影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第3話 影を踏んだら1円 
 
 六月中旬。梅雨の切れ間に日が差して、校舎の廊下の床がつるんと光っていた。窓の格子がくっきり影を落とし、歩くたびに黒い線が足元を追いかけてくる。

 昼休みの終わりぎわ、穂乃花は雑巾で床の一角をさっと拭き、チョークを取り出した。白い線を一本、二本。廊下の真ん中に、まっすぐな道を作る。

 惺大が通りがかりに足を止める。
 「なにそれ。体育の白線、ここで引くの?」
 穂乃花は線の端に、ちいさく「ここから」と書き足した。
 「廊下で走ると先生に怒られる。だから歩く」
 「え、歩くだけ?」
 「歩くだけで、財布が動く」

 穂乃花はチョークで、さらに横へ書いた。
 『影を踏まないでね』

 通りすがりの一年生が首をかしげた。
 「……踏んだら、どうなるんですか」
 穂乃花は床にしゃがみ、線の横に空き瓶を置いた。瓶の口には紙を巻き、輪ゴムで留めてある。紙には太い字でこう書いてあった。

 『影を踏んだら1円』

 「罰金じゃん!」と惺大が声を上げる前に、穂乃花は瓶の横にもう一つ、文字を足した。
 『望遠鏡のねじ1本』
 さらに小さく、『ねじ1本=約80円』『1円×80回』と書いて、最後に丸を付ける。

 惺大の「罰金じゃん!」が、途中で止まった。
 「……ねじ、って。あの、望遠鏡の?」
 「そう。欠けてるの、一本。見積もりの紙に書いてあった」
 穂乃花は帳面を開き、ページの角を指で押さえた。そこには、昨日の電話のメモが几帳面に並んでいる。店名、担当者名、言ったこと、言われたこと。最後に赤鉛筆で『納期:十日』『部品:ねじ欠品』とだけ丸がついていた。

 「一円でねじ買えるわけないだろ」
 龍星が、背後から声を落とした。今日は昼休みに、図書室から戻る途中だったらしい。望遠鏡のケースは抱えていないのに、手の形がまだ筒を支える癖のままになっている。
 穂乃花は顔だけ向けた。
 「一円で買えない。だから八十回」
 「八十回って、誰が数えるの」
 「瓶が数える。数えないと、途中で気持ちだけ大きくなる」

 生久実がぱたぱたと小走りで来て、瓶を覗きこんだ。
 「これ、好き! 影って、日によって形が変わるじゃん。今日は長いから難しそう」
 穂乃花はチョークで、生久実の足元に細い矢印を引いた。
 「じゃあ、最初の一歩、どうぞ」

 生久実はわざと大げさに両手を広げ、影を避けるようにひょいひょい歩いた。途中で窓枠の影にかすりそうになり、「うわっ」と声を上げて片足立ちになる。
 廊下の向こうで、誰かが笑う。
 生久実は結局、最後の最後で影を踏んだ。足の裏が黒い線にのってしまった瞬間、本人が一番驚いた顔をした。

 「踏んだー!」
 生久実は自分で叫び、ポケットから一円玉を取り出した。ころん、と瓶に落ちる小さな音。
 ちりん。

 生久実はその音に合わせて、ぱんぱんと拍手した。
 「いい音! ねじに近づいた!」
 「その拍手は、誰に?」
 穂乃花が聞くと、生久実は胸を張った。
 「未来のねじ!」
 惺大が横から突っ込む。
 「ねじに拍手すな!」

 笑いが起きて、廊下が少しだけ明るくなった。龍星はその輪の端で、戸惑いながらも口元を押さえている。笑うタイミングを探している顔だ。

 「でもさ」と惺大が腕を組む。「影を踏んだら一円って、踏まない方が得じゃね?」
 穂乃花は即答した。
 「踏まない方が、汚れない。靴も長持ち」
 「いや、そうじゃなくて! 瓶に入らないじゃん!」
 「踏まない人は、かわりに別の一円を入れる。『踏まない人の一円』。踏んだ人は『踏んだ一円』。どっちでも瓶は増える」

 龍星がぼそりと言う。
 「……その返し、噛みつけない」
 穂乃花は瓶の紙を指で叩いた。
 「理屈は、喧嘩しない。声を荒げなくていい」

 昼休みが終わりかけ、通りすがりの生徒が二人、三人と線の前で足を止めるようになった。「やってみてもいい?」「一円って、持ってない」「じゃあ明日」。穂乃花はそのたびに、相談箱のときと同じ顔でうなずき、代わりの方法を一言で渡した。
 「持ってないなら、見つけた落とし物を拾って職員室へ。拾った人の一円は、明日でいい」

 放課後。窓の外の雲が厚くなり、廊下の影が薄く消えかけたころ、惺大が「待ってました」と言わんばかりに現れた。両手を上げ、わざとらしく線の上を踏みつけて歩く。

 「俺、踏むわ! 太っ腹だから!」
 惺大は財布から一円玉を五枚、扇みたいに広げて見せた。
 「見て! 五円分の男!」

 穂乃花は瞬きもせず、返す言葉だけ落とした。
 「太っ腹は財布じゃなくて胃」
 惺大が一瞬固まってから、「確かに俺、今日も唐揚げ大盛り!」と叫び、廊下がどっと笑いに包まれた。

 惺大は笑いの勢いで五枚を瓶に落とした。ちりん、ちりん、ちりん。音が重なる。
 龍星が思わず言う。
 「……ほんとに入れた」
 惺大は胸を張る。
 「ほら、俺は口だけじゃない!」
 穂乃花は瓶を持ち上げて、底の一円玉を眺めた。
 「じゃあ明日、教室の掃除当番、代わって」
 「そこは現金じゃないのかよ!」

 龍星が、つい笑った。声が漏れたのが自分でも驚きだったらしく、すぐに咳払いでごまかそうとする。
 穂乃花は見逃さずに言った。
 「今の笑い、無料」
 龍星は視線を逸らして答えた。
 「……巻き込まれただけです」
 「その言い方、今日で三回目」
 「数えてるのか」
 「瓶が数える。私も数える」

 穂乃花は帳面に、今日の合計を書き足した。『一円玉:六枚』『参加:九人』『明日は窓側の影が濃い』。最後に小さく、『龍星:笑った』とだけ書いて、鉛筆を止める。

 龍星はその文字を見てしまい、耳の奥が熱くなるのを感じた。
 「それ、書く必要ある?」
 「ある。七月七日に、笑えるといい」
 穂乃花は瓶の紙をなで、ねじ1本の文字を指でなぞった。
 「ねじが揃ったら、星が揃う。……揃わなくても、見える角度を探す」

 遠くで部活の笛が鳴った。雲の下でも、音だけは軽い。
 龍星は瓶をそっと持ってみた。軽い。軽すぎる。でも、軽いからこそ、落としたくないと思った。

 「明日も、線を引く?」
 龍星が聞くと、穂乃花はチョークを指で挟んだ。
 「明日も引く。雨でも、影は出る。出なくても、一円は出る」
 龍星は小さくうなずき、瓶を戻した。
 「……間に合わせる」
 穂乃花は頷き返し、言った。
 「間に合うように、今日も一円」

【続】