第6話 商店街の値引き交渉で走らされる
夕方の空がオレンジに寄ったころ、星見中学校の正門前で、穂乃花が自転車のスタンドを蹴った。
前かごには、透明なファイルが一枚。中にはメモ帳と、折りたたんだレシートの束と、色あせたクーポン券が何枚も挟まっている。
龍星は望遠鏡のケースを背負い、息を整えるように肩を回した。
「今日、何をしに……」
「相見積もり。最低三件」
穂乃花は言い切って、ハンドルを握る手袋の指を鳴らした。鳴らしたつもりなのに音がしないのは、指先が布だからだ。
「それと、値引き交渉。時間帯は閉店前が勝負」
龍星は目を細めた。
「……巻き込まれただけです」
「巻き込まれた人が、いちばん速く走る」
穂乃花がペダルを踏むと、校門前の坂がすぐに始まった。龍星は後ろについていくが、坂の角を曲がったあたりで早くも息が白くなる。
商店街の入口には、揚げ物屋の湯気と、魚屋の氷の匂いと、駄菓子屋の甘い粉の匂いがまざって漂っていた。シャッターが半分降りた店の前で、風鈴だけがカランと鳴る。
穂乃花は走りながら、スマホを耳に当てる。
「はい、星見町の『時計とカメラ こだま』さんですか。天体望遠鏡、鏡筒のガタつきとピント調整、見てもらえます? はい。今から十五分で着きます」
切ると同時に、次の番号へ指が伸びる。
「『修理工房 ひかりや』さん、同じ内容で。……あ、土日だけ? じゃあ、部品だけの見積もりでも」
さらにもう一件。
「『めがねと道具 山崎』さん……え、望遠鏡も? 助かります。今から」
龍星は後ろで必死に漕ぎながら、声を絞り出した。
「今からって……。僕の足は、今からが限界です」
穂乃花はハンドルの向きを変えずに言った。
「限界は数字で測らないと嘘つく」
最初の店、「こだま」は商店街の角にあった。木の看板に、古い時計の絵。店内は小さく、壁一面に掛け時計が並び、秒針の音が重なって雨みたいに聞こえる。
店主の男性が、眼鏡を押し上げながら出てきた。
「望遠鏡? 珍しいねえ。どれどれ」
龍星がケースを開けると、店主は手慣れた指でねじの位置を確かめた。
「ピントの動きが渋いな。清掃して、部品が要るか見て……うーん、だいたいこれくらい」
紙に書かれた金額は、龍星の眉間をきゅっと寄せる。
穂乃花はすぐにファイルを開き、クーポンを二枚、机の上へ滑らせた。
「これ、使えます?」
店主は笑って首を振った。
「それ、隣の揚げ物屋のだよ」
「じゃあ、これは?」
「それは去年の商店街スタンプラリーのだよ」
龍星が小さく咳をした。
「……それ、まだ持ってるんですか」
「紙は捨てると増える。捨てないと減る」
店主は肩を揺らして笑った。
「面白い子だねえ。けど、うちは値引きは難しいよ。作業は作業だ」
穂乃花は諦めず、ポイントカードの束を、扇みたいに広げた。
「じゃあ、ポイント。何かしらのポイント」
店主はさらに笑って、今度は少し優しい目になった。
「うちはポイントカード、ないんだ」
「じゃあ、作ってください」
「作るのもお金かかるんだよ」
龍星の口元が、ほんの少しだけ上がった。笑いを我慢している顔だった。
二件目の「ひかりや」は、シャッターが半分降りていて、店主がモップを持ったまま出てきた。
「閉めるとこだよ」
穂乃花は自転車から飛び降り、息も乱さずに言う。
「閉める前に、見積もりだけ。五分で」
龍星は横で息を吸い直しながら、黙って頭を下げた。
店主は望遠鏡を一度持ち上げ、軽く振って耳を近づける。
「ガタつきはねじと座金だな。部品代は安いけど、時間がかかる。料金は……」
出た数字は、さっきより少しだけ低い。
穂乃花はすぐにメモ帳へ書き、鉛筆の芯を尖らせる。
「ありがとうございます。では、三件目へ」
龍星が肩で息をしながら言った。
「穂乃花さん、僕、今、鉛筆の音で倒れそうです」
「倒れるなら、商店街のベンチ。あれ、無料」
三件目の「山崎」は、めがね屋なのに、入口に工具箱が積んであった。店の奥から、白い髪の女性が出てきて、望遠鏡を見て頷く。
「昔、息子が星にハマってね。こういうの、触ったことあるよ」
龍星の背筋が伸びた。
「お願いします」
女性は、ねじの状態を見てから、カレンダーを指で叩いた。
