第7話 母の定食屋、数える音
穂乃花の家の定食屋は、商店街の角から一本入った細い道にある。暖簾は小さく、夕方になると湯気がはみ出す。看板の電球が、今夜は少しだけ瞬きをしていた。
七月上旬の夜。最後の客が帰り、母が「ありがとうございましたー」と声を伸ばす。ドアの鈴がちりんと鳴って、外の空気がすっと入った。
穂乃花は暖簾をひょいと外し、裏へ回る。炊飯器の保温の赤い光がまだ点いている。鍋から立つ匂いが、いつもより薄い。
母がレジを閉める音がして、引き出しの金属がこすれた。
穂乃花は椅子を引き、レジの前に座る。引き出しを開ける前に、手を洗った。石けんの泡をきっちり三回、指の間にこすり込む。水を止めるのも、手首の角度でぴたりと。
「今日、雨だったからね。客足、ちょっとね」
母は笑おうとして、頬の端だけ上がった。目の下に薄い影が残る。
穂乃花はレジを開け、硬貨を並べ始めた。十円玉、五十円玉、百円玉。重さが違う音が、指先の上で鳴る。
ちゃり。ちゃり。ちゃり。
硬貨が皿に落ちるたび、冷蔵庫の低い唸りが重なった。ブーン、という音が、いつもより長い。
「冷蔵庫、また頑張ってる」
穂乃花が言うと、母は布巾を絞りながら、首をすくめた。
「まだ冷えるから。……買い替えって、数字が大きいでしょ」
「数字は、見れば怖くない」
穂乃花は一円玉の山を指で揃え、きっちり十枚ずつまとめる。怖いのは、揃わないときだけだ。
そのとき、店の入口の鈴が、もう一度ちりんと鳴った。
穂乃花が顔を上げると、龍星が遠慮がちに立っていた。修理店でもらった見積もりの紙を、胸の前で折りたたんで持っている。
「遅くに、すみません。えっと……返しに」
龍星は靴を脱ぐ場所で止まり、視線だけで奥を確かめる。そこにある「閉店」の札を見て、背中が少し縮んだ。
母が先に声をかけた。
「転校生くんだよね。こんばんは。お腹、空いてない?」
「いえ、大丈夫です。僕、今……紙だけ、返せば」
龍星が言いかけて、穂乃花の手元に目が落ちた。硬貨が几帳面に並び、母の指先が赤い。水仕事の赤さだ。
穂乃花は見積もりの紙を、指でつまんだまま言った。
「紙は無料。座って」
「無料って言い方が、逆にこわいです」
「じゃあ、座って。命令は無料」
母が噴き出して、肩が少しだけ上がった。
龍星は「お邪魔します」と小さく言い、カウンターの端に腰を下ろした。店の蛍光灯が、ぱち、と一度だけ鳴った。切れかけの音だ。
穂乃花はレジの小銭を数え終わると、帳面を開いた。鉛筆の先が紙の上を滑る。足し算が、料理の仕込みみたいに手際よく進む。
母はその様子を見て、言った。
「穂乃花、ほんとに助かってるよ」
「助かるのは、数が合ったときだけ」
「違うよ」
母は穂乃花の後ろへ回り、軽く頭を撫でた。指は温かく、けれど少しだけ固かった。長く働いた手の固さだ。
その手の固さに触れるたび、穂乃花の胸の奥はきゅっと縮む。縮む分だけ、数を合わせれば安心できる気がして、硬貨を並べる指が止まらない。
穂乃花は、鉛筆を止めた。止めたまま、冷蔵庫の音を聞いた。
ブーン。ブーン。
数字と違って、音は勝手に続く。止めるには、買うしかない。
「……電球も、今、点滅してる」
穂乃花が言うと、母は「うん」と素直に頷いた。
「明日、替える。……って言い続けてる」
「替えるなら、まとめ買いが安い」
「穂乃花、そこはぶれないねえ」
母が笑っても、目の影は消えなかった。
龍星が、見積もりの紙を握り直した。言葉が喉まで上がってきて、いったん止まる。穂乃花はそれを見て、先に言った。
「望遠鏡の話、今日はしない」
「……はい」
「ここで話すと、母の肩がもう一回落ちる。落ちた分、拾うのに時間がかかる」
「……拾う、って」
龍星が困った顔をすると、穂乃花は小さく肩をすくめた。
「肩は重い。軽いのは、今の空気」
母が、手を止めた。
「穂乃花」
「うん」
「私の肩、落ちてた?」
穂乃花は、答えなかった。答えない代わりに、母のエプロンの紐をそっと結び直した。結び目を短く。ほどけにくい結び方に。
