影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第16話 短冊の言葉、10円で整えます 
 
 体育館の鍵を借りて、祖母をマットの上に座らせたあと――穂乃花は昇降口の時計を見た。針は七時台を指している。空はまだ重く、窓の外は灰色の綿を敷いたみたいだった。

 「待つって、体力いるね」
 生久実が肩をすくめると、穂乃花は帳面を閉じて言った。
 「待つ間に、できることする」
 「なに?」
 「言葉を整える」

 十分後、四人は商店街へ出ていた。アーケードの灯りが、雨の前の空気を白く照らす。七夕の飾りは揺れているのに、星は見えない。シャッターの降りた店の前で、穂乃花が立ち止まった。

 そこは昔、文房具屋だった空き店舗だ。ガラスに貼られた「貸店舗」の紙が、端から少しめくれている。穂乃花はその前に、折りたたみ机を開いた。机の脚が、かちん、と固い音を立てる。

 龍星が目を丸くする。
 「……どこから出したんですか」
 「惺大の自転車の荷台」
 「勝手に積んでましたけど!?」
 惺大が抗議しようとして、穂乃花に指を一本立てられた。
 「積載は無料。文句は10円」
 「払うか迷う!」

 穂乃花は机の上に、小さな木の箱を置いた。例の「10円相談」の箱だ。さらに、その横へ短冊の束と、太いペンを並べる。最後に紙の札を立てた。

 ――短冊の文章、整えます。10円。

 通りかかった八百屋の奥さんが、首をかしげる。
 「文章って、なにを?」
 穂乃花はペン先で短冊を軽く叩いた。
 「願いの言葉。短いほど、届きやすい」
 「そんなの、書けばいいじゃない」
 「書く前に、迷うところがある。そこをほどく」

 奥さんは腕を組んで、しばらく短冊を見つめた。ペンを持つ手が止まったまま、目だけが泳ぐ。
 「……“家族が元気で”って、毎年書いてるけどさ。元気って、どこからが元気だろうねぇ」
 穂乃花は頷き、奥さんの言葉を一度受け止めた。すぐに、鉛筆ではなく、太いペンで短冊に書く。
 『朝の「いってきます」が、来年も聞けますように。』
 奥さんの頬が、ふっとゆるむ。
 「……それ、いいね」
 生久実がすかさず拍手した。
 「今の、聞いただけであったかい!」
 奥さんが笑って、10円玉を箱へ落とす。ちりん、という音が、アーケードに小さく響いた。

 その音を合図にしたみたいに、他の人も寄ってきた。

 最初に前へ出たのは、ランドセルの少年だった。折りたたみ傘を握りしめ、短冊を持っても字が出ない。
 「ぼく、星、見たことない」
 穂乃花はしゃがんで目線を合わせ、短く聞いた。
 「どこで見たい」
 「おばあちゃんの家。縁側」
 「いつ」
 「夜ごはんのあと」
 穂乃花は短冊に、迷わず書いた。
 『夕ごはんのあと、縁側で一緒に空を見上げられますように。』
 少年は頷き、10円玉を握ったまま「ありがとう」と言って走っていった。

 次に来たのは、荷物を抱えた配達の人だった。息を整える間もなく言う。
 「雨、止んでほしい。今夜だけ」
 穂乃花は空を一度見上げ、短冊に書いた。
 『今日の八時に、空が一度だけ明るくなりますように。』
 配達の人は短冊を胸ポケットに差し込み、深く頭を下げた。

中学生の弟を連れた小学生、部活帰りの先輩、買い物袋を下げたおじいさん。短冊を前にして、誰もが同じ顔をする。言葉が喉の手前で止まる顔。

 穂乃花は一人ひとりに、質問を短く投げた。
 「誰に向けて?」
 「いつまでに?」
 「いちばん困るのは、どこ?」
 答えが返るたびに、穂乃花の手が動く。整った字が、短冊にすっと並ぶ。

 龍星は横で、箱の中の硬貨が増えていく音を聞いていた。増えるのは10円玉だけじゃない。短冊を受け取った人の背中が、少しずつまっすぐになる。肩が上がり、歩幅が揃う。

 惺大も列に並んだ。胸を張って、短冊を突き出す。
 「俺の願い? 決まってる。世界平和」
 「じゃあ、言って」
 穂乃花が返すと、惺大は勢いよく息を吸った。
 「せ、せか……せかいへ……へい……へいわ!」
 噛んだ。しかも二回噛んだ。

 通りのあちこちから笑い声が上がる。生久実は笑いながらも拍手をやめない。
 「言い切った! 途中で逃げなかった!」
 惺大は耳まで赤くして、強がる。
 「笑っていいんだよ。俺は笑いの国の大使だから」
 「大使は噛まない」
 穂乃花が真顔で突っ込むと、惺大は両手を上げた。
 「修行します!」

 穂乃花は惺大の短冊に、さらさらと書いた。
 『今日、目の前の一人にやさしくできますように。』
 惺大は短冊を見て、一瞬だけ黙った。胸の張り方が、少しだけ変わる。
 「……それ、地味だけど、むずいな」
 「むずい方が、値打ちがある」
 穂乃花はそう言って、10円玉を催促するみたいに箱を軽く押した。
 惺大が「払います」と言って、素直に落とす。ちりん。

 龍星はそのやり取りを見ながら、穂乃花の指先を追った。彼女は硬貨を数えるように、人の言葉も数えている。余分を削って、足りないところを足して、最後に残る形にする。守ってきたのは小銭だけじゃない。誰かの背中を押すための“材料”を、毎日拾って、畳んで、しまってきたのだ。

 ふいに、穂乃花が顔を上げた。雲の向こうの空を見上げて、耳を澄ますように目を細める。
 「……風、変わった」
 龍星も空を見る。アーケードの外で、雲の縁がほんの少しだけ薄くなった気がした。

 穂乃花は箱のふたを閉め、机の上の短冊をきれいに揃える。最後の一枚を指で押さえてから、龍星へ言った。
 「体育館に戻ろう。待ってる人がいる」
 「……はい」
 龍星は頷いた。望遠鏡のケースを握る手に、さっきより熱が戻っている。

 生久実が机をたたみながら、明るい声で言う。
 「短冊の列、また続き、やろうね!」
 穂乃花は即答した。
 「続きは、空が開いたら。順番は守る」

 四人は机を畳み、硬貨の重さを腕で感じながら、学校へ引き返した。星見町の七夕はまだ終わらない。星が見えなくても、言葉は歩ける。

【続】