第17話 体育館の即席プラネタリウム
体育館の扉を開けた瞬間、夜の冷たい空気が、ゴム床の匂いを連れてきた。照明は半分だけ点いていて、白い光が床に四角く落ちている。
入口の近くに、車いすが一台止まっていた。龍星の祖母が毛布を肩まで引き上げ、膝の上の短冊を指で撫でている。隣で龍星が、ひざを折って目線を合わせていた。
「寒くない?」
「ん。寒いよ」
祖母はあっさり言って、龍星の頬を指でつついた。
「でも、顔はあったかい。あんた、悔しい顔してる」
龍星は、口を開けたまま言葉を飲みこんだ。望遠鏡のケースが、手の中で少し重い。雲が動かない。丘へ行けない。だから、今日の約束が遠のく――その計算が、頭の中で何度も回ってしまう。
穂乃花は、祖母の足元に目を落とす。車いすのブレーキ、毛布の端、靴下のつま先。全部、きちんと揃っているのに、指先だけが白い。
「……毛布、もう一枚いる」
言いながら、穂乃花は自分のバッグを開けた。中から出てきたのは、折り目のついたレシートの束――ではなく、薄いアルミの保温シートだった。
「防災のやつ。去年、町内会でもらった。使わないと、もったいない」
龍星が目を丸くする。
「持ち歩いてるんですか」
「軽い。無料」
惺大が後ろから覗きこんで、すぐに大げさに叫んだ。
「おい、穂乃花! それ、宇宙服の銀のやつじゃん! 俺、着たい!」
「着るのは無理。音がうるさい」
「え、俺の存在も?」
「それは最初から」
生久実がくすくす笑いながら、拍手を二回鳴らした。
「惺大くん、体育館で銀色は目立つよ。流れ星より」
「だろ!?」
「ほめてない」
穂乃花は祖母の肩へ保温シートをそっとかける。アルミが小さく鳴って、祖母が目を細めた。
「きれいねぇ。月の匂いがする」
「匂いはしてないと思う」
祖母は穂乃花を見上げ、頷いた。
「でも、うれしい。……あなた、手が早いね」
その「手が早い」を、穂乃花は褒め言葉として受け取らない。体育館の隅を見回し、先生が用意した長机の上に置かれた紙コップとポットを見ると、すぐに移動を始めた。
「温かいの、作ろう。コップは一人一個。二杯目は自分の持ってくる」
惺大が胸を張る。
「俺は三杯飲むけど?」
穂乃花が即答する。
「なら、三個洗う」
「洗うのも俺の美徳だな!」
「見たことない」
龍星が、小さく笑ってしまった。その笑いが自分の喉を通ったことに気づいて、驚いたように口を押さえる。祖母はその様子を見て、また指で龍星の頬をつつく。
「ほら。笑えるなら、まだ大丈夫」
体育館の窓は高く、外の雲が白く張りついて見える。星の気配は、どこにもない。床に引かれた白線だけが、空の代わりにまっすぐ伸びている。
穂乃花は、突然、体育館の倉庫へ向かった。扉の前で立ち止まると、龍星へ振り返る。
「鍵、理科の先生に借りた?」
「……はい。さっき渡されました」
龍星がポケットから鍵を出すと、穂乃花はそれを受け取らずに言った。
「開けるのは、持ち主。責任は、持つ人が持つ」
龍星は一拍置いて、鍵を回した。
倉庫の中には、ボール、コーン、ロープ、体育祭の旗。埃の匂い。穂乃花は迷わず棚の下段を引っ張り、家庭科室の札が貼られた箱を取り出した。
「先生、ここにまとめてる」
箱の中から出てきたのは、金属のザルと、使い古した懐中電灯。龍星が目を瞬かせる。
「……これで、星を?」
穂乃花は懐中電灯のスイッチを一度押して、光を確かめた。
「穴がいっぱいある。壁は白い。あとは暗くする」
惺大がまた腕を組む。
「俺、天才かも。ザルって、星座じゃん」
生久実が拍手で返す。
「ザル座!」
「新しい星座、できた! 俺の名前つけよ」
穂乃花が淡々と言う。
「名前つけるなら、掃除当番もつける」
「……俺、ザルでいい」
照明を落とすと、体育館の広さが一気に深くなった。誰かの息が響く。車いすの小さな車輪の音が、床で柔らかく転がる。
