第19話 星が落ちる直前、穂乃花の布袋
丘の駐車場に止まった軽トラックのエンジンが切れると、風の音だけが残った。耳の奥へ冷たい指が差し込まれるみたいで、穂乃花は思わず肩をすくめた。
惺大が荷台から飛び降り、両腕をぶんぶん回す。
「寒っ。星って、こんなに冷たいのかよ」
「星は冷たくない。風が冷たい」
龍星は言いながら、望遠鏡のケースの金具を外した。指先が白くなっているのに、手順は崩れない。ロープの結び目を触って、ケースを開け、部品の位置を確かめる。その動きに、穂乃花の胸の中のざわざわが少しだけ落ち着いた。
生久実は祖母のひざに毛布をもう一枚かけ、頬の横にカイロを当てた。祖母は笑って、息を白くしながら言う。
「みんな、白い息が短冊みたい」
生久実が小さく頷き、祖母の手を握る。拍手はまだしない。風に飛ぶから。
駐車場の端から、街の灯りが小さく見える。坂の下は眠っているのに、ここだけが夜の真ん中だ。空は黒く深く、雲がゆっくり流れていく。雲の切れ目に、さっき車内で見えた点が、今はもっとはっきり瞬いていた。
「……よし」
龍星が三脚を立てた。脚を地面へ押し込むたび、砂利がきゅっと鳴る。穂乃花は何も言わず、三脚の足元へ石を噛ませた。斜面で揺れるのが嫌だ。嫌なものは、先に潰す。
「穂乃花、そこ、水平」
龍星が小さな水準器を見て言うと、穂乃花は眉をひそめて手を伸ばした。
「水平、無料じゃないよ」
「……分かってる。ありがと」
龍星の声は低い。今夜は、軽く笑っていられる余裕がない。
望遠鏡が組み上がる。代用品のねじを締めるとき、穂乃花は息を止めた。ねじ山を潰したら終わりだ。龍星の指が最後まで回して、止まった。
「動く」
龍星が小さく言っただけで、惺大は両手を握って跳ねそうになり、穂乃花に視線で止められる。生久実は口元を押さえ、祖母の耳へ囁いた。
「もうすぐだよ」
龍星がレンズを覗き、調整つまみを回す。ぎりぎり、ぎりぎり、と内部で何かが擦れる音がして、穂乃花の背中がぞわっとした。
「怖い音、する」
「必要な音だ。……来い、来い」
龍星は空へ向けて、まるで頼みごとをするみたいに呟いた。
次の瞬間、雲の隙間に星がにじんだ。ひとつじゃない。点が、線になりそうなほど増えていく。覗き口の向こうで、夜の奥に小さな砂糖を撒いたみたいに光っている。
「見える」
龍星の声が震えた。祖母が車いすのブレーキを握り直し、体を少し前へ倒す。
「私も、覗ける?」
「はい。……はい、ここ、ゆっくり」
龍星が祖母の手を支え、覗き口の高さを合わせる。生久実が後ろから毛布を押さえ、惺大は息を止めて見守っている。穂乃花はその横で、指先をぎゅっと握った。数える指が、今は数えないように固まっている。
祖母が覗いた、そのとき。
「……あ」
金属が軽く鳴った。小さな、嫌な音だ。望遠鏡の先端がふっと下がり、視界がずれる。龍星が慌てて手を伸ばすが、何かがころころと砂利の上を転がった。
「外れた……」
龍星は地面を見て、息が止まったみたいに固まった。雲の切れ目は今しかない。星は待ってくれない。祖母が覗き口から顔を上げ、静かに「大丈夫」と言った。その言葉が逆に、龍星の肩を重くした。
惺大が「俺、探す!」と叫びそうになって、穂乃花に口を押さえられる。
「音、出さない。落ちた部品、逃げる」
穂乃花はしゃがみ込み、懐中電灯の光を借りた。砂利の隙間へ光を滑らせる。転がったのは、小さな留め具だ。爪の先ほど。見つけたところで、これだけじゃ固定できない。
龍星が唇を噛んだ。頬の横を風が切り、目の縁が赤くなる。泣くかどうかじゃない。今、約束が、手のひらから落ちそうだった。
穂乃花は立ち上がり、ポケットを探る。財布じゃない。レシートの束でもない。胸の内側の布の感触を確かめて、制服の内ポケットから、くしゃっとした布袋を取り出した。
「……それ、何」
龍星が声を出した。かすれている。
穂乃花は布袋の口をほどき、手のひらへ傾けた。ころころ、と硬貨が転がる。磨かれた小銭が、月明かりを吸って淡く光った。10円、5円、1円。端に、小さな紙包みもある。
