影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第5話 短冊は裏紙で作る 
 
 七月に入った最初の金曜日、四時間目のチャイムが鳴ると、2年2組は家庭科室へぞろぞろ移動した。窓から入る風は湿っているのに、教卓の上だけは色とりどりの紙で明るい。

 「今日は廊下に飾る七夕の短冊を作ります。名前は裏に、小さくね。糊は出しすぎない」
 家庭科の橘先生が、糊のふたを指でとんとん叩いて言った。

 机の上に配られた色紙を見て、生久実がぱあっと両手を広げる。
 「見て! 水色とピンクと、金の星まである!」
 その横で惺大が、わざとらしく胸を張った。
 「俺は金にする。願いは派手なほうが叶うからな」
 「派手って、紙で……」
 龍星が小さく突っ込むより早く、穂乃花が色紙の束をつまみ上げた。

 「これ、1枚いくら?」

 穂乃花は色紙の端を爪でそっと撫でた。ざらりとした感触が残る。配布用の箱の側面に押された小さな印を見て、眉を動かす。

 「橘先生。これ、余ったらどうしますか」
 橘先生は糊のふたを閉めながら答えた。
 「来年も使うよ。だから、無駄にちぎらない」
 穂乃花はうなずき、机の列と人数を目で追った。
 「じゃあ、余るように切ります。余った分は、来年の誰かが困らない」
 「余るように切るって、初めて聞いた」
 惺大が肩を揺らし、龍星が口の端だけで笑った。生久実は拍手しながら言う。
 「来年の誰か、もう助かった顔してる」

 家庭科室の空気が一瞬止まり、次の瞬間、笑いが転がった。
 「そこ計算する人、初めて見た!」
 生久実が拍手しながら笑う。惺大は「先生、今の質問、テストに出ます?」とふざける。

 穂乃花は笑いに乗らず、机の端へ色紙をそっと戻した。代わりに、ランドセルの奥から折り目のついたプリントを数枚出す。前の単元の小テスト、配布プリント、誰かの忘れ物らしい掲示用原稿。裏は真っ白だ。
 「色は足りる。白もある。裏もある」
 「うそ、そう来た?」
 生久実が目を丸くして、すぐに自分のノートの間から古いプリントを探し始めた。
 「じゃ、私も裏で作る。だって、字書くなら同じだもんね」
 隣の席の男子が「俺も!」と続き、教室のあちこちで紙をひっくり返す音が連鎖した。

 橘先生は、最初だけ眉を上げたが、すぐに手を叩いた。
 「いいですね。裏紙の人は、角をきちんとそろえて切ること。短冊は細長く、穴は上のほう。糸は一本で」

 穂乃花は定規を置き、鉛筆で薄く線を引いた。切るときは、はさみを一気に動かさず、細かく、音を立てない。切り口がまっすぐで、紙の端がそろう。
 「うわ、工場みたい」
 生久実が感心して拍手を追加する。
 惺大がのぞき込み、わざとらしくため息をついた。
 「俺の短冊、曲がってても味ってことでいいよな」
 穂乃花は視線だけで返す。
 「味は、食べ物だけ。紙は、まっすぐ」

 糊を出す番になった。
 穂乃花は糊をぎゅっと押さない。ふたを開けた糊の先を、古いペットボトルのキャップの中にちょん、と当てる。キャップの底に、小さな白い山ができたところで止めた。
 「それ、何してんの?」
 龍星が聞くと、穂乃花はキャップを指で軽く回した。
 「必要量だけ。山盛りは乾くまでに剥がれる。乾いたら無駄」
 「先生みたいなこと言う」
 「先生は今、あっちで配ってる。私はここで配る」

 穂乃花は爪楊枝を一本取り出し、キャップの糊を少しずつ短冊の穴の周りに塗った。細い糸を通し、結び目を小さく作る。結び目の余りは、指で折ってから短く切る。
 「そこまでやるの……?」
 生久実が笑い、隣の女子が真似を始めた。家庭科室のあちこちで、糸の端が短くなっていく。

 龍星は、白い短冊を一枚選び、机の上にそっと置いた。ペン先を揃え、息を整えてから、丁寧に書き始める。
 『七月七日の夜、丘で祖母と星を見る。望遠鏡が直りますように』
 文字の最後だけ、ほんの少し丸くなる。書き終えると、指で紙の端を押さえ、乾くのを待つように見つめた。

 惺大が横から覗き込み、口を開いた。
 「お、真面目。てか、願いが具体的すぎて、神様もメモ取るわ」
 龍星は顔を上げ、淡々と言った。
 「具体的じゃないと、段取りができない」
 「段取りって、神様に?」
 「人に。……祖母に」

 その言葉に、笑いが少し柔らかくなった。生久実は何も言わずに拍手を一回だけして、龍星の短冊の糸を結ぶのを手伝った。

 穂乃花は最後まで迷って、短冊を一枚だけ手元に残した。裏紙の白に、薄い鉛筆で一度、こう書く。
 『無駄づかいしない』
 書いた直後に、穂乃花は消しゴムでこすった。消しゴムのかすを指でつまみ、丸めて捨てる。もう一度、今度は小さく、小さく書いた。
 『減らないものが、ほしい』
 字は短冊の一番下、飾ったら見えにくい位置だ。

 龍星が、ちょうどペンをしまうために振り向いた。目が、穂乃花の手元に落ちる。
 穂乃花は反射で短冊を手のひらで隠した。指先に紙の角が当たり、少しだけ痛い。
 龍星は何も言わない。ただ、机の上に落ちていた穂乃花の消しゴムを拾い、そっと戻した。
 「……ここ。転がってた」
 「ありがとう」
 穂乃花は短く言って、隠したままの短冊を糸の束の下へ滑り込ませた。

 橘先生が教卓から声をかける。
 「できた人から、窓際の笹に結んで。順番にね」

 家庭科室の窓際には、今年運ばれてきた青い笹が立っていた。短冊が一枚、また一枚と増えるたび、紙がさらさらと擦れて小さな音を立てる。
 龍星の短冊は、風に揺れながら、まっすぐ前を向いていた。
 穂乃花の短冊は、結び目だけがきっちり小さく、言葉はまだ誰にも見えないまま、笹の影に隠れた。

 湿った風が通り抜け、短冊の端が軽く頬に触れた。紙は薄いのに、触れた感触だけは、なぜか長く残った。

【続】