影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第14話 笹の下で、言い方を直す 
 
 技術室の蛇口で、黒い粉が流れていくのを見届けてから、四人は校門を出た。七月七日の夕方、商店街へ向かう道は、浴衣の人がぽつぽつ混じっている。空はまだ明るいのに、灯りの準備が始まっていて、提灯の紙が風でふくらんだ。

 穂乃花は制服のポケットから、くしゃっとならないように折り畳んだレシート束を出した。歩きながら端を揃え、指でなぞって順番を整える。龍星が横目で見る。
 「その……歩きながらやると、危ないですよ」
 「危ないのは、レシートの迷子。迷子は探す時間が有料」
 「時間も有料なんですか」
 「私の中ではね」

 商店街の入口には、背の高い笹が何本も立ち、短冊が鈴みたいに揺れていた。色とりどりの紙の間から、夕日がきらっと差し込む。風が吹くたび、紙の擦れる音が小さく鳴る。

 惺大は笹の下に立つなり、胸を張った。
 「よし。俺の出番だな。今日の俺は、謝る男」
 「今までの惺大は、謝らない男みたいに言わないで」
 生久実が笑いながら拍手し、惺大は「そこは盛っていいだろ」と肩をすくめる。

 惺大が向かったのは、短冊を結んでいる学級委員の澪だった。容器が消えたとき、澪は眉をひそめて惺大を見た。惺大は「俺を疑うとか、見る目ない」と言い返し、教室の空気を余計に硬くした。今日、その相手と真正面からぶつかるつもりらしい。

 惺大は一歩近づいて、口を開いた。
 「えーと。澪。あのさ。……俺が許す」
 その瞬間、穂乃花が手元のレシートから顔を上げ、すぐに言った。
 「許すのは、疑われた側」
 惺大の顎が、がくっと落ちる。
 「……あ、そっか。そうだ。俺、今、言い方……」
 穂乃花は笹の枝先を指さしながら、淡々と付け足した。
 「枝、折ったら弁償。言葉も折ると痛い」

 惺大は咳払いを一つして、今度は短く言い直した。
 「澪。ごめん。あのとき、言い返した。……怖かった」
 自分の弱いところを口にした途端、惺大の目が泳いだ。いつもなら「俺だから許される」と笑って終わらせるのに、今日は逃げない。

 澪は手にした短冊を揺らし、少し考えてから息を吐いた。
 「……疑ったのは、私も悪かった。けど、あの言い方、地味に刺さる」
 「地味って言うな! 俺は派手に刺したつもりは……」
 「そこ、反省ポイント」
 生久実の拍手がぱちぱちと入る。

 澪が最後に、口元だけで笑った。
 「でも、ちゃんと『ごめん』って言えたなら、まあ……いいよ」
 惺大の肩が、ふっと下がった。すぐにまた胸を張って、いつもの調子に戻ろうとする。
 「ほらな。俺、やればできる」
 穂乃花が間髪入れずに言う。
 「今のは、澪が優しい」
 惺大は悔しそうに唇を尖らせたが、澪の前では言い返せず、短冊の紐を黙って結び直した。

 少し離れたところで、龍星は穂乃花の横に立った。笹の葉が揺れて、二人の足元に細い影が落ちる。龍星は影を避けるように立ち位置を変えてから、穂乃花へ向き直った。
 「さっき……いや、ずっと。先に怒って、守ってくれて、ありがとうございました」
 穂乃花はレシート束を揃え終え、指先でぴしっと角を合わせた。
 「怒るのは無料」
 「じゃあ……笑うのも無料ですか」
 龍星が真面目な顔で言うから、穂乃花は一瞬、返事に詰まった。

 生久実が後ろから、のぞきこむみたいに顔を出す。
 「穂乃花、笑ってるよ。今。ちょっとだけ」
 「ちょっとは、カウントしない」
 穂乃花はそう言いながら、足元の影を見た。笹の葉の影が、風で揺れて、踏むか踏まないかの境目を作る。

 穂乃花は一歩だけ、そっと横へずれた。影を踏まないための、いつもの動き。でも、その動きが今日だけ少し、慎重だった。
 「……笑うのは、無料じゃないかも」
 「値段があるんですか」
 「ある。だって、私、すぐ財布の紐を締めるでしょ。そんな私が笑うと……なんか、負けたみたいで」
 龍星が小さく首を振る。
 「負けじゃないです。……見せてくれたってことです」

 穂乃花は、笹の短冊の列を見上げた。誰かの「合格しますように」、誰かの「家族が元気で」。願いは紙一枚なのに、胸の奥をこつんと叩いてくる。
 穂乃花は自分のポケットの中で、硬貨の感触を探した。指先に当たったのは、使い古した十円玉ではなく、さっきから握っていたレシートの角だった。

 惺大が後ろで叫ぶ。
 「よーし! 次は俺の短冊だ! 『世界を俺に任せろ』!」
 「世界は重いから、まず漢字を間違えないで」
 穂乃花が言うと、生久実が拍手しながら「確かに!」と笑った。

 龍星は、笹の影から外れるように一歩だけ動き、穂乃花の隣に立ち直した。
 「じゃあ、穂乃花さん。……今夜、空が割れたら、笑ってください。僕が、その顔を見たい」
 穂乃花は、返事の代わりにレシート束をポケットへしまい、笹の葉の音を聞いた。
 「見積もり、取る」
 「え?」
 「笑うための。……今夜の空、晴れる確率」
 龍星が吹き出しそうになって、慌てて口元を押さえた。

 穂乃花はその横顔を見て、ほんの一瞬だけ、口の端を上げた。影を踏まないように立ったままの笑い方だったけれど、龍星の目が少しだけ丸くなるのが分かった。

 商店街の提灯に、一つ、灯りが入った。夕方の空に、やわらかい橙色が浮かぶ。
 穂乃花は小さく息を吐いて言った。
 「……その笑い、今は無料。領収書いらない」
 龍星は真面目に頷いた。
 「はい。大切にします」

 笹の下で、短冊が一枚、さらりと揺れた。四人の足元の影も、風に合わせて揺れながら、夜の方向へ少しずつ伸びていった。

【続】