影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第20話 愛を信じる勇気、七夕の空に 
 
 留め具がきちんとはまり、望遠鏡はもう一度、雲の裂け目へ口を向けた。
 7月7日の夜更け。丘の草は露を抱き、足元の砂利が、さっきより静かだ。

 龍星は覗き口へ祖母を導いた。手を添えるのは強くじゃない。転びそうな石だけを避けるみたいに、そっとだ。
 祖母は椅子に腰を落とし、覗き口へ顔を寄せた。息を吐くたび、白い息がかすかに滲む。

 「見える?」
 惺大が、喉まで出かかった声を押し込めて、小声で聞く。
 生久実が、惺大の肘をつつく。ぱし、の代わりに、指先で「静かに」と合図した。

 祖母は、覗いたまま頷いた。
 「……星が、こまごましてる」
 その言い方が可笑しくて、穂乃花は鼻で笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。

 龍星が、望遠鏡の横で空を見上げる。
 雲の切れ目は、薄い紙を破ったみたいに広がっている。暗い布の向こうに、粒の光がびっしり並んでいた。

 そのとき、祖母が「きた」と囁いた。
 穂乃花が反射で空を追うより早く、祖母の覗き口の向こうで、一本の光が走ったらしい。
 次に、もう一本。
 続けて、短い三本目。

 祖母が、くっと笑った。笑い声は小さいのに、胸の奥で大きく響く。
 「流れた。ちゃんと流れたよ」

 龍星の肩が、少しだけ下がった。息を溜めていたのが、いま出ていったみたいに。
 彼はポケットから、折りたたまれた短冊を取り出し、祖母の膝へ渡した。紙は、学校で作った星の裏紙だ。端に鉛筆の跡が残っている。

 祖母が短冊を広げた。
 月明かりに、文字が浮かぶ。

 「『七夕の夜、孫といっしょに星を見る』……あら、叶ってるじゃない」
 祖母は、短冊の端を指で撫でた。
 「龍星、これ、あんたが書いたの?」
 「……ううん。俺は、途中まで。最後は……」
 龍星は言い切れず、視線を横に逃がした。

 穂乃花が、足先で砂利を一粒だけ転がす。転がった音を、風がさらっていく。
 「……紙、余ってたから。捨てるの、もったいない」
 言ってから、すぐ後悔した。いまの空気に、もったいないは似合わない。
 でも、口から出た言葉は戻らない。

 祖母が、短冊を胸に当てて笑った。
 「もったいないって言える子は、長生きするのよ。……ありがとうね」

 その「ありがとう」が、穂乃花の胸を軽く叩いた。
 数え癖のある指が、勝手にポケットを探る。
 そこに、最後の10円玉がある。いままでの全部じゃない。残しておいた最後の一枚。

 穂乃花は硬貨を握り、手の中でこすった。
 角が丸くなった縁が、指に馴染む。

 龍星が祖母の背中を見守ったまま、穂乃花へ向き直った。
 丘の上の暗さで、顔ははっきり見えないのに、目だけは迷わずこちらを向いている。
 「……信じてくれて、ありがとう」
 声が、ふっと震えた。冷えた風のせいじゃない。

 穂乃花は、握った10円玉を見せびらかさないように、掌を閉じたまま言った。
 「ありがとうは無料じゃない」
 龍星が、眉を動かした。
 穂乃花は、口角だけを上げた。
 「……でも今日は、領収書いらない」

 惺大が背中を向けて、わざとらしく咳払いをした。
 「おーい、俺、耳が良すぎて困るわー」
 生久実が、惺大の背中を小突く。今度はちゃんと「ぱし」だ。惺大は「いて」と小声で言って、すぐに口を手で塞いだ。

 龍星は一歩、穂乃花へ近づいた。
 近づき方が、いつもと違う。頼みごとをするときの角度じゃない。
 彼は足元の穂乃花の影を見て、わざと遠回りに歩いた。

 「影を踏まないでね」
 龍星が、穂乃花の言い方をまねた。

 穂乃花は、噴き出した。
 笑った瞬間、目の奥が熱くなる。笑ってるのに、頬が濡れるのが分かる。
 「……やめて。真似、下手」
 「下手でも、踏まない」
 龍星が言って、肩をすくめた。風の中で、その仕草だけがやけに温かい。

 穂乃花は、掌を開き、10円玉を龍星へ差し出した。
 「これ、最後のやつ」
 「……え?」
 「10円相談、じゃない。今日は、見上げた分」
 言いながら、穂乃花は自分の手が震えているのに気づいた。

 龍星は受け取らなかった。代わりに、穂乃花の手のひらの上へ、自分の指を重ねた。硬貨が二人の間で、こつんと鳴る。
 「……一緒に、使おう」
 それは、買い物の相談じゃない言い方だった。

 穂乃花は小さく息を吸って、吐いた。
 胸の奥で、ずっと鳴っていた数字の音が、少し遠のく。

 「減らないもの、あった」
 穂乃花は空を見上げた。雲の裂け目は、まだ残っている。
 「愛を信じる勇気ってやつ」

 言った瞬間、自分の言葉が照れくさくて、また笑いそうになる。
 生久実が、祖母の横で静かに拍手をした。ぱち、ぱち。さっきより少しだけ大きい。
 惺大がそれに合わせて、口だけで「拍手禁止じゃない?」と聞く。穂乃花が首を振る。
 「音、星に吸われる。大丈夫」

 祖母が覗き口から顔を上げ、四人を見回した。
 「ねえ。来年も、ここに来ようか」
 龍星が「うん」と答える前に、惺大が早口で言った。
 「来年は俺が望遠鏡運ぶ! 筋トレしてるから!」
 生久実が笑って、惺大の腕を触る。
 「その筋肉、短冊で増やしたの?」
 「違うわ! 階段だわ!」

 龍星は望遠鏡の脚を畳む前に、手を止めて一度だけ空を見上げた。雲の裂け目は細くなり、星の数は少しずつ減っていく。
 「……閉まる前に、見せられた」

 片付けは早かった。龍星が留め具を指で押さえ、惺大がケースの取っ手を握り、生久実が毛布をたたむ。祖母は膝の上の短冊を、何度も指で撫でた。
 穂乃花は容器のふたのロックを爪の先で確かめる。かちん、と小さな音。
 「音、した。よし」
 生久実が笑って、指先で小さく拍手の形を作る。
 「確認、完了」

 丘を下りる途中、街灯の下で影が長く伸びた。祖母の車いすのタイヤが砂利を踏む音に合わせて、四人の歩幅がそろう。
 惺大がふいに言った。
 「なあ。影、踏んだら1円ってさ。今日、誰も踏んでないよな」
 穂乃花が足元を見て、首を振る。
 「踏まなかった。踏まないほうが、気持ちが楽」
 龍星が小さく頷く。
 「踏まないって、守るってことなんですね」

 祖母が、四人を見上げて言った。
 「ねえ。今日の星、忘れないで。忘れそうになったら、また一緒に見よう」
 穂乃花は短く頷いた。返事は短いのに、胸の奥は忙しい。

 穂乃花は、笑いながら涙を拭いた。袖口に、レシートはもう入っていない。
 丘の上で四人の笑い声が風に乗り、星見町の夏が少しだけ明るくなる。
【終】 【完】