冬の花火、上げます。――無口な瑞生と男子たちのメリークリスマス

第12話 泣き虫の由来 
 
 十二月上旬の放課後。校舎の端のほうは暖房が弱く、廊下の床がひやりとした。窓の外では、木の枝が風にこすれて乾いた音を出している。
 瑞生は、黒塗りの校内新聞を透明ファイルに入れたまま抱え、用務員室の方向へ歩いた。悟真がその隣で、歩幅を合わせる。芽郁と優李亜は少し後ろ。啓恭だけが、数歩前にいた。
 掃除用具の棚から漂うワックスの匂いが、冷たい床の感触と混ざって鼻の奥に残った。瑞生のファイルの角が、歩くたびにコツコツ当たる音を立てる。芽郁はその音に合わせて呼吸を数え、言い訳を先に作らないようにした。

 啓恭は先に行っているのに、今日は肩だけが前へ出ない。ドアの前で息を整える時間が長い。その間、悟真は踵を浮かせては下ろし、走りたい足を床に貼りつけた。優李亜はファイルの端を押さえ直し、紙がずれないように、指先だけで「落ち着け」と言っている。


 「……早いって」
 悟真が言うと、啓恭は振り返らずに言った。
 「俺、こういうの得意。先に行って、空気、温めてくる」
 芽郁が小さく言う。
 「温めるのは、余計な一言」
 啓恭は反論しない。反論しないのが、逆に不気味で、芽郁は眉をひそめた。

 用務員室の前に着くと、啓恭が立ち止まった。ドアの前で、息を一つ整える。
 いつもなら、呼び鈴を連打してもおかしくないのに、今日は手がドアノブに触れない。指先が、少しだけ震えている。
 芽郁は気づいた。気づいたのに、見ていないふりをした。自分が見たと言えば、啓恭が余計にふざけるからだ。

 瑞生が、短く言う。
 「行く」
 啓恭は「うん」とだけ返し、拳を握ってから、ノックをした。二回。やけに正しい回数だ。

 「はいよ」
 中から、少ししゃがれた声が返ってきた。ドアが開き、用務員さんが顔を出した。肩に古いタオルをかけ、手には雑巾。目は優しいのに、背中は働く人の形をしている。
 用務員さんは五人を見ると、口角だけ上げた。
 「また、何か拾ったか」
 悟真が「拾ったっていうか掘った」と言いかけて、芽郁に軽く肘で止められる。

 瑞生がファイルを開き、黒塗りの紙を見せた。
 「これ。知ってる?」
 用務員さんは紙を受け取り、黒い部分をじっと見た。しばらく黙ってから、ため息のように笑った。
 「まだ残ってたか。……残すもんだな」
 啓恭が、急に低い声で聞いた。
 「これ、誰が塗ったんですか」
 芽郁は思わず啓恭を見る。語尾がふざけていない。用務員さんも、その声に少しだけ目を細めた。

 「誰が、ってのは分からん。俺じゃない」
 用務員さんは紙を返しながら、椅子を指さした。
 「立ち話は寒い。入れ」
 用務員室は、灯油の匂いと、金属の工具の匂いがした。壁には鍵がずらりと掛かっていて、どれも形が違う。優李亜の視線が、鍵の列を上から下まで一度だけなぞる。見たのに、何も言わない。

 用務員さんはストーブの横の椅子に座り、タオルで手を拭いた。
 「校舎裏の花壇だろ。昔は、あそこは今より賑やかだった」
 悟真が身を乗り出す。
 「やっぱり、花火、やってたんですか」
 用務員さんは「やってた」とうなずいてから、すぐ続けた。
 「勝手に、だ。十二月二十四日の放課後。暗くなる前に、ちょっとだけ」
 芽郁の胸の奥が、写真の火の花みたいに小さく弾んだ。優李亜が見つけた日付と、同じ。

 啓恭が言った。
 「事故、あったんですか」
 用務員さんは首を横に振る。
 「起きなかった。起きなかったが、危なかった。火は、起きないと分からんものが多い」
 芽郁は、昨日の挨拶文の文面を思い出した。「水のバケツ二つ」「消火器」「大人が見守ります」――紙の言葉が、ここで急に現実になる。

 用務員さんは、古い引き出しを開け、紙の束を出した。中から、薄い写真が一枚。花壇の前。冬の空。小さな光。
 「これだ。俺が片づけのときに撮った。叱る前に、な」
 叱る前に。芽郁はその言い方に、喉の奥がきゅっとした。誰かが叱られる前の顔を、残したかったんだ。

