影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第12話 七夕当日、ねじが一本足りない 
 
 七月七日の朝、理科室の窓はまだ少し白く曇っていた。登校してきた生徒の足音が廊下を流れていくのに、理科室の中だけ、金属の匂いが濃い。

 机の上には、古い望遠鏡の部品が布の上に並んでいる。レンズ、筒、細い金具、ねじの皿。龍星は袖をまくり、ひとつずつ指で押さえながら、昨日まとめた紙に丸をつけていった。

 「……ここ、合ってる。ここも……」

 言葉が、途中で止まった。龍星の指が空気をつまむみたいに宙で固まり、視線が一点に落ちる。

 穂乃花は、机の端に置いた硬貨入りの容器を、反射で眺めていた。ふたの内側に貼った小さな紙には「七夕 修理代」と書いてある。穂乃花はそこから目だけを上げた。

 「止まった理由、言って」

 龍星が唇を一度だけ結び、吐く息を細くした。

 「……ねじが一本、足りない」

 龍星はポケットの中の紙を指で押さえた。祖母がゆっくり書いた短冊の下書きだ。紙の端が少し丸くなっている。
 「今夜、読ませたいんです」
 言った途端、龍星は自分で自分の声の硬さに気づき、喉を一度鳴らした。
 惺大が、椅子の背にもたれていた体を跳ね起こす。

 「一本!? 一本で止まるの!? ねじってそういうもん!?」

 生久実が手を叩きかけ、理科室の静けさを思い出したみたいに、両手を胸の前で止めた。

 「……一本でも、止まるよ。あの筒、揺れると危ない」

 龍星は部品の並びを崩さないように、足りない場所を指で示した。四本穴があるのに、ねじが三本しかない。空いた穴が、やけに目立つ。

 「昨日、店で買った袋は、たしか……」
 「開けて、数えた?」
 「数えた。三本って書いてあった。……俺が見落としたのかもしれない」

 龍星の声が、ほんの少しだけ低くなる。顔の色が薄くなっていくのが、穂乃花にも分かった。

 穂乃花は椅子を引いて立ち上がった。床の影を踏まないように足を横へずらし、理科室の壁に貼ってある時間割を見上げる。

 「商店街の金物屋、開くのは何時」
 「九時半」
 「いま、八時前」

 穂乃花はすぐに計算して、紙に線を引いた。待ち時間、往復の距離、理科室の使用許可。龍星が息を吸う。

 「……間に合わない」

 惺大が腕をぶんぶん振った。

 「俺が走る! 俺の顔で開けさせる!」
 「顔で扉は開かない。鍵で開く」
 穂乃花の返しが速い。
 「じゃあ鍵ごと借りる!」
 「犯罪になる。1円じゃ済まない」

 惺大が口をつぐみ、代わりに生久実が前へ出た。理科室の棚を開け、実験器具の箱を覗く。

 「作ろう。ねじって、形が合えば……」
 「中途半端は危ない」
 龍星が言うと、生久実は頷いた。
 「だから、ちゃんと作る。技術室、行ける?」

 その「行ける?」が、龍星の胸の中の時計をさらに早くする。龍星は口を開きかけて――閉じた。言える言葉が見つからない。

 穂乃花は、黙ったまま自分の机へ戻った。黒い筆箱を開ける。中身は、鉛筆が短くなるまで使った跡、芯の長さをそろえたシャープペン、消しゴムの角。定規の裏には細いメモが貼ってある。

 穂乃花は指を滑らせ、奥の小さなポケットから、透明な袋を取り出した。指先ほどの小袋の中で、小さなねじが四本、きちんと並んでいる。

 「……これ」

 袋が光る。龍星の視線がそこに吸い寄せられた。

 「なんで、そんなの持ってるの」
 惺大が思わず大きい声を出し、生久実が肩をすくめて「音量」と口だけで言う。

 穂乃花は袋を机の上に置き、端を指で押さえた。逃げないように。

 「前に、壊れたカゴの留め具を直したとき、余ったねじ。捨てるの、もったいないと思って」

 言い切ったあと、穂乃花は袋の角に貼った小さなラベルを見せた。そこには、細い字で「いつか」と書いてある。

 龍星はしばらく動けなかった。昨日まで、穂乃花が数えて守っていたのは硬貨だと思っていた。けれど、こういう「いつか」も、同じ引き出しにしまってきたのだ。

 龍星は袋へ手を伸ばして――途中で止めた。

 「……いいの?」
 「いい。使うために取ってた」
 穂乃花は簡単に言うと、袋の口を開けて、ねじを一本だけ取り出した。落としたら探すのに時間がかかる。指先が慎重になる。

 惺大が、息をのむ音をわざと大きくした。
 「すげぇ……筆箱って、宇宙だな」
 「宇宙は無料。袋は返して」
 「え、そこは返すの?」
 「袋は、また使う」

 生久実が、今度は小さく拍手した。理科室の空気を乱さない音量で、ぺち、ぺち、と。

 「穂乃花の『いつか』、今日だった」

 龍星は笑う前に、喉が熱くなった。言葉が出てこない代わりに、深く頭を下げた。

 「……ありがとう」
 穂乃花はその言葉を受け取るみたいに、ねじを龍星の掌へ置いた。
 「ありがとうは、今の作業で返して」

 龍星は頷き、布の上の部品へ戻る。足りなかった穴にねじを当てる。回す。抵抗がなく、きちんと締まっていく。金属が、約束の形に戻っていく音がする。

 「よし」

 龍星の短い声に、惺大が親指を立てた。生久実が頷く。穂乃花は容器のふたを一度だけ指で押して、ロックを確かめた。

 「ただし」
 穂乃花が言った。
 「今日、もし別の部品が足りないって言ったら、先に言って。顔色が変わる前に」
 龍星が目を上げる。
 「……はい。先に言います」

 惺大が机を指でたたきそうになってやめ、代わりに腰を浮かせた。
 「じゃ、俺の出番なくなった?」
 「走るなら、技術室へ。道具運ぶの、手伝って」
 生久実が言うと、惺大は嬉しそうに「任せろ」と口だけで言った。

 四人は理科室を出た。廊下の窓から差す光が強くなり、影がくっきり伸びる。

 穂乃花は先頭を歩き、影を踏まない位置を選びながら、低く言った。

 「七夕は、まだ朝。夜まで、間に合わせる」

【続】