「予備」
穂乃花は紙包みを開けた。中から、同じ型の留め具と、代用品のねじが出てくる。町で最後に寄った店で、穂乃花だけが棚の下を覗いて見つけたものだ。領収書は、まだ折っていない。
龍星が息を呑む。
「なんで……買ったんだ」
穂乃花は布袋を握りしめ、声を小さくした。
「数えると……渡せなくなるから」
言った瞬間、自分の喉が詰まった。いつもは「いくら?」が先に出るのに、今夜は値段を口にしたくない。
穂乃花は布袋ごと、龍星の手の上へ落とした。硬貨が掌に重くのる。紙包みが指の間に引っかかる。龍星の指が震えて、布袋の口を掴み損ねた。
「穂乃花、これ……」
龍星は返そうとした。穂乃花は首を横に振るだけで、言い切った。
「今は、数えない」
同じ言葉なのに、さっきよりずっと苦しい。けれど、目を逸らさない。逃げたら、星より先に自分が消える。
惺大が黙って、親指を立てた。いつもなら「俺もやった!」と言いそうなのに、今は言わない。親指の先に、星が一個増えたみたいだった。
生久実は、祖母の肩へ手を置いたまま、そっと掌を叩いた。ぱち、ぱち。風に負けない小さな音。祖母がその音に合わせて、目を細める。
龍星は布袋から留め具を取り出し、望遠鏡へ戻った。ねじを回す指が、さっきより落ち着いている。穂乃花は懐中電灯の光を角度を変え、影が手元を隠さないようにした。影を踏まないように、今夜は影を作らない。
留め具がはまる。望遠鏡が、もう一度空へ向いた。雲の切れ目は、まだ残っている。星の粒が、まだそこにいる。
祖母がゆっくり言った。
「ねえ。星って、落ちる前に光るのね」
穂乃花は息を吐いた。胸の内側の数字の音は消えていない。でも、今はそれでいい。数字の音の向こうに、覗き口の向こうに、誰かの笑い声が待っている。
龍星が祖母へ場所を譲り、覗き口の横で囁いた。
「……間に合った」
穂乃花は返事をしない。代わりに、布袋の空っぽを握った。布は軽い。けれど、手のひらは熱かった。
【続】
丘の駐車場に止まった軽トラックのエンジンが切れると、風の音だけが残った。耳の奥へ冷たい指が差し込まれるみたいで、穂乃花は思わず肩をすくめた。
惺大が荷台から飛び降り、両腕をぶんぶん回す。
「寒っ。星って、こんなに冷たいのかよ」
「星は冷たくない。風が冷たい」
龍星は言いながら、望遠鏡のケースの金具を外した。指先が白くなっているのに、手順は崩れない。ロープの結び目を触って、ケースを開け、部品の位置を確かめる。その動きに、穂乃花の胸の中のざわざわが少しだけ落ち着いた。
生久実は祖母のひざに毛布をもう一枚かけ、頬の横にカイロを当てた。祖母は笑って、息を白くしながら言う。
「みんな、白い息が短冊みたい」
生久実が小さく頷き、祖母の手を握る。拍手はまだしない。風に飛ぶから。
駐車場の端から、街の灯りが小さく見える。坂の下は眠っているのに、ここだけが夜の真ん中だ。空は黒く深く、雲がゆっくり流れていく。雲の切れ目に、さっき車内で見えた点が、今はもっとはっきり瞬いていた。
「……よし」
龍星が三脚を立てた。脚を地面へ押し込むたび、砂利がきゅっと鳴る。穂乃花は何も言わず、三脚の足元へ石を噛ませた。斜面で揺れるのが嫌だ。嫌なものは、先に潰す。
「穂乃花、そこ、水平」
龍星が小さな水準器を見て言うと、穂乃花は眉をひそめて手を伸ばした。
「水平、無料じゃないよ」
「……分かってる。ありがと」
龍星の声は低い。今夜は、軽く笑っていられる余裕がない。
望遠鏡が組み上がる。代用品のねじを締めるとき、穂乃花は息を止めた。ねじ山を潰したら終わりだ。龍星の指が最後まで回して、止まった。
「動く」
龍星が小さく言っただけで、惺大は両手を握って跳ねそうになり、穂乃花に視線で止められる。生久実は口元を押さえ、祖母の耳へ囁いた。
「もうすぐだよ」
龍星がレンズを覗き、調整つまみを回す。ぎりぎり、ぎりぎり、と内部で何かが擦れる音がして、穂乃花の背中がぞわっとした。
「怖い音、する」
