第13話 解消法、やってみる
十二月上旬の国語の時間。窓の外は白っぽい空で、雲が低く垂れている。教室のストーブが「ごう」と鳴り、前の席の子のマフラーの端が机から垂れていた。
黒板には、先生の字で大きく書かれている。
「あなたのストレス解消法」
先生はチョークを持ち替えながら、「笑っていい内容なら、教室全体が助かるからね」と言った。前の席の子が「助かるって何」と小声で突っ込み、周りがくすくす笑う。
芽郁はその笑いが、少しだけありがたいと思った。空気が軽いと、書く手も少しだけ動く。
芽郁は、机の中のメモ帳を指先で押さえた。紙があるだけで落ち着く、と分かってしまった自分が少し腹立たしい。
啓恭は隣の列で、すでに口がむずむずしている顔をしている。悟真は鉛筆を回し、瑞生は窓の外の薄い月を一度だけ見てから、視線を前へ戻した。優李亜は、配られたプリントの角を揃えてから、ゆっくり顔を上げる。
発表が続く。
「甘いものを食べる」
「寝る」
「お風呂」
教室の空気は、わいわいしたり、すんと静かになったりを繰り返す。
啓恭の番になった。
啓恭は立ち上がり、胸を張り、やけに真面目な顔を作った。
「俺の解消法は、短い小噺です」
先生が眉を上げる前に、啓恭は続けた。
「ある日、消しゴムが落ちました――」
芽郁は思わず机の上で鉛筆を止めた。昨日、自分が落として拾った消しゴムが頭に浮かぶ。啓恭の話は、なぜかその続きみたいに聞こえる。
啓恭は調子よく言葉を転がし、最後に自分で笑ってしまった。
「……で、消しゴムは、俺の心でした!」
教室の数人が吹き出し、先生が「短いで終わりなさい」と言った。
啓恭は「はいっ」と元気よく座った。元気よく座ったのに、耳が少し赤い。
次は悟真。
悟真は立ち上がって、あっさり言う。
「走る。焦ると折れるから、一回走って戻す」
啓恭が小声で「折れるのはお前の靴底」と言い、芽郁が肘で黙らせる。
悟真は一瞬だけ笑ってから、すぐ真面目な顔に戻った。笑い方が、走り出す前の呼吸みたいに短い。
優李亜の番。
優李亜は立ち上がり、紙を見ない。小さな声で、はっきり言う。
「……資料を読む。昔の写真を見て、今と比べる」
先生が「いいね」と言い、教室の誰かが「渋い」と笑った。優李亜は笑わない。けれど、プリントの角を揃える指が、ほんの少しだけ速くなる。
芽郁の番が近づく。胸の奥が、いつもの「面倒」の形を作る。
逃げたくなる。けれど、逃げる前に――。
芽郁は立ち上がって、短く言った。
「……十分だけ、机で作業する」
誰かが「それ、勉強じゃん」と言って笑う。芽郁は「違う」と言い返しかけて、やめた。言い返すより先に、口の端だけ上げてやった。
笑ったつもりはないのに、笑った扱いになって、教室の空気がほどける。自分でほどいたのに、少し悔しい。
最後に瑞生。
瑞生が立ち上がると、教室が一瞬だけ静かになる。瑞生は前を見たまま、一言。
「月」
前のほうで誰かが「またそれか」と言いかけた。その瞬間、芽郁が先に小さく笑った。笑い方を、わざと軽くした。
「……月、いいじゃん」
誰かが「確かに」と言って、からかいが止まる。瑞生は表情を変えない。けれど、黒板の「月」の字が、さっきより少しだけ明るく見えた。
放課後。五人は教室を出て、廊下の突き当たりの窓の前で立ち止まった。外は冷えているのに、窓ガラスの内側はほんのり温かい。
悟真が言う。
「今日のやつ、実際にやってみようぜ。五分ずつでも」
啓恭が片手を上げた。
「俺の小噺は、五分だと長いから、三十秒でいく」
芽郁が即答する。
「三十秒でも長い」
啓恭が「えぇ」と言いながらも、笑っている。さっきの耳の赤さが、もう少し薄い。
校庭に出ると、冬の空気が鼻の奥をつんと刺した。悟真が「一周!」と言って走り出す。風を切る音が、短く遠ざかる。
