第6話 優李亜、ひとりで揃える
十二月上旬の放課後。教室の窓が夕焼けに薄く染まって、机の木目がいつもよりくっきり見えた。
帰りの会が終わると、悟真が鞄を肩にかけながら言った。
「今日、理科室寄る?」
啓恭が即答する。
「寄る。寄って、石に『泣くな』って言う」
芽郁が靴ひもを結び直しながら、冷たく返す。
「言わなくていい。噂、広がったばっかでしょ」
啓恭は「俺じゃない」と言いかけて、昨日の自分を思い出し、喉の奥で止めた。代わりに、ハンカチの角を指でいじって、笑うふりをする。
瑞生はノートを閉じ、鞄に入れる動作だけで答えた。
「優李亜、いない」
芽郁は教室を見回した。優李亜の席は、きれいに片づいている。机の上に忘れ物ひとつない。
啓恭が冗談を足そうとして、芽郁の横顔を見てやめた。悟真が首を傾ける。
「帰った?」
瑞生は短く。
「分からない」
瑞生のペン先が、採点表の端で止まる。書き足したいのに、項目が見つからないみたいな止まり方だ。
芽郁は鞄の持ち手を握り直した。落ち着かない感じが、胸の奥に小さく残る。
別に、誰かがいないだけで焦ることはない。そう思うのに、足が勝手に廊下へ出た。
廊下は、部活帰りの足音が散っていく途中だった。体育館のほうから笛の音が一度だけ響き、すぐに遠ざかる。
芽郁は下駄箱のほうへ向かった――のに、途中で方向を変えた。曲がり角の窓から、図書室の明かりが見えたからだ、と自分に言い聞かせる。
理由なんて、後からいくらでも作れる。今は、体が先に動く。
図書室のドアを開けると、暖房の乾いた匂いと、紙の匂いが混ざって鼻に入った。
「……しーっ」
司書の先生が、指を口に当てる。芽郁は小さく頭を下げ、音を立てないように足を運んだ。
奥の机に、優李亜がいた。
大きな「学校史」と、厚い写真アルバム。さらに、コピー用紙が数枚、端をそろえて積まれている。
優李亜はページをめくる指先だけ動かし、椅子の背は動かさない。机の上の紙が、まっすぐ揃っていて、見ているだけで気持ちが落ち着く。
芽郁が近づくと、優李亜は顔を上げる。声は小さい。
「……来た」
芽郁は言い訳を探して、結局そのまま言った。
「探した。いないから」
優李亜は「うん」とだけうなずき、アルバムを開いたまま、ページの端を軽く押さえた。
写真は、古い色だった。今の新校舎がなくて、校舎裏の花壇がもっと広い。
その花壇の前で、何人かの生徒が身を寄せ合い、夜の空に小さな光が開いている。
花火。冬の夜の、短い火の花。
芽郁は、紙なのに温かく見える光に、指先が止まった。さっきまで冷えていた手が、少しだけ戻るみたいだ。
優李亜が、写真の下の小さな説明文を指でなぞる。
「……昔は、十二月に。ここで、短い花火をしていたそうです」
芽郁は眉を寄せる。
「学校で?」
優李亜は答える代わりに、別の紙を差し出した。コピーだ。写真と説明文が一緒に写っている。角がきれいで、紙が反らない。
「……渡す。必要だと思った」
芽郁は受け取りながら、紙の角を指で整えた。勝手に。優李亜の癖が、うつったみたいに。
芽郁はコピーの端に、小さな鉛筆の丸が付いているのに気づいた。日付のところだ。
「……十二月二十四日」
優李亜は「うん」とだけ言う。声が小さいのに、そこだけ妙に強い。
「なんで、ひとりでやってるの」
芽郁の声が、少しだけ強くなった。怒っているわけじゃない。置いていかれた感じが、うまく言葉にならないだけだ。
優李亜は、机の上の紙をもう一枚重ねて、きっちり揃えた。
「……急ぐと、散る。ひとりだと、散らない」
芽郁はその言い方に、変に納得してしまって、口を閉じた。
司書の先生が遠くで椅子を引く音を立てた。芽郁は反射で肩をすくめる。優李亜は肩をすくめない。
優李亜はアルバムを閉じ、学校史にしおりを挟み直した。表紙の角が、きれいに揃う。
「……理科室。あとで」
それだけ言って立ち上がり、足音を立てずに図書室を出ていった。
残ったのは、芽郁の手の中のコピーと、紙の匂い。
芽郁はその場で、写真をもう一度見た。暗い空に、小さく開く光。
石碑の「火」と繋がる気がして、胸が少しだけ忙しくなる。
面倒だと思うのに、目は離せない。面倒だからこそ、逃げたくなる。逃げたくなるからこそ、止まるわけにいかない。
帰り道。校門の外はもう冷えて、息が白い。
芽郁はコートのポケットから小さなメモ帳を出した。ページを開くと、前に書いた「逃げそうになったら、十分だけやる」が残っている。
芽郁はその下に、もう一行、濃く書いた。
「逃げる前に、十分」
書き終えて、メモ帳を閉じる。誰にも見せないのに、手の中の紙が少しだけ重い。
芽郁はコピーを胸の内側に入れ、冷たい風の中で歩き出した。
理科室の棚の奥の石が、今日の写真と同じ夜を知っている気がした。
