第10話 消えた容器、疑われた惺大
七月上旬。放課後のチャイムが鳴って、2年2組の窓が一斉に開く。湿った風が入ってきて、黒板消しの粉が光の中でふわりと舞った。
教室の後ろの棚の上に、昨日までのガラス瓶はない。代わりに置かれたのは、透明で割れない容器だった。口が細く、指が入らない。ふたの縁には、穂乃花が貼った白い紙がぐるりと巻かれている。紙のつなぎ目に赤いスタンプ――生徒会の印。
「……ほんとに、ここまでやるんだ」
惺大が椅子にもたれ、腕を組んだ。声は呆れているのに、目は妙に嬉しそうだ。
穂乃花は返事の代わりに、紙の端を指でなぞった。剥がれかけていないか、角が浮いていないか。確認が終わると、机の引き出しから帳面を出す。日付の欄に、きっちり「7/○」と書いた。
龍星が容器を持ち上げ、軽く振ってみる。中の硬貨が一度だけ鳴った。
「これなら、落としても割れない。……ありがとう、穂乃花さん」
「ありがとうは無料。容器は有料」
穂乃花がさらりと言って、レシートを二つ折りにした。端に小さく、赤ペンで丸がついている。消費税のところだ。
生久実が容器の周りをぐるりと回って、拍手する前に手を止めた。
「生徒会のスタンプ、かっこいい。……でも、これ、みんなの前に置くの? 目立つよ」
「目立つほうが、なくならない」
穂乃花の声は淡々としている。龍星は、その言い方に少しだけ救われた顔をした。
今日の「影を踏まないでね」は、昼休みだけだった。廊下で誰かの影を踏んだら1円。踏まなくてもいい。入れなくてもいい。机の横には穂乃花の字で「自由」と書いた紙が貼られている。惺大が見つけて、わざとらしく胸を張った。
「自由ってことは、俺が盛り上げてやるのも自由だな!」
「追いかけ回すのは禁止」
穂乃花が即答し、惺大は「えぇ!?」と大げさに膝を折った。
夕方。掃除当番がほうきを持って動き回り、窓際の雑巾が水を絞られてきゅっと鳴る。龍星は帳面を開き、今日の入金の合計を書こうとしていた。穂乃花は横で硬貨の枚数を指で追い、惺大はなぜか黒板の端に「星見町最強」とチョークで書き始める。
「いま書く必要ある?」
生久実が笑うと、惺大は振り向いて指を立てた。
「必要だ。俺のやる気は文字にすると増える!」
穂乃花がチョークの粉を指先で払う。
「増えるのは、掃除の手間」
「それも、俺がやれば――」
「やらない」
「早い!」
笑いが一度、教室に跳ねた。その次の瞬間だった。
龍星が棚の上へ手を伸ばして、固まった。
「……ない」
穂乃花が顔を上げる。惺大のチョークが床に落ちて、ころころ転がった。
「容器が、ない。さっき、ここに――」
生久実が棚の上をのぞき込み、机の下までしゃがみ込む。
「落ちた? ……ううん、落ちてない。紙の封もない」
教室の空気が、じわりと冷える。窓からの風だけが、カーテンを揺らしている。
「え、まさか……誰か持ってった?」
後ろの席の子が言った。視線が自然に、黒板の前にいる惺大へ向く。さっきまで棚の近くで文字を書いていたからだ。
惺大は両手を広げた。
「俺じゃない! 俺は偉い!」
言った瞬間、数人の眉が上がった。
「……それ、余計あやしい」
誰かがぽつりと呟く。
龍星が一歩前へ出た。声は大きくないのに、教室の隅まで届いた。
「惺大がやったなら、最初に『俺がやった』って言う。……そういうやつだろ」
惺大が口を開けたまま止まる。いつもの「そうだろ?」が出ない。喉の奥で言葉が詰まったみたいに、目だけが泳いだ。
生久実が、拍手の手を胸の前で止めた。
「決めつけない。……探そう。まず、教室。次に、廊下。最後に、職員室。順番ね」
穂乃花は何も言わず、棚の上の板をそっと撫でた。指先に白い粉がつく。黒板のチョークではなく、別の白さ。棚の角に、細い線が引かれている。
