影を踏んだら1円――七夕の丘へ走る10円相談

第1話 10円相談箱と転校生 
 
 六月の湿った風が窓の隙間から入り、昼休みのチャイムと同時に、2年2組の教室は椅子の脚が鳴り、弁当の匂いがふわっと広がった。

 穂乃花は窓際の自分の机の端に、小さな紙箱をことんと置く。箱のふたには、太い黒ペンで「10円相談」とだけ書いてある。横に細い札も立てた。

 ――相談1つ、10円。

 クラスメイトの惺大が、弁当のふたを開けながら覗きこむ。
 「またやってんの? その、未来を変える箱」
 穂乃花はレシートを折り畳む手を止めずに言った。
 「未来は無料。相談は10円。清潔」
 「意味わかんねぇ!」
 笑い声が上がる。

 そこへ、廊下から小さな足音が近づいてきた。1年生の女子が、肩をすぼめて教室の入り口に立つ。背負ったリュックがやけに大きい。

 穂乃花は視線だけで「どうぞ」を作る。1年生はそろそろと近づき、箱の前に立った。
 「……えっと。あの、先輩。友だちのグループに……入りたいんですけど、話しかけるタイミングが……」
 穂乃花は頷き、机の引き出しから小さなメモ帳を出した。薄い鉛筆で、すらすら書いて渡す。紙切れ一枚の「作戦メモ」だ。

 『明日の朝、教室の扉の前で「おはよう」を先に言う。
  次に、相手の持ち物を一つだけ褒める(靴下・筆箱・髪留め)
  最後に「今日の給食なに?」で終わる。』

 1年生の目が丸くなる。
 「……それ、できますかね」
 「できる。言葉は短いほど強い」
 穂乃花は指で、メモの最後をとんとんと叩いた。
 「給食は逃げない」

 1年生が笑って、ポケットから10円玉を出す。箱の中に落ちた金属の音が、意外と大きい。
 ちりん。

 その音に、何人かが拍手した。生久実が一番に「いいね!」と手を鳴らし、惺大が便乗して叫ぶ。
 「ほらな! 俺のクラス、優しい!」
 「いまの拍手は、あの子の勇気に対してだよ」
 生久実が惺大の箸を軽くはたく。
 惺大は痛くもないのに「いてっ」と大げさに言って、また笑いが起きた。

 1年生がぺこりと頭を下げて帰っていくと、穂乃花は箱を一度だけ揺らした。10円玉が一枚、ころんと転がる音がする。
 「本日の売上、10円」
 「それで何買うの?」
 惺大が聞くと、穂乃花は真顔で答えた。
 「折り紙」
 「地味!」

 そんなとき、担任が廊下側の扉を開けて入ってきた。
 「みんな、席につけー。転校生を紹介する」
 教室がざわつく。椅子が引かれ、机が揺れる。

 入ってきた男子は、背が少し高くて、肩に力が入っていない。黒い髪が額に落ち、目だけが落ち着いて見えた。抱えているのは書類の束――たぶん自己紹介のプリントだ。

 「2年2組に今日から入る、龍星だ。……えっと、よろしく」
 短く言って、龍星は軽く頭を下げた。

 その瞬間、プリントの角が手からすべって床へ散った。ぱらぱら、と紙が舞う。
 「わっ……すみません」
 龍星がしゃがむより先に、穂乃花が立っていた。ひょい、と一枚を拾って、軽く払って渡す。

 「落とし物は、0円で返す」
 穂乃花はプリントの端に、さらさらと何かを書き足してから差し出した。
 龍星が目を落とす。そこには小さく、確かにそう書かれていた。

 龍星の口元がわずかに動く。
 「……そのルール、決まってるの?」
 「いま決めた」
 穂乃花は当たり前の顔をして座る。惺大が後ろから口笛を吹いた。
 「転校初日で、変な先輩に絡まれてて草」
 「草って何」
 生久実が真面目に聞き、惺大が「そこからかよ!」と叫んで、また笑いが起きた。

 授業が始まっても、穂乃花は何となく龍星の横顔を見てしまう。黒板に向けた目はまっすぐで、ノートを取る手が丁寧だ。鉛筆の音が、他の誰より小さい。

 放課後。校舎の裏に回ると、海からの風が木の葉を揺らしていた。体育館の影が長く伸びて、地面を冷やしている。

 穂乃花は校庭の端で、誰かがしゃがみこんでいるのを見つけた。近づくと、龍星だった。古いケースを膝の上に置き、留め金を外している。中から出てきたのは、黒い筒――望遠鏡。金具には小さな傷があり、ネジの一つが欠けている。

 穂乃花は星の話より先に口が動いた。
 「それ、直すといくら?」
 龍星は手を止めて顔を上げる。驚きはあったが、嫌そうな顔ではない。
 「……いきなりお金の話?」
 「星より先に、値段。だって、必要でしょ」
 穂乃花は言い切って、手のひらを差し出した。相談箱じゃなく、ただの手のひらだ。
 「理由も聞く。順番は、お金の次」

 龍星はしばらく黙って、望遠鏡の筒をなでた。指先が、金属の冷たさを確かめるみたいにゆっくり動く。
 「祖父の形見なんだ。……直せば、まだ見えるって」
 それから、言葉を選ぶみたいに息を吸って続けた。
 「7月7日の夜に、丘で流れ星を見せたい。……祖母が、車いすで。短冊の願いを、読ませたいんだ」

 風が一段強くなり、校舎の影の端が揺れた。穂乃花は、影を踏まないように一歩だけずらす。癖みたいな動きだった。

 「祖母さん、七夕が好き?」
 「昔、祖父と毎年見に行ってたって。……今年は、俺が連れていきたい」
 龍星の声は静かだった。でも、静かなぶんだけ、逃げない。

 穂乃花は自分のポケットを探り、10円玉を一枚取り出した。硬貨の表面を親指でこする。数字の「10」が光る。
 「修理費、いくら足りない?」
 「……まだ見積もりも取れてない。でも、たぶん――」
 「見積もりは取る。最低3件」
 穂乃花が言うと、龍星は少しだけ目を細めた。
 「……巻き込まれた気がする」
 「安心して。巻き込むのは無料」
 「無料かよ……」

 そのとき、遠くで惺大の声がした。
 「おーい穂乃花! 帰るぞー! あ、転校生も!」
 振り向くと、惺大が大きく手を振っている。生久実はその横で、何が楽しいのか拍手していた。

 穂乃花は10円玉を、龍星の手のひらにそっと置いた。
 「これは前払い。今日の話、聞いた分」
 「え、いや、俺が払うんじゃ」
 「あなたは今、払う気持ちで目が曇ってる。曇りは星が見えなくなる」
 穂乃花は望遠鏡のケースを見下ろした。
 「まず直す。星を見る。短冊を読む。順番。だいじ」

 龍星は10円玉を握りしめて、少しだけ笑った。初めて教室で見たときより、顔が柔らかい。
 「……わかった。見積もり、取る。……穂乃花先輩」
 「先輩って言うと、10円増える」
 「増えないだろ」

 ふたりは並んで歩き出す。校舎の影を踏まないように、穂乃花は慎重に足を運ぶ。龍星はその歩幅に合わせて、少しだけ歩く速度を落とした。

 空はまだ明るいのに、東の端に一つだけ白い点が見えた。穂乃花はそれを指さして言った。
 「あれ、たぶん一番星。買わなくても、見える」
 龍星は目を上げ、短く頷いた。
 「……でも、見せたい相手がいると、値段が変わる気がする」
 穂乃花は返事をせず、ポケットの中のレシートを、もう一度きれいに折り畳んだ。

【続】