第5話 泣き虫の噂
十二月上旬の昼休み。白月中学校の中庭を抜ける風が冷たくて、校舎の影は昼でも青い。
中庭の植え込みに残った霜が、誰かの足音でぱらぱら落ちた。噂はそれと同じで、踏まれた瞬間に形を変える。芽郁は聞こえてくる「泣くらしい」を、耳で拾わないようにして、代わりに時計の針だけを見た。
廊下の窓に映る自分の顔が、妙に青く見える。冬の光のせいだと分かっていても、胸の奥がざらつく。悟真のスニーカーが床をこする音が近づくと、芽郁はわざとノートを開いて、視線の居場所を紙の上に作った。
瑞生たちは、理科室の棚の奥に隠した石碑のことを、できるだけ口にしないで過ごしていた――はずだった。
「ねえ、知ってる? 校舎裏の石、泣くらしいよ」
一年の女の子が、手袋の指先をこすりながら言う。
「泣くって、石が?」
隣の子が目を丸くすると、別の子が得意げに続けた。
「夜になると、しょんぼりして……水が出るんだって!」
その会話を、廊下の角で啓恭が聞いた。
啓恭は、止めるより先に、口が動く。
「それ、たぶん俺が泣かした」
言った瞬間、芽郁の視線が飛んできた。啓恭は笑ってごまかすように、手をひらひらさせる。
「冗談冗談! でも、石が泣くって、面白くない? 昼休みの余興に――」
「余興って言うな」
芽郁が小声で刺す。啓恭は「はい」と返事だけはいい。
ところが啓恭の「冗談」は、冗談のまま終わらなかった。
昼休みの終わりが近づくころ、校舎裏へ向かう生徒が、いつもより増えた。二年も三年も、何人かが「見に行こうぜ」と笑っている。
悟真が窓からそれを見つけ、眉を寄せた。
「やばい。人が集まってる」
瑞生はノートを開き、視線を落として書く。
「人だかり(危険度七)」
芽郁は「だよね」とだけ言って、椅子を引いた。
校舎裏の近道は、落ち葉の道だけじゃなくなっていた。人の靴で踏まれて、土が見えている。そこに、ひそひそ声と、好奇心の熱が溜まっている。
「どれが泣く石?」
「ほんとに泣くの?」
啓恭は、みんなの顔を見て、笑ってしまいそうになった。いつもなら、ここで一発、盛り上げる。
けれど、芽郁が横で腕を組み、悟真が周りの出入り口を目で数えている。瑞生は一言も言わずに、地面の状態だけを見ていた。
啓恭の喉の奥が、少しだけ乾く。
そのとき、見回りの先生の声が飛んだ。
「お前ら、何してる!」
人の列が、波みたいに揺れる。二年の誰かが「ただ見に」と言いかけて黙る。
先生が啓恭を見つけた。なぜか、こういうときは目立つ。
「啓恭。お前、また変なことを広めたのか」
啓恭は反射で笑った。
「先生、これは都市伝説で――」
先生の眉が動く。
「責任を取れるのか。誰かがケガをしたらどうする」
その言葉で、啓恭の笑いが一瞬だけ止まった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。冗談で済ませてきたことが、急に重くなる。
目が熱い。まぶたの裏が、勝手にじんとする。
啓恭は慌てて、口角を上げた。
「大丈夫です! ケガしない伝説にします!」
声は明るい。なのに、最後の一音が少しだけ震えた。
芽郁は言いかけた。「やめなよ」でも、「謝りなよ」でもない。どれも違う気がして、言葉が喉で止まった。
代わりに、悟真が一歩前に出た。
「先生。ここ、滑ります。見物すると危ないです。戻った方がいい」
いつもの悟真より、声が落ち着いている。先生の目が悟真に移る。
瑞生は先生の横に立ち、ノートを閉じた。
「人、散らします」
短いのに、嘘がない言い方だった。
優李亜が後ろから静かに近づき、何も言わずに、啓恭の袖を指でつまんだ。引っ張るのではなく、そこにいると示すだけの触れ方。
