影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第2話 見積もりは先生より厳しい 
 
 翌日の朝。梅雨の雲が校舎の上にべったり張りついて、廊下の窓は白く曇っていた。

 龍星は二時間目の理科が終わると、望遠鏡のケースを抱えて理科準備室の前で深呼吸した。ドアの向こうから、薬品棚の引き出しが滑る音と、ガラスの触れ合う小さな鳴りが聞こえる。

 「失礼します。あの、杉本先生……」
 「おう、転校生。どうした」

 理科の杉本先生は白衣のポケットからペンを抜き、龍星の抱えたケースを見て眉を上げた。
 「それ、古いな。学校の備品じゃないよな」
 「祖父のです。七月七日の夜に……祖母に、流れ星を見せたくて。直せるか相談したいです」

 龍星は、決めてきた順番で話した。いつ、誰に、どこで、何をしたいか。言葉が途中で詰まらないよう、昨夜から頭の中で何度も並べ替えた。

 先生はケースをそっと開け、レンズの縁を覗きこむ。
 「……部品が摩耗してる。校内じゃ無理だな。修理屋に頼むのが早い」
 「紹介してもらえますか」
 「うちが世話になってる店がある。町の北の『星見電器修理』。安全に直してくれる」

 先生がメモ用紙に店の番号を書き、値段の目安を口にした瞬間だった。
 「ちょっと待ってください」

 準備室の入口から、聞き慣れた声が滑りこんだ。穂乃花が、ノートとレシートを小脇に抱えたまま、平然と入ってくる。
 「杉本先生。昨日の観察カード、提出しに来ました。……ついでにその値段、いくらでした?」

 「ついで」の顔で、穂乃花はメモ用紙を覗いた。
 「一万二千円前後、って今言いました?」
 「おい、穂乃花。聞き耳立てるな」
 「耳は無料です」

 龍星が小さく息を飲む。完全に「同席」になっている。先生が肩をすくめた。
 「相場だよ。古い望遠鏡は手間がかかる」
 「相場は一件じゃ決まりません」

 穂乃花は自分の帳面を開き、鉛筆を立てた。
 「最低三件。店の種類も変える。電器修理、カメラ屋、天体ショップ。あと、値段だけじゃなくて、納期と保証。七月七日に間に合うかどうかが先です」

 言い切ると、穂乃花は先生をまっすぐ見た。
 「先生、他に信頼できる店、ありますか。番号をください」
 「……え、俺が試験を受けてるのか?」
 「先生は採点する側です。だから紹介も厳しく」

 先生は笑いながら、別の店の名前を二つ挙げた。穂乃花は一字も落とさない勢いで書きとめる。龍星は、いつの間にか自分の肩の力が少し抜けていることに気づいた。誰かが隣で、段取りの順番を守ってくれると、呼吸が楽になる。

 準備室を出て廊下へ戻ると、龍星は小さくつぶやいた。
 「……巻き込まれた気がします」
 「安心して。巻き込まれる側は、走る量が増えるだけ」
 「増えるのは距離か……」

 穂乃花は鉛筆の芯を折らない角度で笑った。
 「でも走った分、星は近くなる。たぶん」
 「たぶん、って言った」
 「確率は後で計算する」

 放課後。二人は昇降口を出て、商店街へ向かう坂の途中で小さな文具店に寄った。店内は紙の匂いが濃く、鉛筆削りの音が奥から聞こえた。

 穂乃花は棚の前で立ち止まり、同じ大きさの帳面を三冊、順番に手に取った。表紙の厚み、罫線の幅、ページ数。指先で確かめてから、一番安いのを迷いなくカゴへ入れる。
 「これ」
 「俺が買います。昨日、前払いももらったし」
 「前払いは相談の分。これは別」

 レジで会計を済ませた穂乃花は、店の外で帳面を龍星へ差し出した。
 「記録しない願いは散る。今日聞いた店の番号、納期、値段、全部書く。電話した時間も書く。言った言わないで揉めるのは時間の無駄」
 龍星は思わず口に出した。
 「星の話なのに、まず数字が並ぶんだな」
 穂乃花は首を傾げる。
 「数字が整うと、星まで届く」

 龍星は帳面の角を指でなぞった。新品の紙が、まだ何も書かれていないのに、もう約束みたいに見える。
 「ありがとう」
 「ありがとうは、領収書が出ない」
 「じゃあ、どう返せば」
 「割り勘」

 穂乃花はカゴからレシートを取り出し、折り目を揃えて見せた。
 「二百二十円。半分は百十円。細かく払える?」
 「細かすぎる……」

 龍星は財布を開き、百円玉を一枚、十円玉を一枚、指先でつまんだ。出したはずなのに、穂乃花の目はまだ動く。
 「十円玉、もう一枚」
 「え?」
 「端数。税込み。……あなた、今、百十円ぴったり出したつもりの顔してた」
 「ぴったりだろ」
 「気持ちが」

 龍星は思わず笑ってしまい、追加の十円玉を出した。
 「はいはい。……巻き込まれただけです」
 「そのセリフ、帳面に書いとく?」
 「必要ない!」

 穂乃花は受け取った十円玉を、ポケットに入れず、龍星の手のひらへ戻した。
 「これは電話代の予備。公衆電話、まだ商店街に一つ残ってる。家に帰ってからだと、母の定食屋の電話は忙しい時間に鳴る。迷惑。だから今ここで、一本目だけかける」
 「一本目……今?」
 「今。雲は待ってくれない」

 龍星は帳面を抱え直し、商店街の看板を見上げた。風で揺れる短冊が、まだ準備途中の笹にちらほら下がっている。
 「……わかった。まず、どこにかける?」
 穂乃花は鉛筆を回し、番号を指で押さえた。
 「一件目。先生の紹介。高いのは分かった。でも納期の確認は必要。値段が高い理由も聞く。聞いたら、二件目へ行く」

 龍星は、胸の奥に小さな火がつくのを感じた。焦りじゃない。段取りが動き出す音だ。
 「……間に合わせる」
 「間に合わなかったら」
 穂乃花は視線を逸らさずに言った。
 「間に合う方法を、また探す。諦めるのは、最後にする」

 その言葉だけは、値段の計算みたいに淡々としていた。でも龍星は、そこに小さく温かいものが混じっているのを、見逃さなかった。

【続】