第19話 冬と花火、空に開く
十二月二十四日、放課後。日が沈みきる少し前の校舎裏は、空が青と灰色の間で止まっていた。花壇のまわりには安全ロープが張られ、杭の影が細く伸びる。先生と保護者が等間隔に立ち、手袋の上からも寒さが伝わる。用務員さんは端でバケツを二つ並べ、雑巾で地面をさっと湿らせていた。
遠くで部活の掛け声がまだ聞こえるのに、ロープの内側だけは別の空気だった。火薬の匂いはまだ無い。代わりに湿った土と、濡れた雑巾の匂い。芽郁はその匂いで、ここが「遊び」じゃなく「約束」になったのを実感した。
見守りの大人たちの視線が、ひとつひとつ重さを持って届く。けれど、その重さは止めるためじゃなく、落とさないための重さだと、芽郁は思い直した。瑞生が結び目を押す指先は、急がない。悟真は声を落として順番を言い、啓恭は返事を飲み込んで、代わりに手を挙げた。優李亜は説明の紙を胸に当て、言葉の粒を落とさないように、短く話した。
芽郁は、チェック表を指で押さえながら、息を吐いた。
「……風、弱い」
さっき屋上で見た数字より低い。枝の揺れも落ち着いている。濡らした砂利道は黒く光って、火の粉が飛びにくい色をしていた。
悟真が周囲へ視線を配り、落ち着いた声で言う。
「ロープ、最初に確認。結び目、全員で見る」
啓恭が「はいっ」と言いかけて、口を押さえた。二回の男は、ここぞという場面で黙る練習中だ。
優李亜が保護者の方へ歩いていき、紙を差し出しながら、短く、丁寧に説明する。
「……時間は十分。手持ちと噴出だけ。打ち上げは、しません」
言い方が落ち着いているから、聞いている大人の肩も少し下がる。
瑞生は表情を変えずに、採点表を開いた。そこに新しく増えた項目がある。
「当日(ロープ再確認、開始)」
瑞生は小さく読み上げ、結び目を一つずつ指の腹で押していく。押し方がやけに静かで、見守る大人まで声を落とす。
啓恭が結び目の前で止まり、芽郁をちらりと見た。
芽郁は目で言う。
「図、覚えた?」
啓恭はうなずき、今日はふざけない。ロープの端を整えて、きゅっと締め直した。昨日の「ほどけかけ」が、今日は「ほどけない」に変わる。
担任が手を叩いた。
「じゃあ、始めます。火は怖い。怖いまま、手順で守る」
その言い方が、芽郁の胸の奥を少しだけ温めた。怖いままでも、やっていい。逃げなくてもいい。
花壇の端に、小さな石碑が置かれている。削られた面は相変わらず平らで、蛍光灯じゃなく夕方の光を冷たく返していた。
瑞生がその石碑を一度だけ見て、空へ視線を上げる。月はまだ薄い。見つけにくい。けれど、瑞生は探さないみたいに見上げた。そこにあるものを、ただ確認するみたいに。
点火役は先生が担い、瑞生たちは補助につく。悟真が声を落として言う。
「火をつける人は一人。周りは下がる。走らない」
芽郁は思わず頷いてしまい、すぐ自分に腹が立って、けれど腹が立つ前に足が動く。ロープの外側へ、全員が一歩下がる。
啓恭が、どうしても黙りきれずに小声で言った。
「……この感じ、映画の最後」
芽郁が小声で返す。
「最後じゃない。十分」
啓恭が「十分で泣ける映画もある」と言い、優李亜が「……三回目」と小さく呟いた。啓恭がまた口を押さえる。芽郁の口角が少しだけ上がった。
先生が噴出花火に火を近づけた。しゅっ、と小さな音。
次の瞬間、白い火花が扇みたいに開き、ぱちぱちと乾いた音が夜へ上がった。光がロープの内側を照らし、みんなの頬が一瞬だけ明るくなる。
遅れて、甘い火薬の匂いが風に乗って届き、冷えた指先が一瞬だけ温まった気がした。
芽郁は、反射で空を見た。月を探す癖が、今日だけは助けになる。薄い月が、火花の向こうにかすかに浮いていた。
「……いた」
声が漏れて、啓恭が「月、いた!」と大声で言いかける。
担任がすぐに啓恭の肩を軽く押して、口元へ指を当てた。
「小声」
啓恭は頷き、口を結ぶ。目だけがきらきらしている。
次は手持ち花火。一本ずつ配り、火をつける。用務員さんが「火花は人へ向けるなよ」と言い、保護者が「分かりました」と頷く。
悟真が、落ち着いた声で繰り返す。
「先端、下。走らない。終わったらバケツ」
いつもの悟真は走るのが早いのに、今日の悟真は言葉の順番が正しい。