龍星は、カウンターの向こうに積まれた皿の山を見た。言葉を飲み込んだまま立ち上がり、袖をまくった。
「洗い物、手伝います」
母が慌てて首を振る。
「いやいや、帰り遅くなるよ」
穂乃花が即座に言った。
「手伝いは無料」
「え、さっきから無料の幅が広い」
「広いのは、流し台」
龍星が笑いかけて、でも少しだけ真剣な顔で言った。
「僕、こういうのは……段取りできます。泡、作る係、できます」
母が「じゃあお願い」と言い、龍星はスポンジを取った。洗剤を出す量が、思ったより少ない。穂乃花が見ていて、黙って頷く。
皿が水の中でぶつかる音が、店の奥へ響く。水道の音、冷蔵庫の唸り、硬貨のちゃり。いろんな音が混ざるのに、不思議と落ち着いた。
穂乃花は、カウンターの下から新しいふきんを一枚出した。袋を開ける音を立てないように、爪でそっと裂く。龍星の手元へ、すっと置いた。
「それ、使って」
「……新品?」
「手の荒れは、治療代がかかる。今夜の予防は安い」
龍星は、ふきんを見てから、穂乃花を見た。
「僕、巻き込まれただけです、って言う予定だったのに」
「言っていい」
穂乃花は鉛筆を持ち直し、帳面の余白に小さく線を引く。
「巻き込まれた分だけ、ここは温かくなる」
母が、皿を拭きながら言った。
「龍星くん、よかったら今度、七夕の夜……この店の前でも星、見せてくれない?」
龍星は驚いて、手を止めた。
「え……でも、まだ直るかどうか」
穂乃花が言った。
「直す。直らないなら、直るまで直す」
母が笑って、穂乃花のほうを見た。
「それ、誰に言ってるの?」
穂乃花は目をそらし、レジの一円玉の山を指でなぞった。
「……冷蔵庫」
龍星がふっと息を吐き、泡の中で小さく笑った。
店の外で風が鳴り、看板の電球がもう一度だけ瞬いた。けれど今夜は、その瞬きが「まだ大丈夫」と言っているみたいだった。
穂乃花は鉛筆の音を再開しながら、胸の奥に、数えられないものが一つだけ増えていくのを感じた。
【続】
穂乃花の家の定食屋は、商店街の角から一本入った細い道にある。暖簾は小さく、夕方になると湯気がはみ出す。看板の電球が、今夜は少しだけ瞬きをしていた。
七月上旬の夜。最後の客が帰り、母が「ありがとうございましたー」と声を伸ばす。ドアの鈴がちりんと鳴って、外の空気がすっと入った。
穂乃花は暖簾をひょいと外し、裏へ回る。炊飯器の保温の赤い光がまだ点いている。鍋から立つ匂いが、いつもより薄い。
母がレジを閉める音がして、引き出しの金属がこすれた。
穂乃花は椅子を引き、レジの前に座る。引き出しを開ける前に、手を洗った。石けんの泡をきっちり三回、指の間にこすり込む。水を止めるのも、手首の角度でぴたりと。
「今日、雨だったからね。客足、ちょっとね」
母は笑おうとして、頬の端だけ上がった。目の下に薄い影が残る。
穂乃花はレジを開け、硬貨を並べ始めた。十円玉、五十円玉、百円玉。重さが違う音が、指先の上で鳴る。
ちゃり。ちゃり。ちゃり。
硬貨が皿に落ちるたび、冷蔵庫の低い唸りが重なった。ブーン、という音が、いつもより長い。
「冷蔵庫、また頑張ってる」
穂乃花が言うと、母は布巾を絞りながら、首をすくめた。
「まだ冷えるから。……買い替えって、数字が大きいでしょ」
「数字は、見れば怖くない」
穂乃花は一円玉の山を指で揃え、きっちり十枚ずつまとめる。怖いのは、揃わないときだけだ。
そのとき、店の入口の鈴が、もう一度ちりんと鳴った。
穂乃花が顔を上げると、龍星が遠慮がちに立っていた。修理店でもらった見積もりの紙を、胸の前で折りたたんで持っている。
「遅くに、すみません。えっと……返しに」
龍星は靴を脱ぐ場所で止まり、視線だけで奥を確かめる。そこにある「閉店」の札を見て、背中が少し縮んだ。
母が先に声をかけた。
「転校生くんだよね。こんばんは。お腹、空いてない?」
「いえ、大丈夫です。僕、今……紙だけ、返せば」
龍星が言いかけて、穂乃花の手元に目が落ちた。硬貨が几帳面に並び、母の指先が赤い。水仕事の赤さだ。
