第18話 走れ、巻き込まれただけの男
体育館の壁に散った小さな光が、少しずつ薄くなっていく。懐中電灯の電池が、最後の息を細く吐いていた。
穂乃花はザルをそっと下ろし、手の甲で額の汗を拭いた。掌には金属の冷たさが残っている。横で生久実が、まだ拍手の余韻みたいに指をこすり合わせていた。
「ほんとに星、増えたね」
「増えてない。穴の数」
「でも、増えた感じがするのがすごい!」
惺大が暗がりの中で、壁の点に向かって手を伸ばす。
「俺、星を掴んだ」
穂乃花が即答する。
「掴んだら落とす。床が汚れる」
「星って汚れるの!?」
「惺大の手が」
笑い声が起きる。その笑いの端で、龍星は祖母の車いすのブレーキを確かめ、毛布の端を整えていた。祖母は壁を見上げたまま、ぽつりと言う。
「みんなの声、あったかいね」
龍星は頷いた。
「……本当は、空で見せたかった」
祖母は龍星の手を握り返す。
「空はね、逃げない。人は先に疲れるだけ」
穂乃花は体育館の隅に置かれたポットへ向かい、紙コップを数えてから、自分の分だけ注いだ。湯気が目の前で白い花になる。
「二杯目は自分の持ってくるって言った」
惺大が口を尖らせる。
「俺、持ってない」
「なら一杯」
「一杯で俺の才能が枯れる」
「枯れない。元から薄い」
生久実がまた拍手しながら笑った。
「穂乃花ちゃんの返し、スパッと決まるね!」
そのとき、体育館の入口の扉が、きゅっと小さく鳴った。理科の先生が、肩をすぼめて入ってくる。片手にスマホ、もう片手に鍵束。顔がいつもより速い。
「みんな、まだいるか」
先生は息を整える間もなく言った。
「丘の上……雲が切れたって。天文台の人から連絡が来た。今だけ、北側が開いてる」
体育館の空気が、ぱっと軽くなる。生久実の拍手が一段大きくなり、惺大が暗闇で跳ねた。
「勝った! 俺たち、勝った!」
「相手いない」
穂乃花が言いながらも、目だけは先生のスマホに向いている。画面には、丘の上のライブ映像が映っていた。黒い空に、細い裂け目。その向こうで、点がいくつも瞬く。
龍星の喉が、ごくりと鳴った。
「……行けますか」
先生は頷く。
「すぐなら。だけどバスはもうない。坂は暗い。車いすのまま運ぶなら、車が必要だ」
穂乃花は帳面を取り出すより先に、祖母の膝に目を落とした。祖母の手は温かいのに、指先だけ少し冷えている。体育館の床に引かれた白線が、丘へ続く道みたいに見えた。
「車」
穂乃花が短く言った。
「今から借りる。軽いやつ。荷台がある」
龍星が眉を寄せる。
「この時間に……どこで」
穂乃花はポケットからレシートを一枚引き抜いた。商店街の青果店の印字。角がきれいに揃っている。
「八百屋さん。閉店後でも、裏にいる。冷蔵庫の音、止められないから」
惺大が胸を張る。
「俺が行けば一瞬で借りれる。顔がいいから」
穂乃花が振り向く。
「顔は関係ない。条件が関係」
生久実が両手で拍手を止め、前へ出る。
「私も行く! 交渉って、見てるだけでも勉強になる!」
穂乃花は一歩だけ後ろへ下がり、龍星を見た。
「走れる?」
龍星は「巻き込まれただけです」を言いかけて、飲み込んだ。代わりに、うなずいた。
「……はい。最短ルート、知ってます」
体育館を出ると、夜風が頬を撫でた。雲はまだ重い。けれど、風の匂いが少し違う。海の湿り気が薄くて、山の乾いた草の匂いが混じっている。
穂乃花は制服の袖をまくり、走り出した。校門を抜けると、街灯の影が歩道に長く伸びる。惺大がわざと影を踏もうとするのを、穂乃花は横目で止めた。
「今、1円入れる場所ない」
惺大が口を開ける。
「え、影踏んだらどうなるの?」
「後でまとめて払う」
「まとめて!? 利息つく?」
「利息は付けない。面倒だから」
生久実が走りながら、息を切らして笑う。
「穂乃花ちゃん、今日だけは“面倒”が増えるの、うれしそう!」
穂乃花は答えない。答えの代わりに、手の中のレシートを握りしめた。紙が湿って、やわらかくなる。
商店街の裏通りに入ると、青果店のシャッターは下りていた。だが裏口の小窓から、白い明かりが漏れている。穂乃花が二回、一定の間隔でノックする。