穂乃花はザルの内側に懐中電灯を当て、手で角度を調整する。光がザルの穴を通り、壁に無数の点を散らした。
「うわ……!」
近くにいた一年生たちが、声を上げる。点はゆっくり揺れ、まるで波の上の星みたいに動く。
生久実が、嬉しそうに拍手を続けた。
「本当に星みたい! 穂乃花ちゃん、どうやって思いつくの?」
穂乃花は点の揺れを見つめたまま言う。
「台所。水切り。……あと、停電のときの暇つぶし」
「最後、重い!」
龍星は祖母の車いすの横へ戻り、祖母の手を包んだ。祖母は壁の星を見て、ふっと口元をゆるめる。
「きれいね。流れないけど、落ちてこないから安心」
「……本物を見せたいんだ」
龍星が小さく言うと、祖母は指を動かして、龍星の手の甲を二回叩いた。
「焦ると、足元の花を踏むよ」
穂乃花の耳が、その言葉を拾った。壁の星を揺らしながら、祖母へ近づく。
「本物も見せたい。だから、待ってて」
祖母は穂乃花を見上げ、目尻にしわを寄せた。
「待つのは得意。若いころから、いいことは遅れて来るって知ってる」
穂乃花は返事をしない。返事の代わりに、懐中電灯の角度を少し変える。壁の点がすっと流れ、短い線になった。
「……今の、流れ星っぽい!」
子どもたちがはしゃぐ。惺大が胸を張って叫んだ。
「俺の腹筋も流れてる!」
「それは汗」
生久実が拍手しながら笑う。
「惺大くん、流れ星と同じで、止まったら終わりだよ!」
「怖っ!」
龍星は祖母の横で、深く息を吐いた。悔しさは消えない。でも、祖母の笑い声が、悔しさの上に毛布みたいに乗る。重いのに、あったかい。
穂乃花はザルを持つ手を止めず、龍星へ目だけで言った。
――今日は、ここまで。
――でも、終わらせない。
体育館の壁いっぱいに散った小さな光は、雲の向こうの空を、少しだけ近く見せた。七夕の夜は、まだ数え切れない。
【続】
体育館の扉を開けた瞬間、夜の冷たい空気が、ゴム床の匂いを連れてきた。照明は半分だけ点いていて、白い光が床に四角く落ちている。
入口の近くに、車いすが一台止まっていた。龍星の祖母が毛布を肩まで引き上げ、膝の上の短冊を指で撫でている。隣で龍星が、ひざを折って目線を合わせていた。
「寒くない?」
「ん。寒いよ」
祖母はあっさり言って、龍星の頬を指でつついた。
「でも、顔はあったかい。あんた、悔しい顔してる」
龍星は、口を開けたまま言葉を飲みこんだ。望遠鏡のケースが、手の中で少し重い。雲が動かない。丘へ行けない。だから、今日の約束が遠のく――その計算が、頭の中で何度も回ってしまう。
穂乃花は、祖母の足元に目を落とす。車いすのブレーキ、毛布の端、靴下のつま先。全部、きちんと揃っているのに、指先だけが白い。
「……毛布、もう一枚いる」
言いながら、穂乃花は自分のバッグを開けた。中から出てきたのは、折り目のついたレシートの束――ではなく、薄いアルミの保温シートだった。
「防災のやつ。去年、町内会でもらった。使わないと、もったいない」
龍星が目を丸くする。
「持ち歩いてるんですか」
「軽い。無料」
惺大が後ろから覗きこんで、すぐに大げさに叫んだ。
「おい、穂乃花! それ、宇宙服の銀のやつじゃん! 俺、着たい!」
「着るのは無理。音がうるさい」
「え、俺の存在も?」
「それは最初から」
生久実がくすくす笑いながら、拍手を二回鳴らした。
「惺大くん、体育館で銀色は目立つよ。流れ星より」
「だろ!?」
「ほめてない」
穂乃花は祖母の肩へ保温シートをそっとかける。アルミが小さく鳴って、祖母が目を細めた。
「きれいねぇ。月の匂いがする」
「匂いはしてないと思う」
祖母は穂乃花を見上げ、頷いた。
「でも、うれしい。……あなた、手が早いね」
