冬の花火、上げます。――無口な瑞生と男子たちのメリークリスマス

第20話 黒塗りの向こう、言葉が残る 
 
 十二月二十四日、放課後。校舎裏の花火が終わって、片づけの時間になった。バケツの水はぬるくなり、濡らした砂利道は黒いまま光っている。ロープの内側には焦げた紙片ひとつ落ちていない。用務員さんが「よしよし」と小さく笑い、体育の先生が杭を一本ずつ抜いていった。
 耳の奥に残った「ぱちっ」という小さな音が、まだ消えない。さっきまで空に散っていた光が、目を閉じると瞼の裏で遅れて弾ける。芽郁はバケツの縁に指先を当て、冷たさを確かめた。冷たい――だから、今の温かさは、たぶん自分の中から出ている。

 片づけの合間、誰も大声を出さない。声を出さなくても、さっきの十分が、まだ全員の胸の中で続いているみたいだった。悟真がロープの結び目をほどく指を見て、啓恭は余計なことを言いかけて飲み込む。瑞生は採点表を閉じる前に、一度だけ紙面を撫でた。優李亜は封筒の角を揃え、便箋のにじみを、そっと避ける。


 芽郁は軍手のまま、ロープの結び目をほどく。指がかじかんでうまくほどけないのに、さっきまでの怖さは戻ってこない。
 悟真が隣で言う。
 「最後まで走らない。走ると散る」
 啓恭が「俺、今夜だけは走らない」と言って、ゆっくり歩幅を合わせた。口が開きそうになるたびに、片手で口元を押さえる。二回の男は、もう三回目を怖がっている。

 片づけが終わるころ、優李亜が鞄から古い封筒を出した。紙が黄ばんでいて、角が少しだけ丸い。透明ファイルの中で、きっちり守られていたやつだ。
 優李亜は封筒を両手で持ち、芽郁の前に差し出す。
 「……これ。中。読んで」
 芽郁は受け取って、封の端をそっとめくった。破れないように、息を止める。
 中から出てきたのは、便箋一枚。字がきれいで、行がまっすぐ。けれど、最後の数行だけがにじんでいる。涙の跡みたいに。
 紙は冷たいのに、にじんだところだけ、誰かの手の温度が残っているように見えた。

 瑞生が紙を覗き込み、短く言った。
 「……同じ字」
 瑞生は言いながら、目を細めた。泣いた跡のにじみの部分だけ、指でなぞらないように、そっと避ける。触れたら、文字が消えてしまいそうだったから。
 啓恭はいつもの調子で何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、胸ポケットのメモを握りしめる。悟真は息を吐いて、吐いた白い息がすぐ消えるのを見ていた。

 石碑の写真に写っていた字の癖と、校内新聞の見出しの癖。どこか似ている。
 啓恭が飲み込み損ねた息を、鼻から出した。
 「え、これ……あの日の子の?」
 優李亜は頷き、視線を落としたまま言う。
 「……母の。中学生のときの」

 芽郁は、指先が少し震えた。校内新聞の黒塗り。石碑の削れた面。『安全のため 中止』。全部が、一人の人の手につながる。
 悟真が声を落として聞く。
 「どうして、今まで言わなかった?」
 優李亜は封筒の端を指で揃えてから答えた。
 「……恥ずかしい。ずっと、家でだけ読んでた。誰かに見せたら、母がまた泣く気がした」

 啓恭が小さく笑って、すぐ唇を噛んだ。
 「泣くの、悪くないのにな」
 芽郁が便箋を読み上げる。声は震えているのに、途中で止めない。

 『十二月二十四日の放課後に、花壇の横で小さな花火をしたいと思いました。
 驚かせたいんじゃなくて、笑ってほしかった。
 でも勝手にやるのはだめだと分かりました。
 止められて、怖くなって、石に刻んだ言葉も削りました。
 泣き虫でごめんなさい。来年の自分へ、もう少しだけ強くなれますように。』