「こんばんは。穂乃花です」
中で何かが転がる音。少しして、裏口が開いた。エプロン姿の店主が顔を出す。髭に白い粉がついている。小麦粉じゃない。段ボールの埃だ。
「おお、穂乃花ちゃん。こんな時間に、どうした」
穂乃花は深く頭を下げる。早口で、でも噛まない。
「軽トラ、貸してほしい。今から丘。車いす一台。戻りは二時まで。ガソリン満タンで返す。洗車もする。鍵は私が預かる」
店主が目を丸くする。
「情報が多い!」
龍星が横で頭を下げた。
「祖母に、七夕の星を見せたいんです。雲が今だけ切れて……」
店主は龍星の顔と、走って赤くなった頬を見て、少し黙った。それから、エプロンのポケットを探る。
「……貸すのはいい。けどな、夜道は危ない。運転は誰がする」
穂乃花が即答する。
「店主さん。迎えに来て。帰りも。私たち、荷物扱いでいい」
惺大が「俺、荷物!?」と叫ぶ。
穂乃花が鋭く見る。
「叫ぶ荷物はいらない」
店主が笑って、肩をすくめた。
「穂乃花ちゃん、相変わらず言い切るの早いなぁ」
「容赦は買えない」
「買えないのかよ」
生久実が、両手を合わせる。
「お願いします! 私、窓ふきします! 拍手しながら!」
「危ないからやめなさい」
店主が笑いながら言い、奥へ引っ込む。エンジンの始動音がすぐに響いた。店の横から、白い軽トラックがゆっくり出てくる。荷台には何も乗っていない。今夜だけ、空っぽの箱みたいだ。
「ほら、乗れ。……いや、まず学校行くんだろ」
店主がハンドル越しに言うと、穂乃花は小さく息を吐いた。胸の内側で鳴っていた数字の音が、少しだけ静かになる。
戻る道、龍星は走らない。走れないのではなく、息を整えるために歩幅を揃えた。穂乃花は軽トラの助手席で、料金表みたいに指を折っている。
「ガソリン代、洗車代、夜間の……」
龍星が言う。
「払います。貯金、あります」
穂乃花は首を横に振る。
「信頼で集めたお金は、信頼で使う。足りる。足りるようにした」
「でも……」
穂乃花は言葉を切るように言った。
「今は、数えない」
体育館に戻ると、先生が玄関で待っていた。祖母は車いすのまま、ポットの湯気で頬を温めている。穂乃花が近づくと、祖母が穂乃花の手を取った。
「走ったね」
穂乃花は少しだけ目を逸らす。
「走るのは無料」
祖母が笑った。
「じゃあ、息切れも無料だ」
軽トラの荷台に毛布を敷き、望遠鏡のケースを固定する。先生が懐中電灯で結び目を照らし、龍星がロープを二重に回す。惺大は「俺の筋肉で押さえる」と言い、穂乃花に「荷台は荷物だけ」と却下される。生久実は黙って、祖母の膝にカイロを二つ置いた。拍手はしない。今は音より温度だと知っている。
発車すると、街灯が後ろへ流れていく。窓の外の商店街は眠っているのに、軽トラの中だけは、息と期待で起きていた。祖母は後部座席で、窓に指を当てる。
「雲、動いてる?」
龍星が前を見たまま答える。
「動いてる。……お願いだから、間に合ってくれ」
丘へ向かう坂道に入ると、風が強くなった。木の葉がざわざわ鳴り、遠くで海の波が重なる。店主がハンドルを切りながら言う。
「星はな、こっちが急いでも、向こうはのんびりだ。でも、来たやつだけ見える」
穂乃花は膝の上の料金表を握ったまま、窓の外を見た。雲の端が、ほんの少し薄い。そこに小さな穴が開き、点がひとつ、光った。
「……見えた」
穂乃花の声は小さいのに、車内の空気が一斉にそちらへ向く。龍星が息を止める。生久実が手を合わせる。惺大は叫びそうになって、自分の口を両手で押さえた。
祖母がゆっくり頷く。
「ちゃんと来たね。空も、あなたたちも」
軽トラは丘の駐車場へ滑り込んだ。外へ出ると、風が耳を刺すほど冷たい。けれど、空は確かに裂けていた。黒い裂け目の向こうで、星がいくつも瞬いている。
龍星は望遠鏡のケースに手を置いた。指が少し震える。穂乃花はその震えを見て、何も言わずにロープの結び目をもう一度確かめた。数える指が、今夜だけは、守る指になっている。