穂乃花は机の横へしゃがみ、床を見た。掃除の雑巾が通ったあとに残る、薄い水の線。その線が、棚の前で一度だけ不自然に切れている。
「……引きずった」
穂乃花が小さく呟いた。誰かに向けた声ではない。自分に確認する声だ。
「え?」
龍星が覗き込むと、穂乃花はチョーク跡のついた指で、床の線を指した。
「ここ。雑巾の水が切れてる。持ち上げたら、切れる。引きずったら、横に伸びる。……伸びてない」
「つまり、持ち上げて運んだ?」
生久実が息をのむ。
穂乃花は頷かず、棚の角の線をもう一度なぞった。
「上げた向きが、こっち」
そう言って、教室の出口のほうへ指先を向ける。
惺大が慌てて首を振った。
「俺、そんな丁寧に運ばない! 運ぶなら、もっとド派手に――」
「ド派手に運ぶと、音が出る」
穂乃花が遮った。
「音が出たら、誰かが見てる。……見てないなら、静かに運んだ」
龍星が拳を握りしめる。硬貨の重さを思い出すより先に、祖母の顔が浮かんだ。七月七日の夜、丘の上で、目を細めて空を見る姿。約束の日は近い。
「……取り戻す」
龍星が言った。息を吐く音が少しだけ震える。
穂乃花は帳面を閉じ、立ち上がった。制服の裾についたチョーク粉を手で払う。払い方が、硬貨を数えるときと同じくらい丁寧だ。
「走るのは無料。探すのは有料。……でも、今は払う」
生久実がうなずいて、廊下へ出る前に一度だけ振り返った。
「惺大。手、貸して。今は、胸じゃなくて」
惺大は一瞬だけ唇を噛んだ。次の瞬間、いつもの調子に戻ろうとして、わざとらしく笑う。
「任せろ。俺の偉さは、手にも出る!」
その声に、教室の空気がほんの少しだけ緩んだ。龍星は、緩んだ隙間に息を入れ直す。
四人は並んで廊下へ出た。夕方の窓に、長い影が伸びる。誰も、誰の影も踏まないように歩いた。
【続】
七月上旬。放課後のチャイムが鳴って、2年2組の窓が一斉に開く。湿った風が入ってきて、黒板消しの粉が光の中でふわりと舞った。
教室の後ろの棚の上に、昨日までのガラス瓶はない。代わりに置かれたのは、透明で割れない容器だった。口が細く、指が入らない。ふたの縁には、穂乃花が貼った白い紙がぐるりと巻かれている。紙のつなぎ目に赤いスタンプ――生徒会の印。
「……ほんとに、ここまでやるんだ」
惺大が椅子にもたれ、腕を組んだ。声は呆れているのに、目は妙に嬉しそうだ。
穂乃花は返事の代わりに、紙の端を指でなぞった。剥がれかけていないか、角が浮いていないか。確認が終わると、机の引き出しから帳面を出す。日付の欄に、きっちり「7/○」と書いた。
龍星が容器を持ち上げ、軽く振ってみる。中の硬貨が一度だけ鳴った。
「これなら、落としても割れない。……ありがとう、穂乃花さん」
「ありがとうは無料。容器は有料」
穂乃花がさらりと言って、レシートを二つ折りにした。端に小さく、赤ペンで丸がついている。消費税のところだ。
生久実が容器の周りをぐるりと回って、拍手する前に手を止めた。
「生徒会のスタンプ、かっこいい。……でも、これ、みんなの前に置くの? 目立つよ」
「目立つほうが、なくならない」
穂乃花の声は淡々としている。龍星は、その言い方に少しだけ救われた顔をした。
今日の「影を踏まないでね」は、昼休みだけだった。廊下で誰かの影を踏んだら1円。踏まなくてもいい。入れなくてもいい。机の横には穂乃花の字で「自由」と書いた紙が貼られている。惺大が見つけて、わざとらしく胸を張った。
「自由ってことは、俺が盛り上げてやるのも自由だな!」
「追いかけ回すのは禁止」
穂乃花が即答し、惺大は「えぇ!?」と大げさに膝を折った。