 便箋のいちばん下に、石碑の断片と同じ順番で、三つの短い文が並んでいた。
 芽郁はそこを読んで、息を吸った。

 『月ばかり見ていた。冬の花火、上げます。メリークリスマス!』

 啓恭が、今度はごまかさずに鼻をすすった。
 「……それ、俺に刺さる」
 芽郁が言う。
 「刺さるなら、ちゃんとしまえ。鼻水」
 啓恭が「はい」と言って、軍手で鼻を押さえた。優李亜が無言でハンカチを差し出し、啓恭が一礼して受け取る。礼が妙に丁寧で、悟真が肩を揺らした。

 瑞生が石碑のほうへ歩き、削られた面をじっと見た。何も言わない。けれど、指の腹で空気をなぞるように文字の並びを想像している。
 悟真が言った。
 「これ、戻せないかな。削れたままでもいいけど、言葉が無いのは……もったいない」
 芽郁は即答できなかった。勝手に何かを足すのは怖い。けれど、勝手に消すのも、もう見た。
 優李亜が、やっと顔を上げる。
 「……母が、戻したかったと思う。だから、封筒、持ってきた」

 用務員さんが近づいてきて、便箋をちらりと見た。
 「……ああ。あの子の字だ」
 用務員さんは、腰のポケットから小さな木札を取り出した。校内の植木に付ける名札らしい。裏は空白。
 「石は削れたままでいい。だが、言葉は別の形で残せる」
 そして、古いペンを一本差し出す。
 「書け。字が違ってもいい。今の手で」

 芽郁の胸がどくんと鳴った。逃げたくなる。けれど、逃げる前の十分は、もう今日使った。
 芽郁は木札を受け取り、便箋の最後の文を見てから、ゆっくり書き写した。
 『月ばかり見ていた。冬の花火、上げます。メリークリスマス!』
 途中で線がぶれそうになって、息を吐いて持ち直す。最後の句点を打ったとき、肩の力が抜けた。

 啓恭が「俺も書く」と言いかけて、優李亜に「……だめ」と止められた。
 啓恭が口を尖らせる。
 「なんで」
 優李亜は短く言う。
 「……字が踊る」
 悟真が吹き出して、「それは否定できない」と肩を叩いた。

 瑞生が木札を受け取り、下に小さく足した。文字は短い。
 『手順で守る。』
 芽郁が思わず見上げると、瑞生は木札から目を離さずに言った。
 「今日、できた」
 それだけで、胸が少しだけ温かくなる。

 用務員さんが針金で木札を石碑の横の支柱に結びつけた。結び目は、昨日のほどけかけとは違う。きゅっと締まって、風に揺れてもほどけない。
 悟真が結び目を見て、笑った。
 「結び直したな」
 啓恭が「俺の好感度も結び直したい」と言いかけて、芽郁に「黙れ」と言われ、すぐ口を閉じた。今日は素直に閉じた。

 帰り道、校舎裏の暗さの中で木札の文字が小さく揺れた。花火みたいに派手じゃない。けれど、消えない。
 優李亜がぽつりと言った。
 「……母に、見せる」
 芽郁が頷く。
 「見せて。泣いたら、泣いたでいい」
 啓恭がすぐ言う。
 「泣くなら終わってから――」
 優李亜が「……三回目」と言い、啓恭が両手で口を押さえた。悟真が声を出して笑い、芽郁も笑ってしまった。瑞生は笑わないけれど、月を一度だけ見上げて、歩幅をそろえた。

 瑞生は鞄から採点表を出し、最後の空欄に短く書いた。
 『今日、満点』
 見せびらかさない。けれど、紙を閉じる指先が少しだけ速い。
 悟真が「じゃあ、帰ろう」と言い、五人は校門へ向かった。

 薄い月は、冬の空にちゃんといた。
 芽郁は隣の瑞生に、小さく言う。
 「ねえ、私も……月にする。うるさい頭、静かにしたいとき」
 瑞生は返事の代わりに、歩幅をほんの少しだけ揃えた。

 校舎裏の風が、木札をひとつ揺らす。
 ――「メリークリスマス!」

【完】