第18話 結び目の確認、逃げない
十二月二十三日。放課後の校舎裏は、日が落ちるのが早く、花壇の土が黒く見えた。雑木林の向こうで風が鳴り、枯れ葉が足元をころころ転がる。
悟真がロープの束を肩にかけて言う。
「今日、区切り作る。ここで失敗したら、明日が来ない」
啓恭が口を開きかけて、すぐ閉じた。二回の男の顔を作っている。
芽郁は軍手を手に取った。指先の布が少しだけ湿っていて、冷たい。面倒くさい、と心の中で言ってから、ポケットのメモ帳を握る。
逃げる前に、十分。
その十分が、今日も自分の背中を押す。
瑞生はノートを開き、静かに確認した。
「ロープ。杭。札。バケツの位置。消火器の位置」
優李亜が透明ファイルから地図のコピーを出し、花壇の横に立って、紙と地面を見比べる。紙の端を揃える動きが、寒さの中でも崩れない。
五人でロープを張った。杭を打つ音が、冬の空気に乾いた。
悟真が走り出しそうな勢いで杭を打って、芽郁がすぐ言う。
「走るな。手が滑る」
悟真は「……はい」と言って、足を止めた。止めた足が、ちゃんと重い。
啓恭がロープの端を持ち、結び方を見せようとした。
「俺、結び目には自信ある」
芽郁が眉を寄せる。
「その自信、根拠ある?」
啓恭は一瞬だけ詰まって、笑いかけた。笑いかけて、やめた。
「……ない」
優李亜が小さく言う。
「……見本」
優李亜はファイルから、図入りの結び方の紙を出した。体育の先生が用意してくれたものだ。図がはっきりしていて、どこを通すかが具体的に分かる。
啓恭が紙を見て、素直にうなずく。
「図、強い」
ロープの区切りができたころ、花壇の横の砂利道から足音が来た。
担任と体育の先生、そして教頭が、懐中電灯を持って立っていた。
光がロープをなぞり、杭の影が伸びる。
教頭は短く言う。
「確認します」
芽郁の喉がきゅっと鳴った。逃げたい。けれど足は動かない。動かない代わりに、指先がメモ帳を握りしめる。
体育の先生は、杭を一つ揺らした。ぐらつかない。
「よし」
次にロープの結び目を見て――眉をひそめた。
「ここ」
啓恭の結び目の一つが、ほどけかけていた。輪が緩み、端が風で揺れている。
啓恭の顔から血の気が引く。
「え、待って、俺、図の通りに――」
芽郁は言い返そうとして、言葉が喉で止まった。
教頭が言う。
「明日の許可、揺れますよ」
その一言が、石碑の横に書いた「中止」と同じ重さで胸に落ちた。
悟真が一歩前へ出た。
「すぐ直します。今、ここで」
教頭は悟真を見た。
「今、直せるのですか。暗い。寒い。焦ると事故が起きる」
瑞生がノートを閉じ、短く言った。
「焦らない。手順。確認」
優李亜が懐中電灯を持ち上げ、結び目の手元を照らした。光が、ロープの繊維を白く浮かび上がらせる。
啓恭がロープを握ったまま固まっている。
芽郁は、その手の震えを見てしまった。泣き虫の由来の日の、あの音が頭の奥で鳴る。
芽郁は、ゆっくり息を吸った。
逃げる前に、十分。
ここが、その十分だ。
芽郁が啓恭の横に立つ。
「貸して」
啓恭が目を丸くした。
「芽郁、結べるの?」
芽郁は答えず、紙の図を指でなぞった。どこを通すか。どこを締めるか。指先で追うと、頭が少しだけ整理される。
芽郁はロープを持ち替え、ゆっくり結んだ。指がかじかんで、布越しに繊維が引っかかる。焦りそうになるたびに、息を吐く。
悟真が後ろで言った。
「急がない。ここで転んだら、明日が消える」
芽郁は、その言葉に背中を支えられた気がした。
結び目が形になり、最後にきゅっと締まった。
体育の先生が手で引いて確認する。ほどけない。
先生は短く言った。
「これでいい」
啓恭が小さく息を吐いた。吐き方が、泣きそうなときのそれで、芽郁は目をそらした。代わりに、ロープの端をもう一度だけ整える。
教頭が言う。
「結び目がほどけるのは、誰かのせいではなく、手順と確認の不足です。明日は、最初にこのロープを再確認してから始めてください」
瑞生がノートに書く。
「当日(ロープ再確認、開始)」
優李亜がうなずく。
「……最初」
確認が終わり、先生たちが去ったあと、校舎裏の暗さが戻った。けれど、さっきより怖くない。
啓恭が、芽郁に小さく言った。
「……ありがとう」
芽郁はすぐに返さない。返したら、胸の熱さがこぼれそうだ。
代わりに言う。
「図、見ろ」
啓恭が笑って、鼻をすすった。
「はい。二回の男、図を読む男になります」
優李亜が小さく言う。
「……三回目」
啓恭が一瞬固まって、すぐ手で口を押さえた。芽郁が少しだけ笑う。悟真が声を出して笑う。瑞生は笑わないのに、採点表の端に小さく丸をつけた。
帰り道。校舎の窓に、薄い月が映っていた。
芽郁はその月を見て、メモ帳を開く。今日の日付の下に書いた。
「逃げなかった。結び直した」
書いて、ページの端を揃える。
明日は、校舎裏で十分だけ光る。光ったあと、拾って帰る。
消したい言葉が出ても、今度は結び直せばいい。
ほどけたところから、もう一度。