啓恭がそれを見送って、胸を張る。
「よし。次、俺の三十秒――」
芽郁が指で制した。
「先に月。静かにする練習」
啓恭が固まる。
「俺に静かを求めるの、酷」
瑞生が短く言う。
「三十秒」
啓恭は負けた顔で、フェンスの前に立った。
五人で、空を見上げる。薄い月が、昼と夜の間に浮いている。
啓恭は最初、口を開きかけた。芽郁が横目で睨む。啓恭は口を閉じて、鼻で息を吸った。
意外と、ちゃんと三十秒、黙れた。
戻ってきた悟真が息を切らしながら笑う。
「どう? 静か、できた?」
啓恭は悔しそうに言う。
「できた。……怖いくらいに」
芽郁は「怖くない」と言いながら、少しだけ肩の力が抜けた。
次は芽郁の「十分」だ。芽郁は教室へ戻り、机に座る。タイマー代わりに腕時計を見る。
やるのは、挨拶文の配布順の一覧。名前と番号。やることが具体的だと、手が止まらない。
優李亜は隣の机で、校内新聞のコピーを読み直す。読む速度は遅い。遅いのに、見落とさない。
瑞生は、二人の机の間に立ち、何も言わずに紙の端を少しだけ揃えた。触れたのは紙だけで、人じゃないのに、場が整う。
十分が過ぎた。
芽郁はペンを置いて、息を吐いた。逃げる前の十分が、逃げなくていい十分に変わっている。
啓恭が嬉しそうに言う。
「はい! じゃあ最後、俺の三十秒!」
悟真が笑う。
「三十秒、守れよ」
啓恭は胸を叩き、短い小噺をひとつだけ言った。今回は、誰かをからかう話じゃない。自分が失敗して恥ずかしかった話だ。笑いは小さい。けれど、変に温かい。
終わるころには、五人の息が揃っていた。バラバラの解消法を試しただけなのに、歩幅が同じになっている。
瑞生が採点表を開き、静かに書いた。
「連携(上昇)」
啓恭が覗き込み、「それ、俺の三十秒の力?」と言いかける。
芽郁が先に言った。
「黙れ。上がるから」
啓恭は笑って、口を閉じた。三十秒より長く、ちゃんと閉じた。
【続】
十二月上旬の国語の時間。窓の外は白っぽい空で、雲が低く垂れている。教室のストーブが「ごう」と鳴り、前の席の子のマフラーの端が机から垂れていた。
黒板には、先生の字で大きく書かれている。
「あなたのストレス解消法」
先生はチョークを持ち替えながら、「笑っていい内容なら、教室全体が助かるからね」と言った。前の席の子が「助かるって何」と小声で突っ込み、周りがくすくす笑う。
芽郁はその笑いが、少しだけありがたいと思った。空気が軽いと、書く手も少しだけ動く。
芽郁は、机の中のメモ帳を指先で押さえた。紙があるだけで落ち着く、と分かってしまった自分が少し腹立たしい。
啓恭は隣の列で、すでに口がむずむずしている顔をしている。悟真は鉛筆を回し、瑞生は窓の外の薄い月を一度だけ見てから、視線を前へ戻した。優李亜は、配られたプリントの角を揃えてから、ゆっくり顔を上げる。
発表が続く。
「甘いものを食べる」
「寝る」
「お風呂」
教室の空気は、わいわいしたり、すんと静かになったりを繰り返す。
啓恭の番になった。
啓恭は立ち上がり、胸を張り、やけに真面目な顔を作った。
「俺の解消法は、短い小噺です」
先生が眉を上げる前に、啓恭は続けた。
「ある日、消しゴムが落ちました――」
芽郁は思わず机の上で鉛筆を止めた。昨日、自分が落として拾った消しゴムが頭に浮かぶ。啓恭の話は、なぜかその続きみたいに聞こえる。
啓恭は調子よく言葉を転がし、最後に自分で笑ってしまった。
「……で、消しゴムは、俺の心でした!」
教室の数人が吹き出し、先生が「短いで終わりなさい」と言った。
啓恭は「はいっ」と元気よく座った。元気よく座ったのに、耳が少し赤い。
次は悟真。
悟真は立ち上がって、あっさり言う。
「走る。焦ると折れるから、一回走って戻す」
啓恭が小声で「折れるのはお前の靴底」と言い、芽郁が肘で黙らせる。