「七月七日まで? 急ぎだねえ。部品がすぐ入るか……。作業代は、うちのいつもので」
紙に書かれた金額は、二件目と同じくらいだった。
穂乃花は、そこで初めてクーポンもカードも出さなかった。
代わりに、透明ファイルの端から、レシートの束を取り出して、机の上へ置いた。きれいに折られ、日付順に揃っている。
「これ、全部、この商店街です」
女性は眉を上げ、指先で一枚をそっと広げた。
「……定食屋、文具店、魚屋、クリーニング。あんた、よく買うね」
「買うと、町が静かにならない」
穂乃花は淡々と言った。言葉は淡々なのに、握ったファイルの端だけが少し白い。
龍星は、そこで気づいた。
穂乃花の節約は、自分のためだけじゃない。店の名前を覚え、閉店の時間を気にし、どこに誰が立っているかを見ている。
望遠鏡の修理費だけじゃなく、星見町の息を、指で数えているみたいだった。
女性はしばらくレシートを眺め、それから、龍星の顔を見た。
「この子が、七夕に星を見せたい相手がいるんだね」
龍星は、喉の奥が熱くなって、短く答えた。
「はい。祖母です」
女性は頷き、鉛筆で紙に線を一本引いた。
「じゃあ、作業代を少しだけ削る。代わりに、終わったらその望遠鏡で、店の前で星を一回見せて。町の子どもが喜ぶ」
穂乃花が即座に言った。
「それなら、値引きじゃない。交換」
女性は笑った。
「そう。交換」
龍星は、胸の奥に、ひとつ小さな石が落ちたみたいに、静かに重みを感じた。嬉しいのに、泣きたくなる重みだ。
穂乃花は紙を受け取り、金額を指でなぞる。最後に龍星を見上げた。
「これで、いちばん現実的」
「……穂乃花さん、現実って、こんなに走るんですね」
「走らないと、間に合わない日がある」
商店街の端で、夕焼けが一段暗くなった。風鈴がもう一度鳴り、笹飾りがまだない空を、紙だけが揺れた。
龍星は自転車のペダルに足を乗せ直し、ぽつりと言った。
「巻き込まれただけです」
穂乃花は前を向いたまま、少しだけ口の端を上げた。
「じゃあ、次は巻き込み返す番」
ふたりの自転車は、レシートの束みたいに真っ直ぐ並んで、星見町の細い道を走り出した。
【続】
夕方の空がオレンジに寄ったころ、星見中学校の正門前で、穂乃花が自転車のスタンドを蹴った。
前かごには、透明なファイルが一枚。中にはメモ帳と、折りたたんだレシートの束と、色あせたクーポン券が何枚も挟まっている。
龍星は望遠鏡のケースを背負い、息を整えるように肩を回した。
「今日、何をしに……」
「相見積もり。最低三件」
穂乃花は言い切って、ハンドルを握る手袋の指を鳴らした。鳴らしたつもりなのに音がしないのは、指先が布だからだ。
「それと、値引き交渉。時間帯は閉店前が勝負」
龍星は目を細めた。
「……巻き込まれただけです」
「巻き込まれた人が、いちばん速く走る」
穂乃花がペダルを踏むと、校門前の坂がすぐに始まった。龍星は後ろについていくが、坂の角を曲がったあたりで早くも息が白くなる。
商店街の入口には、揚げ物屋の湯気と、魚屋の氷の匂いと、駄菓子屋の甘い粉の匂いがまざって漂っていた。シャッターが半分降りた店の前で、風鈴だけがカランと鳴る。
穂乃花は走りながら、スマホを耳に当てる。
「はい、星見町の『時計とカメラ こだま』さんですか。天体望遠鏡、鏡筒のガタつきとピント調整、見てもらえます? はい。今から十五分で着きます」
切ると同時に、次の番号へ指が伸びる。
「『修理工房 ひかりや』さん、同じ内容で。……あ、土日だけ? じゃあ、部品だけの見積もりでも」
さらにもう一件。
「『めがねと道具 山崎』さん……え、望遠鏡も? 助かります。今から」
龍星は後ろで必死に漕ぎながら、声を絞り出した。
「今からって……。僕の足は、今からが限界です」
穂乃花はハンドルの向きを変えずに言った。
「限界は数字で測らないと嘘つく」
最初の店、「こだま」は商店街の角にあった。木の看板に、古い時計の絵。店内は小さく、壁一面に掛け時計が並び、秒針の音が重なって雨みたいに聞こえる。
店主の男性が、眼鏡を押し上げながら出てきた。
「望遠鏡? 珍しいねえ。どれどれ」
龍星がケースを開けると、店主は手慣れた指でねじの位置を確かめた。