火がついた花火は、小さな星みたいに手の先で弾けた。ぱちぱち、と音がそろって、校舎裏の風の音より前に出る。
優李亜が、保護者の方へ一歩寄って、短く言う。
「……終わったら、砂利に押しつけないで。バケツ」
その言い方がやさしくて、命令じゃないのに守りたくなる。
啓恭は、花火を持ちながら、泣きそうな顔で笑った。
「俺、今、泣かない。泣いたら火が揺れる」
芽郁が即座に言う。
「泣くなら終わってから」
啓恭が「終わってから泣くのは、計画的で難しい」と言い、芽郁が「難しいなら黙れ」と返す。悟真が声を出さずに肩を揺らし、優李亜がほんの少しだけ目を細めた。瑞生は笑わない。でも、採点表の端に小さな丸が増えた。
十分は短い。短いのに、光の回数が多い。
最後の一本が消え、バケツの水が小さく揺れた。用務員さんが「よし」と言い、担任が「終わり」と手を下げる。
空気が一気に静かになって、代わりに胸の中が少しだけうるさい。
耳の奥にはまだ小さな音が残り、息を吸うと薄い煙の気配が分かった。
芽郁は石碑のほうへ目を向けた。
削られた面は、もう「消されたもの」だけじゃない気がした。
今日の光は、誰かの合図じゃなかった。誰かが勝手に始めた危ない遊びでもなかった。
「冬の花火、上げます」
その言葉が、誰かの宣言として腹に落ちる。怖いままでも、言っていい。やっていい。手順を守れば。守りながらなら。
瑞生が、月を見上げたまま言った。
「……届いた」
啓恭がその一言に、鼻をすすりそうになって、すぐ笑ってごまかした。
「届いたなら、俺の好感度も届いた?」
芽郁が即座に返す。
「届いてない。バケツ運べ」
啓恭が「はいっ」と言って、走りそうになり、悟真に肩を押さえられた。
「走らない」
啓恭は両手を上げて、ゆっくり歩いた。ゆっくり歩けるだけで、今日は合格な気がした。
優李亜は、鞄の中の透明ファイルをそっと押さえた。中に、古い封筒が一つ入っているのを芽郁だけがちらりと見てしまう。
芽郁は何も聞かない。聞かないけれど、胸が少しだけ高鳴る。
明日じゃない。今夜でもない。
でも、もうすぐ、石碑の一文は完成する。
【続】
十二月二十四日、放課後。日が沈みきる少し前の校舎裏は、空が青と灰色の間で止まっていた。花壇のまわりには安全ロープが張られ、杭の影が細く伸びる。先生と保護者が等間隔に立ち、手袋の上からも寒さが伝わる。用務員さんは端でバケツを二つ並べ、雑巾で地面をさっと湿らせていた。
遠くで部活の掛け声がまだ聞こえるのに、ロープの内側だけは別の空気だった。火薬の匂いはまだ無い。代わりに湿った土と、濡れた雑巾の匂い。芽郁はその匂いで、ここが「遊び」じゃなく「約束」になったのを実感した。
見守りの大人たちの視線が、ひとつひとつ重さを持って届く。けれど、その重さは止めるためじゃなく、落とさないための重さだと、芽郁は思い直した。瑞生が結び目を押す指先は、急がない。悟真は声を落として順番を言い、啓恭は返事を飲み込んで、代わりに手を挙げた。優李亜は説明の紙を胸に当て、言葉の粒を落とさないように、短く話した。
芽郁は、チェック表を指で押さえながら、息を吐いた。
「……風、弱い」
さっき屋上で見た数字より低い。枝の揺れも落ち着いている。濡らした砂利道は黒く光って、火の粉が飛びにくい色をしていた。
悟真が周囲へ視線を配り、落ち着いた声で言う。
「ロープ、最初に確認。結び目、全員で見る」
啓恭が「はいっ」と言いかけて、口を押さえた。二回の男は、ここぞという場面で黙る練習中だ。
優李亜が保護者の方へ歩いていき、紙を差し出しながら、短く、丁寧に説明する。
「……時間は十分。手持ちと噴出だけ。打ち上げは、しません」
言い方が落ち着いているから、聞いている大人の肩も少し下がる。
瑞生は表情を変えずに、採点表を開いた。そこに新しく増えた項目がある。
「当日(ロープ再確認、開始)」
瑞生は小さく読み上げ、結び目を一つずつ指の腹で押していく。押し方がやけに静かで、見守る大人まで声を落とす。
啓恭が結び目の前で止まり、芽郁をちらりと見た。
芽郁は目で言う。
「図、覚えた?」
啓恭はうなずき、今日はふざけない。ロープの端を整えて、きゅっと締め直した。昨日の「ほどけかけ」が、今日は「ほどけない」に変わる。