夕方。掃除当番がほうきを持って動き回り、窓際の雑巾が水を絞られてきゅっと鳴る。龍星は帳面を開き、今日の入金の合計を書こうとしていた。穂乃花は横で硬貨の枚数を指で追い、惺大はなぜか黒板の端に「星見町最強」とチョークで書き始める。
「いま書く必要ある?」
生久実が笑うと、惺大は振り向いて指を立てた。
「必要だ。俺のやる気は文字にすると増える!」
穂乃花がチョークの粉を指先で払う。
「増えるのは、掃除の手間」
「それも、俺がやれば――」
「やらない」
「早い!」
笑いが一度、教室に跳ねた。その次の瞬間だった。
龍星が棚の上へ手を伸ばして、固まった。
「……ない」
穂乃花が顔を上げる。惺大のチョークが床に落ちて、ころころ転がった。
「容器が、ない。さっき、ここに――」
生久実が棚の上をのぞき込み、机の下までしゃがみ込む。
「落ちた? ……ううん、落ちてない。紙の封もない」
教室の空気が、じわりと冷える。窓からの風だけが、カーテンを揺らしている。
「え、まさか……誰か持ってった?」
後ろの席の子が言った。視線が自然に、黒板の前にいる惺大へ向く。さっきまで棚の近くで文字を書いていたからだ。
惺大は両手を広げた。
「俺じゃない! 俺は偉い!」
言った瞬間、数人の眉が上がった。
「……それ、余計あやしい」
誰かがぽつりと呟く。
龍星が一歩前へ出た。声は大きくないのに、教室の隅まで届いた。
「惺大がやったなら、最初に『俺がやった』って言う。……そういうやつだろ」
惺大が口を開けたまま止まる。いつもの「そうだろ?」が出ない。喉の奥で言葉が詰まったみたいに、目だけが泳いだ。
生久実が、拍手の手を胸の前で止めた。
「決めつけない。……探そう。まず、教室。次に、廊下。最後に、職員室。順番ね」
穂乃花は何も言わず、棚の上の板をそっと撫でた。指先に白い粉がつく。黒板のチョークではなく、別の白さ。棚の角に、細い線が引かれている。
穂乃花は机の横へしゃがみ、床を見た。掃除の雑巾が通ったあとに残る、薄い水の線。その線が、棚の前で一度だけ不自然に切れている。
「……引きずった」
穂乃花が小さく呟いた。誰かに向けた声ではない。自分に確認する声だ。
「え?」
龍星が覗き込むと、穂乃花はチョーク跡のついた指で、床の線を指した。
「ここ。雑巾の水が切れてる。持ち上げたら、切れる。引きずったら、横に伸びる。……伸びてない」
「つまり、持ち上げて運んだ?」
生久実が息をのむ。
穂乃花は頷かず、棚の角の線をもう一度なぞった。
「上げた向きが、こっち」
そう言って、教室の出口のほうへ指先を向ける。
惺大が慌てて首を振った。
「俺、そんな丁寧に運ばない! 運ぶなら、もっとド派手に――」
「ド派手に運ぶと、音が出る」
穂乃花が遮った。
「音が出たら、誰かが見てる。……見てないなら、静かに運んだ」
龍星が拳を握りしめる。硬貨の重さを思い出すより先に、祖母の顔が浮かんだ。七月七日の夜、丘の上で、目を細めて空を見る姿。約束の日は近い。
「……取り戻す」
龍星が言った。息を吐く音が少しだけ震える。
穂乃花は帳面を閉じ、立ち上がった。制服の裾についたチョーク粉を手で払う。払い方が、硬貨を数えるときと同じくらい丁寧だ。
「走るのは無料。探すのは有料。……でも、今は払う」
生久実がうなずいて、廊下へ出る前に一度だけ振り返った。
「惺大。手、貸して。今は、胸じゃなくて」
惺大は一瞬だけ唇を噛んだ。次の瞬間、いつもの調子に戻ろうとして、わざとらしく笑う。
「任せろ。俺の偉さは、手にも出る!」
その声に、教室の空気がほんの少しだけ緩んだ。龍星は、緩んだ隙間に息を入れ直す。
四人は並んで廊下へ出た。夕方の窓に、長い影が伸びる。誰も、誰の影も踏まないように歩いた。
【続】