「ピントの動きが渋いな。清掃して、部品が要るか見て……うーん、だいたいこれくらい」
紙に書かれた金額は、龍星の眉間をきゅっと寄せる。
穂乃花はすぐにファイルを開き、クーポンを二枚、机の上へ滑らせた。
「これ、使えます?」
店主は笑って首を振った。
「それ、隣の揚げ物屋のだよ」
「じゃあ、これは?」
「それは去年の商店街スタンプラリーのだよ」
龍星が小さく咳をした。
「……それ、まだ持ってるんですか」
「紙は捨てると増える。捨てないと減る」
店主は肩を揺らして笑った。
「面白い子だねえ。けど、うちは値引きは難しいよ。作業は作業だ」
穂乃花は諦めず、ポイントカードの束を、扇みたいに広げた。
「じゃあ、ポイント。何かしらのポイント」
店主はさらに笑って、今度は少し優しい目になった。
「うちはポイントカード、ないんだ」
「じゃあ、作ってください」
「作るのもお金かかるんだよ」
龍星の口元が、ほんの少しだけ上がった。笑いを我慢している顔だった。
二件目の「ひかりや」は、シャッターが半分降りていて、店主がモップを持ったまま出てきた。
「閉めるとこだよ」
穂乃花は自転車から飛び降り、息も乱さずに言う。
「閉める前に、見積もりだけ。五分で」
龍星は横で息を吸い直しながら、黙って頭を下げた。
店主は望遠鏡を一度持ち上げ、軽く振って耳を近づける。
「ガタつきはねじと座金だな。部品代は安いけど、時間がかかる。料金は……」
出た数字は、さっきより少しだけ低い。
穂乃花はすぐにメモ帳へ書き、鉛筆の芯を尖らせる。
「ありがとうございます。では、三件目へ」
龍星が肩で息をしながら言った。
「穂乃花さん、僕、今、鉛筆の音で倒れそうです」
「倒れるなら、商店街のベンチ。あれ、無料」
三件目の「山崎」は、めがね屋なのに、入口に工具箱が積んであった。店の奥から、白い髪の女性が出てきて、望遠鏡を見て頷く。
「昔、息子が星にハマってね。こういうの、触ったことあるよ」
龍星の背筋が伸びた。
「お願いします」
女性は、ねじの状態を見てから、カレンダーを指で叩いた。
「七月七日まで? 急ぎだねえ。部品がすぐ入るか……。作業代は、うちのいつもので」
紙に書かれた金額は、二件目と同じくらいだった。
穂乃花は、そこで初めてクーポンもカードも出さなかった。
代わりに、透明ファイルの端から、レシートの束を取り出して、机の上へ置いた。きれいに折られ、日付順に揃っている。
「これ、全部、この商店街です」
女性は眉を上げ、指先で一枚をそっと広げた。
「……定食屋、文具店、魚屋、クリーニング。あんた、よく買うね」
「買うと、町が静かにならない」
穂乃花は淡々と言った。言葉は淡々なのに、握ったファイルの端だけが少し白い。
龍星は、そこで気づいた。
穂乃花の節約は、自分のためだけじゃない。店の名前を覚え、閉店の時間を気にし、どこに誰が立っているかを見ている。
望遠鏡の修理費だけじゃなく、星見町の息を、指で数えているみたいだった。
女性はしばらくレシートを眺め、それから、龍星の顔を見た。
「この子が、七夕に星を見せたい相手がいるんだね」
龍星は、喉の奥が熱くなって、短く答えた。
「はい。祖母です」
女性は頷き、鉛筆で紙に線を一本引いた。
「じゃあ、作業代を少しだけ削る。代わりに、終わったらその望遠鏡で、店の前で星を一回見せて。町の子どもが喜ぶ」
穂乃花が即座に言った。
「それなら、値引きじゃない。交換」
女性は笑った。
「そう。交換」
龍星は、胸の奥に、ひとつ小さな石が落ちたみたいに、静かに重みを感じた。嬉しいのに、泣きたくなる重みだ。
穂乃花は紙を受け取り、金額を指でなぞる。最後に龍星を見上げた。
「これで、いちばん現実的」
「……穂乃花さん、現実って、こんなに走るんですね」
「走らないと、間に合わない日がある」
商店街の端で、夕焼けが一段暗くなった。風鈴がもう一度鳴り、笹飾りがまだない空を、紙だけが揺れた。
龍星は自転車のペダルに足を乗せ直し、ぽつりと言った。
「巻き込まれただけです」
穂乃花は前を向いたまま、少しだけ口の端を上げた。
「じゃあ、次は巻き込み返す番」
ふたりの自転車は、レシートの束みたいに真っ直ぐ並んで、星見町の細い道を走り出した。
【続】

