冬の花火、上げます。――無口な瑞生と男子たちのメリークリスマス

第7話 月ばかり見ていた 
 
 十二月上旬の夕方。部活の声が遠くへ薄まり、校庭の土は冷えて固くなっていた。フェンスの向こうの住宅街から、夕飯の匂いがふっと流れてくる。風が吹くたび、校舎の影が伸びたり縮んだりした。

 芽郁は昇降口を出て、コートのポケットを探った。指先に触れたのは、折りたたんだコピー用紙。優李亜が図書室で渡してきた、あの写真だ。
 紙の角が丁寧に切りそろえられている。揃いすぎていて、なんだか笑ってしまいそうになる。優李亜は、たぶんこの角のために、わざわざ定規を当てた。そういうところが、本人は何も言わないのに伝わってくる。

 芽郁は心の中で、昨日の自分の声を思い出した。
 ――逃げそうになったら、十分だけやる。
 今日も同じだ。理科室へ行けば、また石碑の刻字と向き合う。面倒だし、寒いし、正直、眠い。
 それでも、写真の中の小さな火の花が、頭の隅でぱちぱち鳴っている気がして、足が止まらない。

 校庭の隅で立ち尽くす影が見えた。動かない。誰かが迎えを待っているみたいに見えるのに、手には何もない。
 瑞生だった。

 瑞生はフェンス際の白いラインの上に立って、首を少しだけ上げている。視線の先には、薄い月。まだ明るい空の中で、白い輪郭だけが浮いていた。
 昨日の国語の時間、瑞生が「月」って言ったとき、教室の空気が一瞬止まった。その止まり方が、今日の瑞生の立ち方と、同じ匂いがした。
 芽郁は、音を立てないように近づいた。自分でも理由が分からないから、足音を消した。理由が分からないことを、ばれたくない。

 近づいて分かった。瑞生は寒さで肩をすくめていない。ポケットに手も入れていない。代わりに、鞄の肩ひもを軽く握っている。握り方が、必要最低限だ。
 芽郁は自分の手袋の上からコピーを押さえ、息を整えた。

 「……それ、解消法?」
 芽郁が言うと、自分の声が思ったより静かで驚いた。校庭って、もっと広いから声が飛ぶと思っていたのに、言葉は足元に落ちるみたいに短く聞こえた。
 瑞生はすぐに答えない。呼吸ひとつ分、間があった。その間に、遠くでサッカー部のボールの音が一回だけ弾んだ。
 瑞生のまつげが、空の色に溶ける。
 「……頭が静かになる」
 言葉は短い。けれど、瑞生の視線は月から外れないままだった。

 芽郁は、コピーの写真を指で押さえた。紙の角が、手袋の縫い目に引っかかる。ほどくのがもったいなくて、そのままにした。
 暗い空に開く小さな光。校舎裏の花壇。冬の夜の花火。
 石碑の「月」と「火」が、頭の中で隣り合う。まだ読めない「…げます」が、写真の光のほうへ寄っていく気がした。
 もし、あの刻字が本当に「冬の花火、上げます」だとしたら。誰が、いつ、どうして――。
 考えた瞬間、面倒だと思う気持ちが、少しだけ形を変える。面倒だけど、知りたい。逃げたいけど、止まれない。

 「……月、ばっかり見てるんだね」
 芽郁が言うと、瑞生はようやく芽郁のほうを見た。目だけで。からかわれると思ったのかもしれないし、確認しただけかもしれない。
 芽郁は咄嗟に、声の温度を落とした。
 「悪い意味じゃなくて。……なんか、いい」
 瑞生は言い返さない。ただ、息を吐く。白い息が小さく出て、すぐ消えた。消え方が、瑞生の返事みたいだった。

 芽郁は自分の肩が、いつの間にか上がっていたことに気づいた。下ろすと、胸の奥の固さが少しだけほどける。
 短い会話なのに、足の裏が軽い。走るわけじゃないのに、歩き出せそうな軽さ。
 「静かになる」って、こういうことかもしれない、と芽郁は思った。寝るだけじゃ直らない、って言った自分の言葉が、瑞生の言葉と並ぶ。

 瑞生は鞄から、いつものノートを取り出した。採点表が挟まっているやつだ。表紙の角が、いつもぴしっとしている。
 開きかけて、でも、今日は書かないみたいに、ぱたんと閉じた。その動作が、授業の終わりの合図みたいに見えた。
 そのまま、芽郁の手元へ視線を落とす。コピー。写真。日付の丸。
 瑞生の指が、紙の端の少し上で止まった。触れない。けれど、見ている。
 芽郁は、説明みたいに言った。
 「優李亜が、見つけた。昔、十二月二十四日の放課後に……ここで、花火やってたって」
 瑞生の目が、一度だけ細くなる。驚いたのか、確認しているのか、芽郁には分からない。
 瑞生は月のほうへ視線を戻してから、また写真へ戻した。
 「……火」
 それだけ言って、瑞生はノートを抱え直した。

 芽郁は笑いそうになった。会話が成立してるのかしてないのか、ぎりぎりの線。けれど、その線が、妙に心地いい。
 芽郁はポケットの中で、メモ帳の存在を確かめる。紙がそこにあるだけで、逃げる前の十分が思い出せる。やることは増える。でも、増えるのは悪いことじゃない。

 「理科室、行く?」
 芽郁が聞くと、瑞生はうなずいた。返事はなくても、足が動いた。
 二人で歩き出す。校庭の土が、靴の裏でぎゅっと鳴る。
 芽郁は月を一度だけ見上げて、すぐ前を向いた。
 静かになった頭で、石碑の平らな面を思い出す。削ったのは、誰だろう。消したかったのは、何だろう。
 考えることが増えたのに、歩幅は乱れなかった。

【続】