のストラップを首にかけ、フェンス際で膝をついた。靴ひもを結び直し、持ち物を地面から少し離して置く。風で転がらないように、角度まで揃える。
「落ちたら、戻せないから」
その言い方が、望遠鏡の部品の話にも、祖母の時間の話にも聞こえて、穂乃花は口を閉じた。
龍星が双眼鏡を覗き、息を短く吸った。
「見える。……一つだけ」
「一つ?」
生久実が背伸びをして、龍星の肩のあたりを覗き込む。惺大は「俺にも貸せ」と騒ぎ、穂乃花は「順番は無料だけど、抜かしたら一円」と抑えた。
龍星は最初に生久実へ双眼鏡を渡した。ストラップを手の甲に通してから。生久実は覗いた瞬間、肩が跳ねた。
「うわ……ちっちゃい! でも、ちゃんと光ってる!」
拍手が先に出る。ぱん、ぱん。
「ほら、そこ。ちょっと左。あれが——」
龍星が指で空をなぞる。指先は星に届かないのに、言葉は届いていく。
次に惺大が覗き、すぐに得意げな声を上げた。
「見えた! 俺の未来みたいに、キラキラ!」
穂乃花が間髪入れず返す。
「未来は売ってない」
「じゃあ今の俺、無料で輝いてるってこと?」
「無料は、光熱費が痛い」
生久実が笑って、また拍手した。笑いと拍手が混ざって、屋上の風に飛んでいく。
最後に穂乃花が双眼鏡を受け取った。手のひらでレンズの縁を押さえ、指紋がつかないように袖を少しだけ引く。覗き込むと、黒い世界が丸く切り取られ、その真ん中に針の先みたいな光があった。
——これが、あの人の空。
息を吐くと、双眼鏡の中で光が小さく揺れた。揺れても消えない。
穂乃花は思わず笑ってしまう。
「名前、あるの?」
「ある。いま見えてるのは、たぶん——」
龍星は空を見上げたまま、星座の並びを短く説明した。北の方向、隣の星との間隔、雲の流れ。言葉が、手順書みたいにきれいに並ぶ。
穂乃花は双眼鏡から目を離し、言った。
「名前が付くと、買ったみたい」
惺大が「買うならいくらだ?」と乗る。
穂乃花は即答した。
「一円」
「安っ!」
「一円でも、払ったら責任が発生する。星に願うなら、責任の方が重い」
生久実が「それ、かっこいい」と言いかけて、慌てて笑いに変えた。
「でも……穂乃花の言い方、なんか、胸がぎゅってする」
そのとき、雲の裂け目が少しだけ広がった。ほんの数秒、星が二つ、三つと増える。龍星が声を上げる。
「今!」
四人がいっせいに空を見上げる。生久実の拍手が止まって、惺大の口も閉じた。風だけが、フェンスを鳴らす。
増えた星は、すぐに雲に隠れた。残ったのは、さっきより冷たい夜気と、胸の奥の熱だ。
龍星が小さく笑った。
「まだ小さいけど、ちゃんとある」
穂乃花は双眼鏡を封筒の横に置き、ストラップを揃えてたたんだ。
「小さい方が、数えやすい」
「数えるの、好きだね」
龍星が言うと、穂乃花は返事をしなかった。返事の代わりに、屋上の床の白いラインの上を、靴先でまっすぐなぞった。影を踏まないように。
帰り道、校門を出ると、街灯の下に四人の影が伸びた。惺大がわざと変な歩き方をして影を揺らし、生久実が笑いながら「影がダンスしてる」と言う。龍星はその二人を前に行かせ、穂乃花の隣に並んだ。
歩幅を合わせるのが上手い。穂乃花が影を避けて一歩ずれると、龍星も同じだけずれる。言葉は少ないのに、足音が揃っていく。
「七夕に願うなら、穂乃花さんは何を願う?」
龍星が、街灯の明るさが途切れるところで聞いた。
穂乃花はポケットの中で、十円玉を親指でなぞった。硬貨のふちのギザギザが、指先に引っかかる。落としたら探すのが面倒なくせに、触っていると落ち着く。
「……損しない願い」
「損しない、って」
「減らないやつ」
穂乃花はそれだけ言って、十円玉を握り直した。手のひらの中で、金属がぬるくなる。
龍星は「そうか」とだけ言った。追いかけない。その代わり、少しだけ歩く速度を落とした。穂乃花が影を避ける余裕ができるように。
生久実の笑い声が前から飛んでくる。惺大が「俺の未来、今見た星よりでかい」と言い、生久実が「でかいのは声!」と拍手する。
穂乃花はその音を聞きながら、胸の奥で小さな光が揺れるのを確かめた。数えなくても消えない光が、どこかにある気がした。
【続】

