前日、クロトさんが声をかけてくれた。
「明日、言語の練習に付き合いましょうか」
クロトさんがこうして私の勉強に付き合ってくれるのは、数か月ぶりだった。
クロトさんは忙しい。
特に最近は、さらに忙しくしているように見えた。
本当は、休みの日なのだと知っている。
休んだ方がいいとも分かっているのに。
それでも私は、結局誘惑に負けて「お願いします」と言ってしまった。
そして今日。
私はクロトさんが来るのを、落ち着かない気持ちで待っている。
こうして待つのは、もう何度目だろう。
今までだって、クロトさんを待つ時間はいつもドキドキして落ち着かなかった。
でも今日は、少し違う。
ドキドキとは別に、胸の中に小さなおもりが乗っているみたいな感じがする。
巫女の交代まで、もう1か月を切っている。
クロトさんに教えてもらうのは、きっとこれで最後だろう。
それに、何より。
この世界に来られなくなるかもしれないのに、どうして私はまだ言葉の練習を続けているんだろう。
元の世界に帰れば、話す機会などないのに。
それでも。
やめようとは思えなかった。
小さく息を吐く。
コンコン、と扉がノックされた。
「サクラ様、よろしいでしょうか」
その声を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。
「……はい、どうぞ」
少し慌てて返事をする。
扉が静かに開いた。
クロトさんはいつも通り落ち着いた様子で部屋に入り、軽く一礼した。
ふと顔を上げたとき、私は少しだけ違和感を覚えた。
――なんだろう。
クロトさん、少し疲れているように見える。
休んだ方がいいと改めて思う。
でも、もしそう言ってしまったら――
今日の練習はなくなってしまう気がして。
結局、何も言えなかった。
「では、今日はどこからやりましょうか」
「えっと……発音から、お願いします」
「分かりました」
クロトさんはそう言って、部屋の机の方へ視線を向けた。
私は慌てて机の上に置いていた紙を整える。
「こちらにどうぞ」
クロトさんはうなずき、机の向かい側の椅子に腰を下ろした。
こうして向かい合って座ると、毎回思う。
……近い。
立って話しているときは、こんなに近く感じないのに。
私は慌てて紙に視線を落とした。
「では、ここから読みます」
クロトさんが紙を手に取り、ゆっくりと文章を読み上げる。
私は小さく息を整えた。
――翻訳を外す。
そう意識した瞬間、さっきまで日本語に聞こえていたクロトさんの声が、ゼフィーリア語として耳に届く。
何度やっても、この感覚は少し不思議だ。
私は紙を見ながら、その音を一つずつ追いかけた。
最初に言葉を習い始めた頃より、今はずっと聞き取れる。
それでも、発音はまだ難しい。
クロトさんが読み終え、私を見る。
私は一度顔を上げてうなずき、すぐ紙へ視線を戻した。
「では、続けてください」
「……はい」
ゆっくり声に出す。
途中で、少し言葉が詰まった。
「……今の音です」
「あ、すみません」
「もう一度」
言い直す。
「……こう、ですか?」
「いえ、もう少し」
「失礼します」
クロトさんは椅子から少し身を乗り出し、私が見ている紙の文字を指さした。
「この部分です」
思ったより距離が近い。
紙の上に伸びたクロトさんの指が、妙に近く感じる。
私は慌てて紙に視線を落とした。
「この音は、舌をもう少し前に出します」
「もう一度」
「は、はい」
言い直す。
「……今のです」
クロトさんはすぐ椅子に座り直した。
「ええ。今のは正しいです」
それからしばらく、同じような練習が続いた。
私が文章を読み、クロトさんが発音を直す。
気がつくと、机の上の紙は最後の一枚になっていた。
「今日はここまでにしましょう」
クロトさんが紙をまとめる。
私も小さく息をついた。
……緊張するのに、終わると少し寂しい。
「ありがとうございました」
クロトさんはうなずき、紙を整えた。
「サクラ様」
「はい?」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「なぜ、まだ言葉の練習を続けておられるのですか」
思わず言葉に詰まった。
「……え?」
どうして、と言われても。
さっき自分でも考えていたはずなのに、うまく言葉にならない。
「……分からないんです」