担任が手を叩いた。
「じゃあ、始めます。火は怖い。怖いまま、手順で守る」
その言い方が、芽郁の胸の奥を少しだけ温めた。怖いままでも、やっていい。逃げなくてもいい。
花壇の端に、小さな石碑が置かれている。削られた面は相変わらず平らで、蛍光灯じゃなく夕方の光を冷たく返していた。
瑞生がその石碑を一度だけ見て、空へ視線を上げる。月はまだ薄い。見つけにくい。けれど、瑞生は探さないみたいに見上げた。そこにあるものを、ただ確認するみたいに。
点火役は先生が担い、瑞生たちは補助につく。悟真が声を落として言う。
「火をつける人は一人。周りは下がる。走らない」
芽郁は思わず頷いてしまい、すぐ自分に腹が立って、けれど腹が立つ前に足が動く。ロープの外側へ、全員が一歩下がる。
啓恭が、どうしても黙りきれずに小声で言った。
「……この感じ、映画の最後」
芽郁が小声で返す。
「最後じゃない。十分」
啓恭が「十分で泣ける映画もある」と言い、優李亜が「……三回目」と小さく呟いた。啓恭がまた口を押さえる。芽郁の口角が少しだけ上がった。
先生が噴出花火に火を近づけた。しゅっ、と小さな音。
次の瞬間、白い火花が扇みたいに開き、ぱちぱちと乾いた音が夜へ上がった。光がロープの内側を照らし、みんなの頬が一瞬だけ明るくなる。
遅れて、甘い火薬の匂いが風に乗って届き、冷えた指先が一瞬だけ温まった気がした。
芽郁は、反射で空を見た。月を探す癖が、今日だけは助けになる。薄い月が、火花の向こうにかすかに浮いていた。
「……いた」
声が漏れて、啓恭が「月、いた!」と大声で言いかける。
担任がすぐに啓恭の肩を軽く押して、口元へ指を当てた。
「小声」
啓恭は頷き、口を結ぶ。目だけがきらきらしている。
次は手持ち花火。一本ずつ配り、火をつける。用務員さんが「火花は人へ向けるなよ」と言い、保護者が「分かりました」と頷く。
悟真が、落ち着いた声で繰り返す。
「先端、下。走らない。終わったらバケツ」
いつもの悟真は走るのが早いのに、今日の悟真は言葉の順番が正しい。
火がついた花火は、小さな星みたいに手の先で弾けた。ぱちぱち、と音がそろって、校舎裏の風の音より前に出る。
優李亜が、保護者の方へ一歩寄って、短く言う。
「……終わったら、砂利に押しつけないで。バケツ」
その言い方がやさしくて、命令じゃないのに守りたくなる。
啓恭は、花火を持ちながら、泣きそうな顔で笑った。
「俺、今、泣かない。泣いたら火が揺れる」
芽郁が即座に言う。
「泣くなら終わってから」
啓恭が「終わってから泣くのは、計画的で難しい」と言い、芽郁が「難しいなら黙れ」と返す。悟真が声を出さずに肩を揺らし、優李亜がほんの少しだけ目を細めた。瑞生は笑わない。でも、採点表の端に小さな丸が増えた。
十分は短い。短いのに、光の回数が多い。
最後の一本が消え、バケツの水が小さく揺れた。用務員さんが「よし」と言い、担任が「終わり」と手を下げる。
空気が一気に静かになって、代わりに胸の中が少しだけうるさい。
耳の奥にはまだ小さな音が残り、息を吸うと薄い煙の気配が分かった。
芽郁は石碑のほうへ目を向けた。
削られた面は、もう「消されたもの」だけじゃない気がした。
今日の光は、誰かの合図じゃなかった。誰かが勝手に始めた危ない遊びでもなかった。
「冬の花火、上げます」
その言葉が、誰かの宣言として腹に落ちる。怖いままでも、言っていい。やっていい。手順を守れば。守りながらなら。
瑞生が、月を見上げたまま言った。
「……届いた」
啓恭がその一言に、鼻をすすりそうになって、すぐ笑ってごまかした。
「届いたなら、俺の好感度も届いた?」
芽郁が即座に返す。
「届いてない。バケツ運べ」
啓恭が「はいっ」と言って、走りそうになり、悟真に肩を押さえられた。
「走らない」
啓恭は両手を上げて、ゆっくり歩いた。ゆっくり歩けるだけで、今日は合格な気がした。
優李亜は、鞄の中の透明ファイルをそっと押さえた。中に、古い封筒が一つ入っているのを芽郁だけがちらりと見てしまう。
芽郁は何も聞かない。聞かないけれど、胸が少しだけ高鳴る。
明日じゃない。今夜でもない。
でも、もうすぐ、石碑の一文は完成する。
【続】