穂乃花は見積もりの紙を、指でつまんだまま言った。
「紙は無料。座って」
「無料って言い方が、逆にこわいです」
「じゃあ、座って。命令は無料」
母が噴き出して、肩が少しだけ上がった。
龍星は「お邪魔します」と小さく言い、カウンターの端に腰を下ろした。店の蛍光灯が、ぱち、と一度だけ鳴った。切れかけの音だ。
穂乃花はレジの小銭を数え終わると、帳面を開いた。鉛筆の先が紙の上を滑る。足し算が、料理の仕込みみたいに手際よく進む。
母はその様子を見て、言った。
「穂乃花、ほんとに助かってるよ」
「助かるのは、数が合ったときだけ」
「違うよ」
母は穂乃花の後ろへ回り、軽く頭を撫でた。指は温かく、けれど少しだけ固かった。長く働いた手の固さだ。
その手の固さに触れるたび、穂乃花の胸の奥はきゅっと縮む。縮む分だけ、数を合わせれば安心できる気がして、硬貨を並べる指が止まらない。
穂乃花は、鉛筆を止めた。止めたまま、冷蔵庫の音を聞いた。
ブーン。ブーン。
数字と違って、音は勝手に続く。止めるには、買うしかない。
「……電球も、今、点滅してる」
穂乃花が言うと、母は「うん」と素直に頷いた。
「明日、替える。……って言い続けてる」
「替えるなら、まとめ買いが安い」
「穂乃花、そこはぶれないねえ」
母が笑っても、目の影は消えなかった。
龍星が、見積もりの紙を握り直した。言葉が喉まで上がってきて、いったん止まる。穂乃花はそれを見て、先に言った。
「望遠鏡の話、今日はしない」
「……はい」
「ここで話すと、母の肩がもう一回落ちる。落ちた分、拾うのに時間がかかる」
「……拾う、って」
龍星が困った顔をすると、穂乃花は小さく肩をすくめた。
「肩は重い。軽いのは、今の空気」
母が、手を止めた。
「穂乃花」
「うん」
「私の肩、落ちてた?」
穂乃花は、答えなかった。答えない代わりに、母のエプロンの紐をそっと結び直した。結び目を短く。ほどけにくい結び方に。
龍星は、カウンターの向こうに積まれた皿の山を見た。言葉を飲み込んだまま立ち上がり、袖をまくった。
「洗い物、手伝います」
母が慌てて首を振る。
「いやいや、帰り遅くなるよ」
穂乃花が即座に言った。
「手伝いは無料」
「え、さっきから無料の幅が広い」
「広いのは、流し台」
龍星が笑いかけて、でも少しだけ真剣な顔で言った。
「僕、こういうのは……段取りできます。泡、作る係、できます」
母が「じゃあお願い」と言い、龍星はスポンジを取った。洗剤を出す量が、思ったより少ない。穂乃花が見ていて、黙って頷く。
皿が水の中でぶつかる音が、店の奥へ響く。水道の音、冷蔵庫の唸り、硬貨のちゃり。いろんな音が混ざるのに、不思議と落ち着いた。
穂乃花は、カウンターの下から新しいふきんを一枚出した。袋を開ける音を立てないように、爪でそっと裂く。龍星の手元へ、すっと置いた。
「それ、使って」
「……新品?」
「手の荒れは、治療代がかかる。今夜の予防は安い」
龍星は、ふきんを見てから、穂乃花を見た。
「僕、巻き込まれただけです、って言う予定だったのに」
「言っていい」
穂乃花は鉛筆を持ち直し、帳面の余白に小さく線を引く。
「巻き込まれた分だけ、ここは温かくなる」
母が、皿を拭きながら言った。
「龍星くん、よかったら今度、七夕の夜……この店の前でも星、見せてくれない?」
龍星は驚いて、手を止めた。
「え……でも、まだ直るかどうか」
穂乃花が言った。
「直す。直らないなら、直るまで直す」
母が笑って、穂乃花のほうを見た。
「それ、誰に言ってるの?」
穂乃花は目をそらし、レジの一円玉の山を指でなぞった。
「……冷蔵庫」
龍星がふっと息を吐き、泡の中で小さく笑った。
店の外で風が鳴り、看板の電球がもう一度だけ瞬いた。けれど今夜は、その瞬きが「まだ大丈夫」と言っているみたいだった。
穂乃花は鉛筆の音を再開しながら、胸の奥に、数えられないものが一つだけ増えていくのを感じた。
【続】

