第4話 壁ドンは募金瓶の横で禁止
六月の中旬。登校の時間帯の星見中学校は、梅雨の雨で色が一段薄くなる。
昇降口のひさしから落ちるしずくが、コンクリートを同じ形に叩き続けていた。靴箱の前には濡れた傘が並び、すれ違うたびに水の匂いがふわりと立つ。床を踏む音も、乾いた日より少しだけ鈍い。
穂乃花は、ひさしの内側の乾いた場所に、透明な容器をことんと置いた。昨日、龍星と決めた「割れないやつ」だ。ふたには小さな穴が一つ。横の紙には、太い字でこう書いてある。
『影を踏んだら1円 (梅雨は例外なし)』
龍星は傘をたたみ、雫を軽く切ってから、容器を見下ろした。
「……雨の日、影って出る?」
「出る。水たまりに写る。踏んだら一円」
穂乃花は、靴先で小さな水たまりの縁を示す。そこに、薄い黒が揺れていた。人の足が動くたびに、影もゆらっと揺れる。
龍星は周囲を見回し、濡れた床の端に雑巾を一枚置いた。誰かが滑らないように、入口から一歩目の場所だけ丁寧に拭いていく。段取りが染みついた動きだった。
穂乃花はその背中を見て、レシートを畳む手つきで言う。
「拭き方、細かい」
「転ぶと、望遠鏡より先に膝が壊れる」
「膝は高い。修理代が」
そこへ、靴の先から水を飛ばしながら1年生が駆けこんできた。勢いで水たまりを踏み、ぱしゃっと音が立つ。
穂乃花はすぐに言った。
「踏んだ。一円」
「え、いまの僕の影ですか?」
「影と水、セット。返品不可」
1年生は困った顔でポケットを探り、見つけた一円玉をそっと入れた。ちりん。
生久実が通りがかり、手を叩いて笑う。
「ちゃんと入れた! えらい!」
1年生が照れて、濡れた前髪を払った。
惺大が、傘をくるくる回しながら現れた。制服の肩が少し濡れているのに、気にした顔はしていない。
「おっ、雨の日でもやってる! いいね! こういうときこそ派手に集めようぜ」
惺大は靴箱の壁を、拳で軽く叩いた。
「俺、考えた。ここでさ、壁ドンして注目集めてさ、『影踏めー!』って叫んだら、一円が雨みたいに――」
龍星の顔色が、雨雲みたいに沈んだ。
「それ、危ない。人が転ぶ」
惺大は肩をすくめる。
「大丈夫だって。俺、運動神経いいし。誰もケガしないし。むしろ俺の伝説が――」
穂乃花が一歩前に出て、容器を守るように自分の体で隠した。
「壁は学校の備品。壊したら弁償」
「え、壁って壊れる?」
「壊す人は壊す。勢いで。あと、調子で」
「調子って何だよ!」
惺大が笑った瞬間、外から吹きこんだ風で、昇降口の床に雨粒が散った。誰かの靴が滑る音がする。きゅ、と短く。
その「誰か」が穂乃花だった。
足の裏が、薄い水の膜の上を逃げた。体がふわっと傾く。容器に手が届きそうで届かない――と思った瞬間、腕をつかまれた。
龍星の手だった。
ぐい、と引かれて、穂乃花の背中は壁に当たる。龍星の腕が壁の横につかれ、顔が近い。湿った前髪の先から、雨のしずくが一粒、龍星の鼻先に落ちた。
――これ、見たことある形。
生久実が、傘を閉じながら目を丸くして、間髪入れずに拍手した。
「わっ、きれいに決まった!」
ぱちぱちぱち。雨音に混ざって、拍手がやけに明るい。
惺大が待ってましたとばかりに叫ぶ。
「ほら! 流行る! 俺の作戦、すでに成功! 龍星、やるじゃん! 俺の弟子に――」
「違う」
龍星が低い声で遮った。自分でも驚いたみたいに一瞬黙ってから、言い直す。
「……今のは、転びそうだったから」
穂乃花は、耳まで熱くなるのを自覚して、視線を床に落とした。水たまりに二人の影が映っている。近すぎて、影もくっついている。
「今のは事故」
言いながら、穂乃花は容器をすっと持ち上げ、龍星の前に差し出した。
「一円」
「え」
「事故でも、影を踏んだ。あと、私の心拍数が上がった。無駄な燃費」
「燃費?」
「心臓は筋肉。動くとカロリー。つまり損」
惺大が腹を抱えて笑う。
「なんだそれ! ケチの計算、そこまで行くのかよ!」
生久実がまた拍手しながら言った。
「でも、助けるのは損じゃないよね?」
穂乃花は、容器の穴を指で押さえて、少しだけ間を置いた。
「助けるのは……領収書が出ないから、計算できない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてない。事実」
龍星は容器の前で、ポケットを探った。濡れないように奥にしまっていた一円玉が、指先に触れる。細くて軽いのに、今は妙に重い。
ちりん、と一枚落とす音が、雨の中でもはっきりした。
穂乃花はその音を聞いて、やっと顔を上げた。
「よし。事故処理、完了」
「事故に処理費があるとは」
「ある。次は滑らないように、歩幅を小さく」
龍星は頷いた。靴底の水を、そっと拭うように動かす。
「……ありがとう」
「無料」
穂乃花は即答し、容器のラベルを整えた。
「でも、次に同じ形になったら、二円」
龍星が一瞬固まり、惺大が「値上げすんな!」と叫び、生久実が拍手して笑った。
昇降口のひさしの下で、四人の笑いが雨に負けずに跳ねた。