悟真は一瞬だけ笑ってから、すぐ真面目な顔に戻った。笑い方が、走り出す前の呼吸みたいに短い。
優李亜の番。
優李亜は立ち上がり、紙を見ない。小さな声で、はっきり言う。
「……資料を読む。昔の写真を見て、今と比べる」
先生が「いいね」と言い、教室の誰かが「渋い」と笑った。優李亜は笑わない。けれど、プリントの角を揃える指が、ほんの少しだけ速くなる。
芽郁の番が近づく。胸の奥が、いつもの「面倒」の形を作る。
逃げたくなる。けれど、逃げる前に――。
芽郁は立ち上がって、短く言った。
「……十分だけ、机で作業する」
誰かが「それ、勉強じゃん」と言って笑う。芽郁は「違う」と言い返しかけて、やめた。言い返すより先に、口の端だけ上げてやった。
笑ったつもりはないのに、笑った扱いになって、教室の空気がほどける。自分でほどいたのに、少し悔しい。
最後に瑞生。
瑞生が立ち上がると、教室が一瞬だけ静かになる。瑞生は前を見たまま、一言。
「月」
前のほうで誰かが「またそれか」と言いかけた。その瞬間、芽郁が先に小さく笑った。笑い方を、わざと軽くした。
「……月、いいじゃん」
誰かが「確かに」と言って、からかいが止まる。瑞生は表情を変えない。けれど、黒板の「月」の字が、さっきより少しだけ明るく見えた。
放課後。五人は教室を出て、廊下の突き当たりの窓の前で立ち止まった。外は冷えているのに、窓ガラスの内側はほんのり温かい。
悟真が言う。
「今日のやつ、実際にやってみようぜ。五分ずつでも」
啓恭が片手を上げた。
「俺の小噺は、五分だと長いから、三十秒でいく」
芽郁が即答する。
「三十秒でも長い」
啓恭が「えぇ」と言いながらも、笑っている。さっきの耳の赤さが、もう少し薄い。
校庭に出ると、冬の空気が鼻の奥をつんと刺した。悟真が「一周!」と言って走り出す。風を切る音が、短く遠ざかる。
啓恭がそれを見送って、胸を張る。
「よし。次、俺の三十秒――」
芽郁が指で制した。
「先に月。静かにする練習」
啓恭が固まる。
「俺に静かを求めるの、酷」
瑞生が短く言う。
「三十秒」
啓恭は負けた顔で、フェンスの前に立った。
五人で、空を見上げる。薄い月が、昼と夜の間に浮いている。
啓恭は最初、口を開きかけた。芽郁が横目で睨む。啓恭は口を閉じて、鼻で息を吸った。
意外と、ちゃんと三十秒、黙れた。
戻ってきた悟真が息を切らしながら笑う。
「どう? 静か、できた?」
啓恭は悔しそうに言う。
「できた。……怖いくらいに」
芽郁は「怖くない」と言いながら、少しだけ肩の力が抜けた。
次は芽郁の「十分」だ。芽郁は教室へ戻り、机に座る。タイマー代わりに腕時計を見る。
やるのは、挨拶文の配布順の一覧。名前と番号。やることが具体的だと、手が止まらない。
優李亜は隣の机で、校内新聞のコピーを読み直す。読む速度は遅い。遅いのに、見落とさない。
瑞生は、二人の机の間に立ち、何も言わずに紙の端を少しだけ揃えた。触れたのは紙だけで、人じゃないのに、場が整う。
十分が過ぎた。
芽郁はペンを置いて、息を吐いた。逃げる前の十分が、逃げなくていい十分に変わっている。
啓恭が嬉しそうに言う。
「はい! じゃあ最後、俺の三十秒!」
悟真が笑う。
「三十秒、守れよ」
啓恭は胸を叩き、短い小噺をひとつだけ言った。今回は、誰かをからかう話じゃない。自分が失敗して恥ずかしかった話だ。笑いは小さい。けれど、変に温かい。
終わるころには、五人の息が揃っていた。バラバラの解消法を試しただけなのに、歩幅が同じになっている。
瑞生が採点表を開き、静かに書いた。
「連携(上昇)」
啓恭が覗き込み、「それ、俺の三十秒の力?」と言いかける。
芽郁が先に言った。
「黙れ。上がるから」
啓恭は笑って、口を閉じた。三十秒より長く、ちゃんと閉じた。
【続】