【続】
体育館の壁に散った小さな光が、少しずつ薄くなっていく。懐中電灯の電池が、最後の息を細く吐いていた。
穂乃花はザルをそっと下ろし、手の甲で額の汗を拭いた。掌には金属の冷たさが残っている。横で生久実が、まだ拍手の余韻みたいに指をこすり合わせていた。
「ほんとに星、増えたね」
「増えてない。穴の数」
「でも、増えた感じがするのがすごい!」
惺大が暗がりの中で、壁の点に向かって手を伸ばす。
「俺、星を掴んだ」
穂乃花が即答する。
「掴んだら落とす。床が汚れる」
「星って汚れるの!?」
「惺大の手が」
笑い声が起きる。その笑いの端で、龍星は祖母の車いすのブレーキを確かめ、毛布の端を整えていた。祖母は壁を見上げたまま、ぽつりと言う。
「みんなの声、あったかいね」
龍星は頷いた。
「……本当は、空で見せたかった」
祖母は龍星の手を握り返す。
「空はね、逃げない。人は先に疲れるだけ」
穂乃花は体育館の隅に置かれたポットへ向かい、紙コップを数えてから、自分の分だけ注いだ。湯気が目の前で白い花になる。
「二杯目は自分の持ってくるって言った」
惺大が口を尖らせる。
「俺、持ってない」
「なら一杯」
「一杯で俺の才能が枯れる」
「枯れない。元から薄い」
生久実がまた拍手しながら笑った。
「穂乃花ちゃんの返し、スパッと決まるね!」
そのとき、体育館の入口の扉が、きゅっと小さく鳴った。理科の先生が、肩をすぼめて入ってくる。片手にスマホ、もう片手に鍵束。顔がいつもより速い。
「みんな、まだいるか」
先生は息を整える間もなく言った。
「丘の上……雲が切れたって。天文台の人から連絡が来た。今だけ、北側が開いてる」
体育館の空気が、ぱっと軽くなる。生久実の拍手が一段大きくなり、惺大が暗闇で跳ねた。
「勝った! 俺たち、勝った!」
「相手いない」
穂乃花が言いながらも、目だけは先生のスマホに向いている。画面には、丘の上のライブ映像が映っていた。黒い空に、細い裂け目。その向こうで、点がいくつも瞬く。
龍星の喉が、ごくりと鳴った。
「……行けますか」
先生は頷く。
「すぐなら。だけどバスはもうない。坂は暗い。車いすのまま運ぶなら、車が必要だ」
穂乃花は帳面を取り出すより先に、祖母の膝に目を落とした。祖母の手は温かいのに、指先だけ少し冷えている。体育館の床に引かれた白線が、丘へ続く道みたいに見えた。
「車」
穂乃花が短く言った。
「今から借りる。軽いやつ。荷台がある」
龍星が眉を寄せる。
「この時間に……どこで」
穂乃花はポケットからレシートを一枚引き抜いた。商店街の青果店の印字。角がきれいに揃っている。
「八百屋さん。閉店後でも、裏にいる。冷蔵庫の音、止められないから」
惺大が胸を張る。
「俺が行けば一瞬で借りれる。顔がいいから」
穂乃花が振り向く。
「顔は関係ない。条件が関係」
生久実が両手で拍手を止め、前へ出る。
「私も行く! 交渉って、見てるだけでも勉強になる!」
穂乃花は一歩だけ後ろへ下がり、龍星を見た。
「走れる?」
龍星は「巻き込まれただけです」を言いかけて、飲み込んだ。代わりに、うなずいた。
「……はい。最短ルート、知ってます」
体育館を出ると、夜風が頬を撫でた。雲はまだ重い。けれど、風の匂いが少し違う。海の湿り気が薄くて、山の乾いた草の匂いが混じっている。
穂乃花は制服の袖をまくり、走り出した。校門を抜けると、街灯の影が歩道に長く伸びる。惺大がわざと影を踏もうとするのを、穂乃花は横目で止めた。
「今、1円入れる場所ない」
惺大が口を開ける。
「え、影踏んだらどうなるの?」
「後でまとめて払う」
「まとめて!? 利息つく?」
「利息は付けない。面倒だから」
生久実が走りながら、息を切らして笑う。
「穂乃花ちゃん、今日だけは“面倒”が増えるの、うれしそう!」
穂乃花は答えない。答えの代わりに、手の中のレシートを握りしめた。紙が湿って、やわらかくなる。
商店街の裏通りに入ると、青果店のシャッターは下りていた。だが裏口の小窓から、白い明かりが漏れている。穂乃花が二回、一定の間隔でノックする。
