影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第13話 技術室、手は真っ黒 
 
 七月七日の昼、技術室の扉を開けた瞬間、油と木くずの匂いがぶわっと鼻に来た。窓からの光が机の上の金属片をきらりと光らせ、換気扇が低い音で回っている。

 穂乃花の手には、鍵の束があった。赤いひもでまとめられ、「返却 放課後まで」と札がついている。
 さっき職員室の前で、技術の先生は腕時計を叩きながら言った。
 「危ないことはするな。機械は勝手に触るな。分かったら、ノートに名前を書け」
 穂乃花は即答した。
 「名前も、借りた時間も、返した時間も書きます。後で揉めるのは、時間の無駄です」
 先生は一度だけ目を丸くし、「そこまで言うなら」と鍵を渡したのだった。

 惺大が肩をすくめる。
 「ここ、なんか秘密基地っぽいな」
 「基地は無料。道具は借り物」
 穂乃花はそう言って、入口の貸出ノートを指先で叩いた。

 龍星が鞄から望遠鏡の部品を取り出し、布の上に置く。足りないねじの穴は、ぽっかり口を開けたままだ。
 生久実が覗き込み、手を合わせるみたいに言った。
 「作ろう。今なら、まだ間に合う」

 穂乃花は軍手を二組、棚から取って自分の手に重ねた。指が動きにくくなるのに、わざとだ。
 「二重。ケガしたら保健室、保健室の次は薬。薬の次は……レシート」
 惺大が笑って肩を揺らす。
 「最後にレシート来るのかよ」
 「来る。確実に」

 穂乃花は安全ゴーグルも三つ並べ、龍星と生久実へ渡した。惺大にも差し出す。
 「それ、似合わないんだけど」
 「似合うかは鏡。必要かは目」
 穂乃花が言うと、惺大は口を尖らせながらもかけた。

 龍星は定規とノギスを探し、引き出しを静かに開け閉めした。音を立てないのは、癖みたいだった。
 「直径……これくらい。長さは……」
 数字を呟く声が、換気扇の音に溶ける。

 生久実が棚の下から、細い金属の棒を一本見つけて持ち上げた。先が少し曲がっている。
 「これ、捨てるやつかな」
 穂乃花が棒の表面を指でこすり、黒い粉がついた指先を見た。
 「捨てる予定は、今から『使う』に変更。値段は……」
 穂乃花は棒を空中で軽く振って、にやりとした。
 「ゼロ円」

 惺大が胸を張る。
 「俺の出番だな。力仕事なら任せろ!」
 「任せるのは、力じゃなくて手順」
 穂乃花はバイスを机に固定し、龍星へ場所を譲った。

 龍星が棒をはさみ、金切り鋸を引く。ギィ、と短い音。金属の粉がぱらりと落ちる。
 穂乃花は横で、削りカスが落ちる位置に古い新聞紙を広げた。端をきっちり折る。
 「片付けに時間を払わない。払うなら、七夕の夜」

 惺大が我慢できず、棒を押さえる手に力を込めた。
 「もっといけるって!」
 バイスの取っ手がぎゅっと回り、棒がきしむ。次の瞬間、棒がぐにゃりと逃げかけた。

 「止めて」
 穂乃花の声が低く落ちた。怒鳴らないのに、技術室の空気が一瞬で固まる。
 穂乃花は折れかけた棒を取り上げ、惺大の指を一本ずつ確認するように見た。
 「折れたら、二本目。二本目がないと、今夜は終わる」
 惺大が目をそらし、唇をすぼめた。
 「……わかったよ。俺、押さえる係、向いてない」

 生久実が笑って手を叩いた。ぱん、ぱん、と乾いた音が響く。
 「じゃあ、惺大は『手を出さない係』! 大事!」

 その時、廊下側の扉が、がらりと開いた。
 「まだやってるか――」
 技術の先生が顔を出し、四人の黒い軍手と新聞紙の山を見て、一歩だけ引いた。

 穂乃花は軍手のまま背筋を伸ばし、入口の貸出ノートを指さした。
 「借りた時間、書きました。危ないこと、してません」
 惺大が小声で「今の言い方、先生みたい」と言って、すぐ口を閉じる。

 先生は机の端の部品を覗き込み、龍星の手元を見た。
 「代用品か。よくやったな。ただ、最後は力でねじ込むな。斜めに入れたら、夜に戻せない」
 龍星がうなずき、ねじ山を指でなぞる。

 先生は棚の下の小箱から、薄い輪っかを二枚つまんで置いた。
 「余り。使えるなら持っていけ。返すのはいい。落とすのはだめ」
 穂乃花が即答した。
 「落としたら、一円じゃ足りません」
 先生は笑いそうになり、喉で止めてから言った。
 「終わったら床を掃け。新聞紙は縛る。水道は最後に確認。鍵は放課後すぐ返す」

 作業は続いた。ヤスリで棒の先を丸くし、溝を刻む。龍星はノギスの目盛りを何度も確かめ、削るたびに息を止める。
 穂乃花は、ねじ山の間隔を指で示して短く言った。
 「同じ幅。同じ深さ。急ぐなら、手は急がせない」
 龍星が頷き、同じ角度で削り続ける。

 指先の感覚が鈍るほど、黒い粉が軍手に染みる。生久実の前髪にも、いつの間にか小さな点がついていた。
 生久実がそれに気づいて笑う。
 「私、星みたいになってる?」
 穂乃花が首を傾げる。
 「今は、煤。星は夜に取っておく」

 時間の針が進む。窓の外の光が少し傾き、机の影が伸びた。
 惺大はその影を踏みかけ、慌てて足を引っ込めた。
 「……今、踏んだ?」
 穂乃花が軍手のまま親指を立てる。
 「踏んだなら一円。でも今日は、手が真っ黒だから後で数える」

 最後に、龍星が部品の穴へ代用品をそっと当てた。最初の一回転で、ねじが引っかかる。金属が嫌がる音がしない。
 龍星の肩が、ゆっくり下がった。

 「……入った」
 その声は、朝の理科室で聞いた硬さがなかった。

 穂乃花は笑った。笑ったのに、目の端がほんの少し濡れて、すぐに軍手の甲で拭った。
 「よし。これで、今夜の空に借りを作らない」

 生久実の拍手がまた弾む。惺大も思わず手を叩きそうになって、黒い軍手を見てやめた。
 「うわ、俺、手ぇ……」
 「手の黒さは無料。制服のクリーニングは有料」
 穂乃花が言うと、龍星が小さく笑った。

 穂乃花は蛇口を指さし、四人を並ばせた。
 「洗って。落ちない分は、今夜の思い出にする」
 水の音が技術室に広がり、黒い粉が流れていく。

 龍星は洗い終えた手で、代用品のねじをそっと握り直した。
 「……間に合います」
 穂乃花は頷き、廊下へ向かって一歩だけ影を避けた。
 「間に合わせる。七夕は、まだ昼」

【続】