役目を終えたはずの巫女でした―――選ばれなかった時間の続き

診療所への挨拶を終え、桜は自分の部屋の前まで戻ってきた。
ここまで来てようやく一息つけるはずなのに、なんだか落ち着かない。
扉の前で少しだけ立ち止まる。
その様子を見ていたリーゼが、声をかけた。
「サクラ様」
桜ははっとして振り向く。
「落ち着かなさそうですね。よければ、少しお話ししましょうか」
桜は小さく苦笑した。
「……お願いします」
それから、ふっと息をつく。
「なんだか、まだ夢の中にいるみたいで」
リーゼも小さくうなずいた。
「そうでしょうね」
「中に入りましょうか」
桜は扉を開け、二人で部屋へ入った。
椅子に腰を下ろすと、ようやく少し落ち着く。
それでも、胸の奥がふわふわしたままだ。
「……だって、クロトさんですよ」
そう言ってから、少し視線を泳がせる。
「すごく容姿端麗で、強くて、優しいし……すごくモテるのに」
首をかしげる。
「なんで私なんだろうって」
桜は肩をすくめた。
「私、すごく普通ですし」
「そもそも全然きれいじゃないし……性格だって、特別いいわけでもないし、あげく、もう32歳だし……」
少し困ったように笑う。
「私なんかよりいい人、絶対たくさんいるのにって思ってしまって」
リーゼは少し苦笑した。
「私はサクラ様のこと、好きですよ」
桜は思わず顔を上げる。
「優しいですし、いつも気を使ってくださいますし。それに、看護師としても有能です」
「もっと自信を持っていいと思います」
桜は少し視線を落とした。
「……ありがとうございます」
「まあ、副師団長はあの容姿ですから」
「綺麗な貴族のお嬢様からのお見合い話は、相当あったみたいでしたけど」
リーゼは苦笑する。
桜は目を丸くする。
「やっぱり、そうなんですね」
「でも、むしろ、うんざりしてたと思いますよ」
リーゼは肩をすくめる。
そして、少し考えるようにしてから続ける。
「もしかしたら……サクラ様が普通だったからかもしれませんね」
「普通?」
桜が聞き返す。
「副師団長の家柄とか立場とか、まったく気にされてませんでしたよね」
「良い意味で、ですよ」
桜は少し困ったように笑う。
「それは……私、こっちの世界の人間じゃないので、よく分からなかっただけですから」
「ええ、もちろんそれもあります」
リーゼはうなずいた。
「でも、それだけではないと思いますよ」
少し間を置いてから、続ける。
「たぶん……私がサクラ様を好きな理由と、同じなんじゃないでしょうか」
桜は答えに困って、曖昧にうなずいた。
リーゼはふっと小さく笑う。
「何より」
「サクラ様がいない三年間は……」
「あの頃の副師団長、ずっと張り詰めていましたから」
桜は顔を上げる。
リーゼは軽く肩をすくめた。
「私が思うに、もうサクラ様なしではいられないんじゃないかと」
「え?」
思わず声が出る。
言われていることがわかるから、顔が熱くなる。
でも、自分がそこまでの存在だとはどうしても思えない。
リーゼは少し楽しそうに笑った。
「これは、副師団長には言わないでください」
「とにかく、こちらに戻って来たら……少し覚悟しておいた方がいいかもしれませんね」
「え、覚悟って……?」
コン、コン。
扉がノックされた。
リーゼが立ち上がり、扉へ向かう。
「失礼します」
扉を開けると、そこに立っていたのはアルトだった。
「アルト様」
リーゼが一礼する。
アルトは軽くうなずいた。
「サクラ殿、少し話をしてもいいか」
桜は思わず背筋を伸ばした。
「は、はい」
リーゼは二人を見て、すぐに状況を察した。
「では、私は外で控えております」
軽く一礼し、部屋を出る。
扉が閉まった。
――――――――――
部屋には、桜とアルトだけが残った。
アルトは桜を見て、柔らかく笑った。
それから、少し間を置いて口を開く。
「まず礼を言わせてほしい」
「え?」
桜は思わず聞き返した。
アルトは落ち着いた声で続ける。
「弟を選んでくれてありがとう」
桜は驚き、少し慌てる。
「いえ、そんな……私こそ」
言葉を探すように続けた。
「でも、私、貴族のルールとか全然分からなくて」
「ご迷惑をおかけするかもしれませんが……」
アルトは肩をすくめた。
「クロトもそういうのは疎い」
少し間を置く。
「私も気にしない」
そのあまりにもあっさりした言い方に、桜は少し驚く。
アルトは続けた。
「結婚するなら、しばらくは私の屋敷に滞在するといい」
桜は驚いたように顔を上げる。
アルトは穏やかな口調のまま説明した。
「サクラ殿は看護師なので、王宮の職員寮に住むのが普通なんだが」
桜は小さくうなずく。
「寮の方に住むんだと思ってました……」
それから、少し遠慮がちに続けた。
「あの、ご自宅に滞在するの、ご迷惑じゃないですか」
アルトは軽く首を振る。
「いや」
「サクラ殿は元巫女でもあるし、弟の伴侶になる予定でもある」
少し肩をすくめる。
「結婚するまで、私の家で預かるのが筋だろうな」
それから付け加える。
「クロトも同じ意見でね」
「もっとも、私の家でもあるが、あれにとっては実家だ」
「忙しくて、ほとんど戻ってこないが」
それから、少しだけ口元を緩める。
「サクラ殿が滞在してくれれば、クロトも無理をしてでも帰ってくるだろう」
その言葉に、桜は思わず視線を泳がせた。
……それって、私がいるから、ということだろうか。
そう考えた瞬間、じわりと顔が熱くなる。
アルトは一度言葉を区切り、穏やかに続けた。
「生活のことなら、妻のエリスに習うといい」
「結婚してから困らないように、ひと通り教えてくれる」
桜は少し考えてから顔を上げた。
「……そこまで考えてくださって、ありがとうございます」
それから、少し遠慮がちに続ける。
「生活のこと、知っておかないと困りますし」
小さく頭を下げた。
「ご迷惑じゃなければ、よろしくお願いします」
アルトは静かにうなずいた。
それから、少し考えるようにして付け加える。
「もっとも、クロトも一通りはできるが」
「そうなんですか?」
桜が驚いて顔を上げる。
アルトは少し笑った。
「小さい頃に家事は仕込まれている」
「本人はあまり言わないがな」
「それは、すごく助かります」
クロトさんって本当に何でもできるのだと改めて思う。
――私、何も出来なさすぎて……呆れられないかな、と少し不安になる。
アルトは少し口調を変える。
「サクラ殿のご家族には、突然の話になるだろう」
「きっと驚かれる」
桜は背筋を伸ばす。
アルトは穏やかな声で言った。
「一つ、伝えてほしいことがある」
「大切な娘さんを遠くへ連れていく形になる」
「まずは、兄として、そのことを詫びていると伝えてほしい」
少し間を置く。
「そして、弟は真面目で誠実なのが取り柄だ」
アルトはそこで、少し苦笑した。
「……まあ、少し融通は利かないが」
それから、言葉を結ぶ。
「どうか安心してほしい」
桜は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……はい」
それから姿勢を正す。
「よろしくお願いします」
アルトは静かにうなずいた。