「こんばんは。穂乃花です」
中で何かが転がる音。少しして、裏口が開いた。エプロン姿の店主が顔を出す。髭に白い粉がついている。小麦粉じゃない。段ボールの埃だ。
「おお、穂乃花ちゃん。こんな時間に、どうした」
穂乃花は深く頭を下げる。早口で、でも噛まない。
「軽トラ、貸してほしい。今から丘。車いす一台。戻りは二時まで。ガソリン満タンで返す。洗車もする。鍵は私が預かる」
店主が目を丸くする。
「情報が多い!」
龍星が横で頭を下げた。
「祖母に、七夕の星を見せたいんです。雲が今だけ切れて……」
店主は龍星の顔と、走って赤くなった頬を見て、少し黙った。それから、エプロンのポケットを探る。
「……貸すのはいい。けどな、夜道は危ない。運転は誰がする」
穂乃花が即答する。
「店主さん。迎えに来て。帰りも。私たち、荷物扱いでいい」
惺大が「俺、荷物!?」と叫ぶ。
穂乃花が鋭く見る。
「叫ぶ荷物はいらない」
店主が笑って、肩をすくめた。
「穂乃花ちゃん、相変わらず言い切るの早いなぁ」
「容赦は買えない」
「買えないのかよ」
生久実が、両手を合わせる。
「お願いします! 私、窓ふきします! 拍手しながら!」
「危ないからやめなさい」
店主が笑いながら言い、奥へ引っ込む。エンジンの始動音がすぐに響いた。店の横から、白い軽トラックがゆっくり出てくる。荷台には何も乗っていない。今夜だけ、空っぽの箱みたいだ。
「ほら、乗れ。……いや、まず学校行くんだろ」
店主がハンドル越しに言うと、穂乃花は小さく息を吐いた。胸の内側で鳴っていた数字の音が、少しだけ静かになる。
戻る道、龍星は走らない。走れないのではなく、息を整えるために歩幅を揃えた。穂乃花は軽トラの助手席で、料金表みたいに指を折っている。
「ガソリン代、洗車代、夜間の……」
龍星が言う。
「払います。貯金、あります」
穂乃花は首を横に振る。
「信頼で集めたお金は、信頼で使う。足りる。足りるようにした」
「でも……」
穂乃花は言葉を切るように言った。
「今は、数えない」
体育館に戻ると、先生が玄関で待っていた。祖母は車いすのまま、ポットの湯気で頬を温めている。穂乃花が近づくと、祖母が穂乃花の手を取った。
「走ったね」
穂乃花は少しだけ目を逸らす。
「走るのは無料」
祖母が笑った。
「じゃあ、息切れも無料だ」
軽トラの荷台に毛布を敷き、望遠鏡のケースを固定する。先生が懐中電灯で結び目を照らし、龍星がロープを二重に回す。惺大は「俺の筋肉で押さえる」と言い、穂乃花に「荷台は荷物だけ」と却下される。生久実は黙って、祖母の膝にカイロを二つ置いた。拍手はしない。今は音より温度だと知っている。
発車すると、街灯が後ろへ流れていく。窓の外の商店街は眠っているのに、軽トラの中だけは、息と期待で起きていた。祖母は後部座席で、窓に指を当てる。
「雲、動いてる?」
龍星が前を見たまま答える。
「動いてる。……お願いだから、間に合ってくれ」
丘へ向かう坂道に入ると、風が強くなった。木の葉がざわざわ鳴り、遠くで海の波が重なる。店主がハンドルを切りながら言う。
「星はな、こっちが急いでも、向こうはのんびりだ。でも、来たやつだけ見える」
穂乃花は膝の上の料金表を握ったまま、窓の外を見た。雲の端が、ほんの少し薄い。そこに小さな穴が開き、点がひとつ、光った。
「……見えた」
穂乃花の声は小さいのに、車内の空気が一斉にそちらへ向く。龍星が息を止める。生久実が手を合わせる。惺大は叫びそうになって、自分の口を両手で押さえた。
祖母がゆっくり頷く。
「ちゃんと来たね。空も、あなたたちも」
軽トラは丘の駐車場へ滑り込んだ。外へ出ると、風が耳を刺すほど冷たい。けれど、空は確かに裂けていた。黒い裂け目の向こうで、星がいくつも瞬いている。
龍星は望遠鏡のケースに手を置いた。指が少し震える。穂乃花はその震えを見て、何も言わずにロープの結び目をもう一度確かめた。数える指が、今夜だけは、守る指になっている。
【続】