その「手が早い」を、穂乃花は褒め言葉として受け取らない。体育館の隅を見回し、先生が用意した長机の上に置かれた紙コップとポットを見ると、すぐに移動を始めた。
「温かいの、作ろう。コップは一人一個。二杯目は自分の持ってくる」
惺大が胸を張る。
「俺は三杯飲むけど?」
穂乃花が即答する。
「なら、三個洗う」
「洗うのも俺の美徳だな!」
「見たことない」
龍星が、小さく笑ってしまった。その笑いが自分の喉を通ったことに気づいて、驚いたように口を押さえる。祖母はその様子を見て、また指で龍星の頬をつつく。
「ほら。笑えるなら、まだ大丈夫」
体育館の窓は高く、外の雲が白く張りついて見える。星の気配は、どこにもない。床に引かれた白線だけが、空の代わりにまっすぐ伸びている。
穂乃花は、突然、体育館の倉庫へ向かった。扉の前で立ち止まると、龍星へ振り返る。
「鍵、理科の先生に借りた?」
「……はい。さっき渡されました」
龍星がポケットから鍵を出すと、穂乃花はそれを受け取らずに言った。
「開けるのは、持ち主。責任は、持つ人が持つ」
龍星は一拍置いて、鍵を回した。
倉庫の中には、ボール、コーン、ロープ、体育祭の旗。埃の匂い。穂乃花は迷わず棚の下段を引っ張り、家庭科室の札が貼られた箱を取り出した。
「先生、ここにまとめてる」
箱の中から出てきたのは、金属のザルと、使い古した懐中電灯。龍星が目を瞬かせる。
「……これで、星を?」
穂乃花は懐中電灯のスイッチを一度押して、光を確かめた。
「穴がいっぱいある。壁は白い。あとは暗くする」
惺大がまた腕を組む。
「俺、天才かも。ザルって、星座じゃん」
生久実が拍手で返す。
「ザル座!」
「新しい星座、できた! 俺の名前つけよ」
穂乃花が淡々と言う。
「名前つけるなら、掃除当番もつける」
「……俺、ザルでいい」
照明を落とすと、体育館の広さが一気に深くなった。誰かの息が響く。車いすの小さな車輪の音が、床で柔らかく転がる。
穂乃花はザルの内側に懐中電灯を当て、手で角度を調整する。光がザルの穴を通り、壁に無数の点を散らした。
「うわ……!」
近くにいた一年生たちが、声を上げる。点はゆっくり揺れ、まるで波の上の星みたいに動く。
生久実が、嬉しそうに拍手を続けた。
「本当に星みたい! 穂乃花ちゃん、どうやって思いつくの?」
穂乃花は点の揺れを見つめたまま言う。
「台所。水切り。……あと、停電のときの暇つぶし」
「最後、重い!」
龍星は祖母の車いすの横へ戻り、祖母の手を包んだ。祖母は壁の星を見て、ふっと口元をゆるめる。
「きれいね。流れないけど、落ちてこないから安心」
「……本物を見せたいんだ」
龍星が小さく言うと、祖母は指を動かして、龍星の手の甲を二回叩いた。
「焦ると、足元の花を踏むよ」
穂乃花の耳が、その言葉を拾った。壁の星を揺らしながら、祖母へ近づく。
「本物も見せたい。だから、待ってて」
祖母は穂乃花を見上げ、目尻にしわを寄せた。
「待つのは得意。若いころから、いいことは遅れて来るって知ってる」
穂乃花は返事をしない。返事の代わりに、懐中電灯の角度を少し変える。壁の点がすっと流れ、短い線になった。
「……今の、流れ星っぽい!」
子どもたちがはしゃぐ。惺大が胸を張って叫んだ。
「俺の腹筋も流れてる!」
「それは汗」
生久実が拍手しながら笑う。
「惺大くん、流れ星と同じで、止まったら終わりだよ!」
「怖っ!」
龍星は祖母の横で、深く息を吐いた。悔しさは消えない。でも、祖母の笑い声が、悔しさの上に毛布みたいに乗る。重いのに、あったかい。
穂乃花はザルを持つ手を止めず、龍星へ目だけで言った。
――今日は、ここまで。
――でも、終わらせない。
体育館の壁いっぱいに散った小さな光は、雲の向こうの空を、少しだけ近く見せた。七夕の夜は、まだ数え切れない。
【続】