【続】
十二月二十三日。放課後の校舎裏は、日が落ちるのが早く、花壇の土が黒く見えた。雑木林の向こうで風が鳴り、枯れ葉が足元をころころ転がる。
悟真がロープの束を肩にかけて言う。
「今日、区切り作る。ここで失敗したら、明日が来ない」
啓恭が口を開きかけて、すぐ閉じた。二回の男の顔を作っている。
芽郁は軍手を手に取った。指先の布が少しだけ湿っていて、冷たい。面倒くさい、と心の中で言ってから、ポケットのメモ帳を握る。
逃げる前に、十分。
その十分が、今日も自分の背中を押す。
瑞生はノートを開き、静かに確認した。
「ロープ。杭。札。バケツの位置。消火器の位置」
優李亜が透明ファイルから地図のコピーを出し、花壇の横に立って、紙と地面を見比べる。紙の端を揃える動きが、寒さの中でも崩れない。
五人でロープを張った。杭を打つ音が、冬の空気に乾いた。
悟真が走り出しそうな勢いで杭を打って、芽郁がすぐ言う。
「走るな。手が滑る」
悟真は「……はい」と言って、足を止めた。止めた足が、ちゃんと重い。
啓恭がロープの端を持ち、結び方を見せようとした。
「俺、結び目には自信ある」
芽郁が眉を寄せる。
「その自信、根拠ある?」
啓恭は一瞬だけ詰まって、笑いかけた。笑いかけて、やめた。
「……ない」
優李亜が小さく言う。
「……見本」
優李亜はファイルから、図入りの結び方の紙を出した。体育の先生が用意してくれたものだ。図がはっきりしていて、どこを通すかが具体的に分かる。
啓恭が紙を見て、素直にうなずく。
「図、強い」
ロープの区切りができたころ、花壇の横の砂利道から足音が来た。
担任と体育の先生、そして教頭が、懐中電灯を持って立っていた。
光がロープをなぞり、杭の影が伸びる。
教頭は短く言う。
「確認します」
芽郁の喉がきゅっと鳴った。逃げたい。けれど足は動かない。動かない代わりに、指先がメモ帳を握りしめる。
体育の先生は、杭を一つ揺らした。ぐらつかない。
「よし」
次にロープの結び目を見て――眉をひそめた。
「ここ」
啓恭の結び目の一つが、ほどけかけていた。輪が緩み、端が風で揺れている。
啓恭の顔から血の気が引く。
「え、待って、俺、図の通りに――」
芽郁は言い返そうとして、言葉が喉で止まった。
教頭が言う。
「明日の許可、揺れますよ」
その一言が、石碑の横に書いた「中止」と同じ重さで胸に落ちた。
悟真が一歩前へ出た。
「すぐ直します。今、ここで」
教頭は悟真を見た。
「今、直せるのですか。暗い。寒い。焦ると事故が起きる」
瑞生がノートを閉じ、短く言った。
「焦らない。手順。確認」
優李亜が懐中電灯を持ち上げ、結び目の手元を照らした。光が、ロープの繊維を白く浮かび上がらせる。
啓恭がロープを握ったまま固まっている。
芽郁は、その手の震えを見てしまった。泣き虫の由来の日の、あの音が頭の奥で鳴る。
芽郁は、ゆっくり息を吸った。
逃げる前に、十分。
ここが、その十分だ。
芽郁が啓恭の横に立つ。
「貸して」
啓恭が目を丸くした。
「芽郁、結べるの?」
芽郁は答えず、紙の図を指でなぞった。どこを通すか。どこを締めるか。指先で追うと、頭が少しだけ整理される。
芽郁はロープを持ち替え、ゆっくり結んだ。指がかじかんで、布越しに繊維が引っかかる。焦りそうになるたびに、息を吐く。
悟真が後ろで言った。
「急がない。ここで転んだら、明日が消える」
芽郁は、その言葉に背中を支えられた気がした。
結び目が形になり、最後にきゅっと締まった。
体育の先生が手で引いて確認する。ほどけない。
先生は短く言った。
「これでいい」
啓恭が小さく息を吐いた。吐き方が、泣きそうなときのそれで、芽郁は目をそらした。代わりに、ロープの端をもう一度だけ整える。
教頭が言う。
「結び目がほどけるのは、誰かのせいではなく、手順と確認の不足です。明日は、最初にこのロープを再確認してから始めてください」
瑞生がノートに書く。
「当日(ロープ再確認、開始)」
優李亜がうなずく。
「……最初」
確認が終わり、先生たちが去ったあと、校舎裏の暗さが戻った。けれど、さっきより怖くない。
啓恭が、芽郁に小さく言った。
「……ありがとう」
芽郁はすぐに返さない。返したら、胸の熱さがこぼれそうだ。
代わりに言う。
「図、見ろ」
啓恭が笑って、鼻をすすった。
「はい。二回の男、図を読む男になります」
優李亜が小さく言う。
「……三回目」
啓恭が一瞬固まって、すぐ手で口を押さえた。芽郁が少しだけ笑う。悟真が声を出して笑う。瑞生は笑わないのに、採点表の端に小さく丸をつけた。
帰り道。校舎の窓に、薄い月が映っていた。
芽郁はその月を見て、メモ帳を開く。今日の日付の下に書いた。
「逃げなかった。結び直した」
書いて、ページの端を揃える。
明日は、校舎裏で十分だけ光る。光ったあと、拾って帰る。
消したい言葉が出ても、今度は結び直せばいい。
ほどけたところから、もう一度。
【続】