先生はため息をついた。
「……分かった。今すぐ戻れ。次に同じことが起きたら、教頭に話す」
「はい」
瑞生が先に返事をする。悟真が生徒の列へ向けて手を振り、「戻ろう」と落ち着いた声で促す。芽郁は、通り道の落ち葉を足でならして、滑りそうな場所を減らす。優李亜は最後尾で、遅れる子に小さく「こっち」と指さす。
人だかりがほどけていく。先生の靴音が遠ざかったころ、啓恭はようやく息を吐いた。
啓恭は笑おうとした。いつもの笑いで、全部なかったことにしたかった。
でも、喉がつかえて、うまく鳴らない。
啓恭は顔をそむけ、鼻をすすりそうになって、慌てて咳払いをした。
「……ほら。石が泣くんじゃなくて、俺が――」
最後まで言えない。
芽郁が、啓恭の目の前にハンカチを差し出した。派手じゃない白い布。
「……顔、冷えるよ」
啓恭は一瞬きょとんとして、受け取った。
「芽郁、優しい。俺、今、感動――」
芽郁が目だけで切る。
「十分だけ、黙って」
啓恭は、ハンカチで目の端をこすって、なかったことにするみたいに笑った。
「はい……」
瑞生は、啓恭の欄のあるページを開き、ペンで小さな丸を一つ付けた。
悟真が覗き込む。
「それ、何点?」
瑞生は少し考える。
「……反省。ある」
芽郁は「点数にするな」と言いながら、さっき自分が出したハンカチの折り目を、指で整えた。
昼休みの終わりの予鈴が鳴る。
啓恭はハンカチを返しながら、いつもの調子に戻ろうとして、少しだけ慎重に言った。
「……俺、次は、人を集めない笑いにする」
芽郁は「そうして」と短く返した。
瑞生はうなずいて、ノートの端に書く。
「啓恭(ブレーキ) 芽郁(貸す)」
石碑は棚の奥で、何も言わずに冷えたままだ。
でも今日、泣きそうになったのは石じゃない。
それを、誰もからかわなかったことが、啓恭の胸に小さく残った。
【続】
十二月上旬の昼休み。白月中学校の中庭を抜ける風が冷たくて、校舎の影は昼でも青い。
中庭の植え込みに残った霜が、誰かの足音でぱらぱら落ちた。噂はそれと同じで、踏まれた瞬間に形を変える。芽郁は聞こえてくる「泣くらしい」を、耳で拾わないようにして、代わりに時計の針だけを見た。
廊下の窓に映る自分の顔が、妙に青く見える。冬の光のせいだと分かっていても、胸の奥がざらつく。悟真のスニーカーが床をこする音が近づくと、芽郁はわざとノートを開いて、視線の居場所を紙の上に作った。
瑞生たちは、理科室の棚の奥に隠した石碑のことを、できるだけ口にしないで過ごしていた――はずだった。
「ねえ、知ってる? 校舎裏の石、泣くらしいよ」
一年の女の子が、手袋の指先をこすりながら言う。
「泣くって、石が?」
隣の子が目を丸くすると、別の子が得意げに続けた。
「夜になると、しょんぼりして……水が出るんだって!」
その会話を、廊下の角で啓恭が聞いた。
啓恭は、止めるより先に、口が動く。
「それ、たぶん俺が泣かした」
言った瞬間、芽郁の視線が飛んできた。啓恭は笑ってごまかすように、手をひらひらさせる。
「冗談冗談! でも、石が泣くって、面白くない? 昼休みの余興に――」
「余興って言うな」
芽郁が小声で刺す。啓恭は「はい」と返事だけはいい。
ところが啓恭の「冗談」は、冗談のまま終わらなかった。
昼休みの終わりが近づくころ、校舎裏へ向かう生徒が、いつもより増えた。二年も三年も、何人かが「見に行こうぜ」と笑っている。
悟真が窓からそれを見つけ、眉を寄せた。
「やばい。人が集まってる」
瑞生はノートを開き、視線を落として書く。
「人だかり(危険度七)」
芽郁は「だよね」とだけ言って、椅子を引いた。
