影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第15話 丘へ行くか、学校に残るか 
 
 七夕の夜のはじまりは、思ったより蒸し暑かった。

 星見中学校の昇降口に集まったのは、まだ空が濃い藍に染まりきらない時間だ。部活の音が消えた校舎は、昼間より広く感じる。外へ出ると、街灯が白く点いていて、空の下側だけがぼんやり明るい。

 龍星は望遠鏡のケースを胸に抱えたまま、空を見上げた。
 雲が、厚い。ふくらんだ灰色が、星を隠すつもりで居座っている。

 車いすの祖母も来ていた。膝に小さなひざ掛けをかけ、手すりを握っている。頬は笑っているのに、指先は少しだけ震えていた。
 「龍星、ここ、風が通るねぇ。ええ場所」
 「……寒くない?」
 「平気。昔は畑で夜露に濡れたもんだよ」

 惺大が大げさに腕を振り上げる。
 「ばあちゃん! 俺が丘まで押します! 筋トレしてるし!」
 祖母が目を細めた。
 「押してくれるのは嬉しいけど、坂っていうのはね、押すより止める方が難しいんだよ」
 惺大はその言葉に、ふっと真顔になってから、すぐに胸を張り直す。
 「止めるのも得意っす! 俺、ブレーキみたいな男なんで!」
 生久実がすかさず拍手した。
 「意味は分かんないけど、勢いは好き!」

 穂乃花は二人のやり取りを横目に、帳面を開いた。昇降口の壁にもたれ、鉛筆を小さく動かす。硬貨の重さで紙が浮かないように、親指で角を押さえている。
 「残り……これだけ」
 数字が並ぶ。募金の合計、部品代、予備の消耗品、容器代。余白には、商店街の店ごとの端数まで書いてある。

 龍星が祖母の後ろへ回り、車いすの車輪を軽く触って確かめた。
 「丘へ行くなら、車が必要です。坂が……」
 「先生の車、借りられないかな」
 生久実が言うと、惺大が勢いよく頷く。
 「俺、今なら先生に頭下げられる! いける!」
 「じゃあ、下げてきて」
 穂乃花が即答した。

 惺大が職員室へ走っていき、しばらくして戻ってくる。肩で息をして、言いにくそうに口を尖らせた。
 「……だめだった。家庭の用事で、今から出るって」
 「そうか」
 龍星は短く答えた。望遠鏡のケースを抱える腕が、少しだけ強くなる。

 龍星はポケットから小さな封筒を出した。角が擦れている。大事にしてきた形だ。
 「俺の貯金、出します。足りない分……」
 穂乃花の鉛筆が、ぴたりと止まった。

 「だめ」
 声は低くない。けれど、空気が一段冷える言い方だった。

 龍星が瞬きをする。
 「でも、祖母に――」
 「分かってる」
 穂乃花は帳面を閉じ、封筒へ視線を落とした。
 「それは、あなたのお金。瓶のは、みんなの信頼」
 龍星の喉が小さく鳴る。

 惺大が口を挟もうとして、穂乃花の目を見て黙った。生久実も拍手を止め、祖母の方をそっと見た。

 穂乃花は祖母の前へしゃがんだ。車いすの足元を確認し、ひざ掛けの端を整える。布の折り目をきっちり揃えるのは、いつもの癖だ。
 「坂、きつい。無理して転んだら、今日の星より痛い」
 祖母が笑った。
 「星より痛いのは、嫌だねぇ」
 「でしょ」
 穂乃花は立ち上がり、龍星へ言った。
 「臨時バス、手配できる。でも、今の残りじゃ届かない」
 「じゃあ……どうする」
 龍星の声がかすれる。

 穂乃花は昇降口の外へ一歩出た。雲の縁を見て、風の向きを頬で確かめる。夜の匂いが、湿った草と土の匂いに混ざっている。
 「待つ」
 「待つって……」
 「学校で。空が割れたら動く」
 言い切ってから、穂乃花は自分の言葉を指で数えるように、もう一度確かめた。
 「誰かに頼るなら、頼り方もちゃんとする。信頼で集めたお金は、信頼で使う。急いで焦って、壊すのは……高い」

 龍星は封筒を握りしめたまま、息を吐いた。雲の下で、彼の肩が一瞬だけ落ちる。それでも、祖母の方へ向き直り、膝をついた。
 「ばあちゃん。……ここで待ってて。空が開いたら、すぐ動く」
 祖母は龍星の髪を、指先で軽く撫でた。
 「待つのは得意だよ。あなたが約束を守る子だって、私は知ってる」

 その言葉に、龍星の目が少しだけ潤む。すぐに顔を背けて、見えないふりをした。

 生久実が両手をぎゅっと握る。
 「じゃあさ、待ってる間に、寒くならないようにしよ! 体育館、使えないかな」
 惺大が勢いよく頷いた。
 「俺、鍵係の先生に頼む! 今度こそ通す! 俺の顔を!」
 穂乃花が即答する。
 「顔じゃなくて、言い方を通して」

 惺大が「うっ」と詰まってから、祖母に向かって丁寧に頭を下げた。
 「……寒いの、困ると思うんで。体育館、借りてきます」
 祖母がぱちぱちと手を叩いた。
 「今のは、いい言い方だねぇ」

 惺大が照れて走り出す。生久実はその背中に拍手を送る。

 穂乃花は最後に、帳面を胸に抱えた。そこへ書かれた数字は、まだ足りない。けれど、今日だけは、数字の外側にあるものが見えている気がした。
 雲の下で、龍星がぽつりと言う。
 「穂乃花さん。……俺、焦ってた」
 穂乃花は頷いた。
 「焦るの、分かる。七夕は年に一回。しかも今夜」
 そして、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
 「でも、今夜が全部じゃない。今夜が開くために、今日は守る」

 祖母の車いすの車輪が、きゅ、と小さく鳴った。風が変わったのか、雲の端がゆっくり動く。
 誰も言わないまま、四人は空を見上げた。
 まだ星は見えない。でも、待つ場所は決まった。

【続】