容器の底では、一円玉が小さく光っている。梅雨の薄暗さの中でも、ちゃんとそこにいた。
【続】
六月の中旬。登校の時間帯の星見中学校は、梅雨の雨で色が一段薄くなる。
昇降口のひさしから落ちるしずくが、コンクリートを同じ形に叩き続けていた。靴箱の前には濡れた傘が並び、すれ違うたびに水の匂いがふわりと立つ。床を踏む音も、乾いた日より少しだけ鈍い。
穂乃花は、ひさしの内側の乾いた場所に、透明な容器をことんと置いた。昨日、龍星と決めた「割れないやつ」だ。ふたには小さな穴が一つ。横の紙には、太い字でこう書いてある。
『影を踏んだら1円 (梅雨は例外なし)』
龍星は傘をたたみ、雫を軽く切ってから、容器を見下ろした。
「……雨の日、影って出る?」
「出る。水たまりに写る。踏んだら一円」
穂乃花は、靴先で小さな水たまりの縁を示す。そこに、薄い黒が揺れていた。人の足が動くたびに、影もゆらっと揺れる。
龍星は周囲を見回し、濡れた床の端に雑巾を一枚置いた。誰かが滑らないように、入口から一歩目の場所だけ丁寧に拭いていく。段取りが染みついた動きだった。
穂乃花はその背中を見て、レシートを畳む手つきで言う。
「拭き方、細かい」
「転ぶと、望遠鏡より先に膝が壊れる」
「膝は高い。修理代が」
そこへ、靴の先から水を飛ばしながら1年生が駆けこんできた。勢いで水たまりを踏み、ぱしゃっと音が立つ。
穂乃花はすぐに言った。
「踏んだ。一円」
「え、いまの僕の影ですか?」
「影と水、セット。返品不可」
1年生は困った顔でポケットを探り、見つけた一円玉をそっと入れた。ちりん。
生久実が通りがかり、手を叩いて笑う。
「ちゃんと入れた! えらい!」
1年生が照れて、濡れた前髪を払った。
惺大が、傘をくるくる回しながら現れた。制服の肩が少し濡れているのに、気にした顔はしていない。
「おっ、雨の日でもやってる! いいね! こういうときこそ派手に集めようぜ」
惺大は靴箱の壁を、拳で軽く叩いた。
「俺、考えた。ここでさ、壁ドンして注目集めてさ、『影踏めー!』って叫んだら、一円が雨みたいに――」
龍星の顔色が、雨雲みたいに沈んだ。
「それ、危ない。人が転ぶ」
惺大は肩をすくめる。
「大丈夫だって。俺、運動神経いいし。誰もケガしないし。むしろ俺の伝説が――」
穂乃花が一歩前に出て、容器を守るように自分の体で隠した。
「壁は学校の備品。壊したら弁償」
「え、壁って壊れる?」
「壊す人は壊す。勢いで。あと、調子で」
「調子って何だよ!」
惺大が笑った瞬間、外から吹きこんだ風で、昇降口の床に雨粒が散った。誰かの靴が滑る音がする。きゅ、と短く。
その「誰か」が穂乃花だった。
足の裏が、薄い水の膜の上を逃げた。体がふわっと傾く。容器に手が届きそうで届かない――と思った瞬間、腕をつかまれた。
龍星の手だった。
ぐい、と引かれて、穂乃花の背中は壁に当たる。龍星の腕が壁の横につかれ、顔が近い。湿った前髪の先から、雨のしずくが一粒、龍星の鼻先に落ちた。
――これ、見たことある形。
生久実が、傘を閉じながら目を丸くして、間髪入れずに拍手した。
「わっ、きれいに決まった!」
ぱちぱちぱち。雨音に混ざって、拍手がやけに明るい。
惺大が待ってましたとばかりに叫ぶ。
「ほら! 流行る! 俺の作戦、すでに成功! 龍星、やるじゃん! 俺の弟子に――」
「違う」
龍星が低い声で遮った。自分でも驚いたみたいに一瞬黙ってから、言い直す。
「……今のは、転びそうだったから」
穂乃花は、耳まで熱くなるのを自覚して、視線を床に落とした。水たまりに二人の影が映っている。近すぎて、影もくっついている。
「今のは事故」
言いながら、穂乃花は容器をすっと持ち上げ、龍星の前に差し出した。
「一円」
「え」
「事故でも、影を踏んだ。あと、私の心拍数が上がった。無駄な燃費」
「燃費?」
「心臓は筋肉。動くとカロリー。つまり損」
惺大が腹を抱えて笑う。
「なんだそれ! ケチの計算、そこまで行くのかよ!」
生久実がまた拍手しながら言った。
「でも、助けるのは損じゃないよね?」
穂乃花は、容器の穴を指で押さえて、少しだけ間を置いた。
「助けるのは……領収書が出ないから、計算できない」
「それ、褒めてる?」
「褒めてない。事実」
龍星は容器の前で、ポケットを探った。濡れないように奥にしまっていた一円玉が、指先に触れる。細くて軽いのに、今は妙に重い。
ちりん、と一枚落とす音が、雨の中でもはっきりした。
穂乃花はその音を聞いて、やっと顔を上げた。
「よし。事故処理、完了」
「事故に処理費があるとは」
「ある。次は滑らないように、歩幅を小さく」
龍星は頷いた。靴底の水を、そっと拭うように動かす。
「……ありがとう」
「無料」
穂乃花は即答し、容器のラベルを整えた。
「でも、次に同じ形になったら、二円」
龍星が一瞬固まり、惺大が「値上げすんな!」と叫び、生久実が拍手して笑った。
昇降口のひさしの下で、四人の笑いが雨に負けずに跳ねた。
容器の底では、一円玉が小さく光っている。梅雨の薄暗さの中でも、ちゃんとそこにいた。
【続】