「必要な音だ。……来い、来い」
龍星は空へ向けて、まるで頼みごとをするみたいに呟いた。
次の瞬間、雲の隙間に星がにじんだ。ひとつじゃない。点が、線になりそうなほど増えていく。覗き口の向こうで、夜の奥に小さな砂糖を撒いたみたいに光っている。
「見える」
龍星の声が震えた。祖母が車いすのブレーキを握り直し、体を少し前へ倒す。
「私も、覗ける?」
「はい。……はい、ここ、ゆっくり」
龍星が祖母の手を支え、覗き口の高さを合わせる。生久実が後ろから毛布を押さえ、惺大は息を止めて見守っている。穂乃花はその横で、指先をぎゅっと握った。数える指が、今は数えないように固まっている。
祖母が覗いた、そのとき。
「……あ」
金属が軽く鳴った。小さな、嫌な音だ。望遠鏡の先端がふっと下がり、視界がずれる。龍星が慌てて手を伸ばすが、何かがころころと砂利の上を転がった。
「外れた……」
龍星は地面を見て、息が止まったみたいに固まった。雲の切れ目は今しかない。星は待ってくれない。祖母が覗き口から顔を上げ、静かに「大丈夫」と言った。その言葉が逆に、龍星の肩を重くした。
惺大が「俺、探す!」と叫びそうになって、穂乃花に口を押さえられる。
「音、出さない。落ちた部品、逃げる」
穂乃花はしゃがみ込み、懐中電灯の光を借りた。砂利の隙間へ光を滑らせる。転がったのは、小さな留め具だ。爪の先ほど。見つけたところで、これだけじゃ固定できない。
龍星が唇を噛んだ。頬の横を風が切り、目の縁が赤くなる。泣くかどうかじゃない。今、約束が、手のひらから落ちそうだった。
穂乃花は立ち上がり、ポケットを探る。財布じゃない。レシートの束でもない。胸の内側の布の感触を確かめて、制服の内ポケットから、くしゃっとした布袋を取り出した。
「……それ、何」
龍星が声を出した。かすれている。
穂乃花は布袋の口をほどき、手のひらへ傾けた。ころころ、と硬貨が転がる。磨かれた小銭が、月明かりを吸って淡く光った。10円、5円、1円。端に、小さな紙包みもある。
「予備」
穂乃花は紙包みを開けた。中から、同じ型の留め具と、代用品のねじが出てくる。町で最後に寄った店で、穂乃花だけが棚の下を覗いて見つけたものだ。領収書は、まだ折っていない。
龍星が息を呑む。
「なんで……買ったんだ」
穂乃花は布袋を握りしめ、声を小さくした。
「数えると……渡せなくなるから」
言った瞬間、自分の喉が詰まった。いつもは「いくら?」が先に出るのに、今夜は値段を口にしたくない。
穂乃花は布袋ごと、龍星の手の上へ落とした。硬貨が掌に重くのる。紙包みが指の間に引っかかる。龍星の指が震えて、布袋の口を掴み損ねた。
「穂乃花、これ……」
龍星は返そうとした。穂乃花は首を横に振るだけで、言い切った。
「今は、数えない」
同じ言葉なのに、さっきよりずっと苦しい。けれど、目を逸らさない。逃げたら、星より先に自分が消える。
惺大が黙って、親指を立てた。いつもなら「俺もやった!」と言いそうなのに、今は言わない。親指の先に、星が一個増えたみたいだった。
生久実は、祖母の肩へ手を置いたまま、そっと掌を叩いた。ぱち、ぱち。風に負けない小さな音。祖母がその音に合わせて、目を細める。
龍星は布袋から留め具を取り出し、望遠鏡へ戻った。ねじを回す指が、さっきより落ち着いている。穂乃花は懐中電灯の光を角度を変え、影が手元を隠さないようにした。影を踏まないように、今夜は影を作らない。
留め具がはまる。望遠鏡が、もう一度空へ向いた。雲の切れ目は、まだ残っている。星の粒が、まだそこにいる。
祖母がゆっくり言った。
「ねえ。星って、落ちる前に光るのね」
穂乃花は息を吐いた。胸の内側の数字の音は消えていない。でも、今はそれでいい。数字の音の向こうに、覗き口の向こうに、誰かの笑い声が待っている。
龍星が祖母へ場所を譲り、覗き口の横で囁いた。
「……間に合った」
穂乃花は返事をしない。代わりに、布袋の空っぽを握った。布は軽い。けれど、手のひらは熱かった。
【続】