校舎裏の近道は、落ち葉の道だけじゃなくなっていた。人の靴で踏まれて、土が見えている。そこに、ひそひそ声と、好奇心の熱が溜まっている。
「どれが泣く石?」
「ほんとに泣くの?」
啓恭は、みんなの顔を見て、笑ってしまいそうになった。いつもなら、ここで一発、盛り上げる。
けれど、芽郁が横で腕を組み、悟真が周りの出入り口を目で数えている。瑞生は一言も言わずに、地面の状態だけを見ていた。
啓恭の喉の奥が、少しだけ乾く。
そのとき、見回りの先生の声が飛んだ。
「お前ら、何してる!」
人の列が、波みたいに揺れる。二年の誰かが「ただ見に」と言いかけて黙る。
先生が啓恭を見つけた。なぜか、こういうときは目立つ。
「啓恭。お前、また変なことを広めたのか」
啓恭は反射で笑った。
「先生、これは都市伝説で――」
先生の眉が動く。
「責任を取れるのか。誰かがケガをしたらどうする」
その言葉で、啓恭の笑いが一瞬だけ止まった。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。冗談で済ませてきたことが、急に重くなる。
目が熱い。まぶたの裏が、勝手にじんとする。
啓恭は慌てて、口角を上げた。
「大丈夫です! ケガしない伝説にします!」
声は明るい。なのに、最後の一音が少しだけ震えた。
芽郁は言いかけた。「やめなよ」でも、「謝りなよ」でもない。どれも違う気がして、言葉が喉で止まった。
代わりに、悟真が一歩前に出た。
「先生。ここ、滑ります。見物すると危ないです。戻った方がいい」
いつもの悟真より、声が落ち着いている。先生の目が悟真に移る。
瑞生は先生の横に立ち、ノートを閉じた。
「人、散らします」
短いのに、嘘がない言い方だった。
優李亜が後ろから静かに近づき、何も言わずに、啓恭の袖を指でつまんだ。引っ張るのではなく、そこにいると示すだけの触れ方。
先生はため息をついた。
「……分かった。今すぐ戻れ。次に同じことが起きたら、教頭に話す」
「はい」
瑞生が先に返事をする。悟真が生徒の列へ向けて手を振り、「戻ろう」と落ち着いた声で促す。芽郁は、通り道の落ち葉を足でならして、滑りそうな場所を減らす。優李亜は最後尾で、遅れる子に小さく「こっち」と指さす。
人だかりがほどけていく。先生の靴音が遠ざかったころ、啓恭はようやく息を吐いた。
啓恭は笑おうとした。いつもの笑いで、全部なかったことにしたかった。
でも、喉がつかえて、うまく鳴らない。
啓恭は顔をそむけ、鼻をすすりそうになって、慌てて咳払いをした。
「……ほら。石が泣くんじゃなくて、俺が――」
最後まで言えない。
芽郁が、啓恭の目の前にハンカチを差し出した。派手じゃない白い布。
「……顔、冷えるよ」
啓恭は一瞬きょとんとして、受け取った。
「芽郁、優しい。俺、今、感動――」
芽郁が目だけで切る。
「十分だけ、黙って」
啓恭は、ハンカチで目の端をこすって、なかったことにするみたいに笑った。
「はい……」
瑞生は、啓恭の欄のあるページを開き、ペンで小さな丸を一つ付けた。
悟真が覗き込む。
「それ、何点?」
瑞生は少し考える。
「……反省。ある」
芽郁は「点数にするな」と言いながら、さっき自分が出したハンカチの折り目を、指で整えた。
昼休みの終わりの予鈴が鳴る。
啓恭はハンカチを返しながら、いつもの調子に戻ろうとして、少しだけ慎重に言った。
「……俺、次は、人を集めない笑いにする」
芽郁は「そうして」と短く返した。
瑞生はうなずいて、ノートの端に書く。
「啓恭(ブレーキ) 芽郁(貸す)」
石碑は棚の奥で、何も言わずに冷えたままだ。
でも今日、泣きそうになったのは石じゃない。
それを、誰もからかわなかったことが、啓恭の胸に小さく残った。
【続】