 用務員さんは写真を机に置いたまま、続ける。
 「勝手に花火をしようとした子がいた。字が上手い子でな。石に、何か刻んだ」
 瑞生の目が、少しだけ鋭くなる。用務員さんは黒塗りの校内新聞を指で叩いた。
 「これの黒いとこに、元はその子の言葉があったんだろう」
 悟真が息を吸う。
 「じゃあ、石碑の削られたところも……」
 用務員さんはうなずいた。
 「ああ。叱られたあと、その子は泣いた。よく泣いた。怒鳴られて泣くんじゃない。自分で『自分が悪い』って言って、泣いた」
 啓恭の肩が、ぴくっと動いた。誰にも見られないふりをして、ストーブのほうを向いたまま固まる。

 「叱られたのは、勝手にやろうとしたからだ。誰かを驚かせたかったのか、誰かに渡したかったのかは知らん」
 用務員さんは、写真の小さな光を指でなぞる。
 「でもな。その子は、言葉まで消そうとした。石を削って、新聞の一文も……消したいと思ったやつが、いたのかもしれん」
 優李亜が、ぽつりと言う。
 「……恥ずかしい、から」
 用務員さんは少しだけ笑った。
 「そうだな。恥ずかしいってのは、意外と重い」

 啓恭が急に立ち上がった。椅子がきゅっと鳴る。
 「……それで、その子は」
 声が裏返りかけて、啓恭は咳払いでごまかした。
 「そのあと、どうなったんですか」
 用務員さんは啓恭を見て、言葉を選ぶみたいに一拍置いた。
 「大した罰はなかった。手伝いをして、謝って、終わりだ。だが、最後にその子が言った」
 用務員さんは、写真から目を離さずに言った。
 「『泣き虫でごめんなさい』ってな」

 啓恭の鼻が、すすっと鳴った。
 芽郁は驚いて顔を上げる。啓恭が涙をこぼすのは珍しくない。けれど、笑いのための涙じゃない。今のは、止めようとして止められなかった音だ。

 啓恭は、片手で目をこすりながら言った。
 「……泣くなよ。俺。泣くなよ」
 言って、すぐ自分にツッコミを入れるみたいに笑おうとして、笑いが途中で切れた。
 悟真が何か言いかけたが、言葉を飲んだ。瑞生も何も言わない。優李亜は、机の上の写真の角をそっと揃え直すだけだ。

 芽郁は、ポケットからハンカチを出した。新品でも派手でもない、いつもの白い布。
 啓恭の目の前に、黙って差し出す。
 啓恭は一瞬固まって、次の瞬間、受け取った。受け取り方が妙に丁寧で、芽郁は目をそらした。
 啓恭はハンカチを顔に押し当て、鼻を鳴らした。
 「……俺、今、用務員室で、好感度上がってる?」
 芽郁が即座に言う。
 「上がってない。静かに拭け」
 啓恭は、涙を拭きながら小さく笑った。やっと、いつもの啓恭の音が戻る。

 用務員さんが言った。
 「泣き虫でも、やることはやる。だから、今度は勝手にやるな。許可を取って、準備をして、それでも怖いなら、怖いままやれ」
 瑞生が短くうなずく。
 「……やる」
 用務員さんは瑞生を見て、「お前は静かだな」と笑った。
 瑞生は笑わない。でも、目が少しだけ柔らかくなる。

 用務員室を出ると、廊下の冷たさが戻ってきた。けれど、さっきより冷たく感じない。
 啓恭が鼻をすすりながら言った。
 「なぁ、俺さ……『泣くな』って言うの、誰かに言ってるつもりだったけど」
 芽郁が歩きながら返す。
 「自分に言ってたんでしょ」
 啓恭は一瞬黙って、次の瞬間、いつもの口調で言った。
 「……バレたか」
 悟真が笑って、啓恭の背中を軽く叩いた。
 「じゃあさ、今度は『泣いてもいい』って言ってみろよ」
 啓恭が「それは照れる」と言い、芽郁が「照れなくていい」と返す。優李亜が小さく「うん」と頷き、瑞生が月の見える窓のほうへ一度だけ視線をやった。

 芽郁は胸の内側で、用務員さんの言葉を反芻した。
 泣き虫でも、やることはやる。
 逃げたくなる気持ちは消えない。けれど、消さなくても手は動く。
 十分快いだ。怖いままでも、歩ける。

【続】