【続】
十二月上旬の放課後。教室の窓が夕焼けに薄く染まって、机の木目がいつもよりくっきり見えた。
帰りの会が終わると、悟真が鞄を肩にかけながら言った。
「今日、理科室寄る?」
啓恭が即答する。
「寄る。寄って、石に『泣くな』って言う」
芽郁が靴ひもを結び直しながら、冷たく返す。
「言わなくていい。噂、広がったばっかでしょ」
啓恭は「俺じゃない」と言いかけて、昨日の自分を思い出し、喉の奥で止めた。代わりに、ハンカチの角を指でいじって、笑うふりをする。
瑞生はノートを閉じ、鞄に入れる動作だけで答えた。
「優李亜、いない」
芽郁は教室を見回した。優李亜の席は、きれいに片づいている。机の上に忘れ物ひとつない。
啓恭が冗談を足そうとして、芽郁の横顔を見てやめた。悟真が首を傾ける。
「帰った?」
瑞生は短く。
「分からない」
瑞生のペン先が、採点表の端で止まる。書き足したいのに、項目が見つからないみたいな止まり方だ。
芽郁は鞄の持ち手を握り直した。落ち着かない感じが、胸の奥に小さく残る。
別に、誰かがいないだけで焦ることはない。そう思うのに、足が勝手に廊下へ出た。
廊下は、部活帰りの足音が散っていく途中だった。体育館のほうから笛の音が一度だけ響き、すぐに遠ざかる。
芽郁は下駄箱のほうへ向かった――のに、途中で方向を変えた。曲がり角の窓から、図書室の明かりが見えたからだ、と自分に言い聞かせる。
理由なんて、後からいくらでも作れる。今は、体が先に動く。
図書室のドアを開けると、暖房の乾いた匂いと、紙の匂いが混ざって鼻に入った。
「……しーっ」
司書の先生が、指を口に当てる。芽郁は小さく頭を下げ、音を立てないように足を運んだ。
奥の机に、優李亜がいた。
大きな「学校史」と、厚い写真アルバム。さらに、コピー用紙が数枚、端をそろえて積まれている。
優李亜はページをめくる指先だけ動かし、椅子の背は動かさない。机の上の紙が、まっすぐ揃っていて、見ているだけで気持ちが落ち着く。
芽郁が近づくと、優李亜は顔を上げる。声は小さい。
「……来た」
芽郁は言い訳を探して、結局そのまま言った。
「探した。いないから」
優李亜は「うん」とだけうなずき、アルバムを開いたまま、ページの端を軽く押さえた。
写真は、古い色だった。今の新校舎がなくて、校舎裏の花壇がもっと広い。
その花壇の前で、何人かの生徒が身を寄せ合い、夜の空に小さな光が開いている。
花火。冬の夜の、短い火の花。
芽郁は、紙なのに温かく見える光に、指先が止まった。さっきまで冷えていた手が、少しだけ戻るみたいだ。
優李亜が、写真の下の小さな説明文を指でなぞる。
「……昔は、十二月に。ここで、短い花火をしていたそうです」
芽郁は眉を寄せる。
「学校で?」
優李亜は答える代わりに、別の紙を差し出した。コピーだ。写真と説明文が一緒に写っている。角がきれいで、紙が反らない。
「……渡す。必要だと思った」
芽郁は受け取りながら、紙の角を指で整えた。勝手に。優李亜の癖が、うつったみたいに。
芽郁はコピーの端に、小さな鉛筆の丸が付いているのに気づいた。日付のところだ。
「……十二月二十四日」
優李亜は「うん」とだけ言う。声が小さいのに、そこだけ妙に強い。
「なんで、ひとりでやってるの」
芽郁の声が、少しだけ強くなった。怒っているわけじゃない。置いていかれた感じが、うまく言葉にならないだけだ。
優李亜は、机の上の紙をもう一枚重ねて、きっちり揃えた。
「……急ぐと、散る。ひとりだと、散らない」
芽郁はその言い方に、変に納得してしまって、口を閉じた。
司書の先生が遠くで椅子を引く音を立てた。芽郁は反射で肩をすくめる。優李亜は肩をすくめない。
優李亜はアルバムを閉じ、学校史にしおりを挟み直した。表紙の角が、きれいに揃う。
「……理科室。あとで」
それだけ言って立ち上がり、足音を立てずに図書室を出ていった。
残ったのは、芽郁の手の中のコピーと、紙の匂い。
芽郁はその場で、写真をもう一度見た。暗い空に、小さく開く光。
石碑の「火」と繋がる気がして、胸が少しだけ忙しくなる。
面倒だと思うのに、目は離せない。面倒だからこそ、逃げたくなる。逃げたくなるからこそ、止まるわけにいかない。
帰り道。校門の外はもう冷えて、息が白い。
芽郁はコートのポケットから小さなメモ帳を出した。ページを開くと、前に書いた「逃げそうになったら、十分だけやる」が残っている。
芽郁はその下に、もう一行、濃く書いた。
「逃げる前に、十分」
書き終えて、メモ帳を閉じる。誰にも見せないのに、手の中の紙が少しだけ重い。
芽郁はコピーを胸の内側に入れ、冷たい風の中で歩き出した。
理科室の棚の奥の石が、今日の写真と同じ夜を知っている気がした。
【続】