「どうして続けてるのか、ちゃんと考えたことがなくて」
クロトさんはそれ以上聞かなかった。
ただ小さくうなずく。
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
少しだけ間があって、
「では」
クロトさんは紙を整え、椅子から立ち上がった。
そして机から離れ、扉の方へ歩き出した。
「あの……」
思わず声をかける。
クロトさんが足を止めて振り返った。
「どうかしましたか」
「最近お忙しそうですし、少し疲れているようにも見えて……」
「お休みの日なのに、練習に付き合っていただいて、すみません」
クロトさんは小さく首を振った。
「問題ありません」
「今日は私が提案したことですから」
そう言って軽く一礼し、扉を開けて部屋を出ていった。
閉まった扉を見ながら、ふと思う。
……やっぱり、少し疲れているように見えた。
「明日、言語の練習に付き合いましょうか」
クロトさんがこうして私の勉強に付き合ってくれるのは、数か月ぶりだった。
クロトさんは忙しい。
特に最近は、さらに忙しくしているように見えた。
本当は、休みの日なのだと知っている。
休んだ方がいいとも分かっているのに。
それでも私は、結局誘惑に負けて「お願いします」と言ってしまった。
そして今日。
私はクロトさんが来るのを、落ち着かない気持ちで待っている。
こうして待つのは、もう何度目だろう。
今までだって、クロトさんを待つ時間はいつもドキドキして落ち着かなかった。
でも今日は、少し違う。
ドキドキとは別に、胸の中に小さなおもりが乗っているみたいな感じがする。
巫女の交代まで、もう1か月を切っている。
クロトさんに教えてもらうのは、きっとこれで最後だろう。
それに、何より。
この世界に来られなくなるかもしれないのに、どうして私はまだ言葉の練習を続けているんだろう。
元の世界に帰れば、話す機会などないのに。
それでも。
やめようとは思えなかった。
小さく息を吐く。
コンコン、と扉がノックされた。
「サクラ様、よろしいでしょうか」
その声を聞いた瞬間、胸が小さく跳ねた。
「……はい、どうぞ」
少し慌てて返事をする。
扉が静かに開いた。
クロトさんはいつも通り落ち着いた様子で部屋に入り、軽く一礼した。
ふと顔を上げたとき、私は少しだけ違和感を覚えた。
――なんだろう。
クロトさん、少し疲れているように見える。
休んだ方がいいと改めて思う。
でも、もしそう言ってしまったら――
今日の練習はなくなってしまう気がして。
結局、何も言えなかった。
「では、今日はどこからやりましょうか」
「えっと……発音から、お願いします」
「分かりました」
クロトさんはそう言って、部屋の机の方へ視線を向けた。
私は慌てて机の上に置いていた紙を整える。
「こちらにどうぞ」
クロトさんはうなずき、机の向かい側の椅子に腰を下ろした。
こうして向かい合って座ると、毎回思う。
……近い。
立って話しているときは、こんなに近く感じないのに。
私は慌てて紙に視線を落とした。
「では、ここから読みます」
クロトさんが紙を手に取り、ゆっくりと文章を読み上げる。
私は小さく息を整えた。
――翻訳を外す。
そう意識した瞬間、さっきまで日本語に聞こえていたクロトさんの声が、ゼフィーリア語として耳に届く。
何度やっても、この感覚は少し不思議だ。
私は紙を見ながら、その音を一つずつ追いかけた。
最初に言葉を習い始めた頃より、今はずっと聞き取れる。
それでも、発音はまだ難しい。
クロトさんが読み終え、私を見る。
私は一度顔を上げてうなずき、すぐ紙へ視線を戻した。
「では、続けてください」
「……はい」
ゆっくり声に出す。
途中で、少し言葉が詰まった。
「……今の音です」
「あ、すみません」
「もう一度」
言い直す。
「……こう、ですか?」
「いえ、もう少し」
「失礼します」
クロトさんは椅子から少し身を乗り出し、私が見ている紙の文字を指さした。
「この部分です」
思ったより距離が近い。
紙の上に伸びたクロトさんの指が、妙に近く感じる。
私は慌てて紙に視線を落とした。
「この音は、舌をもう少し前に出します」
「もう一度」
「は、はい」
言い直す。
「……今のです」
クロトさんはすぐ椅子に座り直した。
「ええ。今のは正しいです」
それからしばらく、同じような練習が続いた。
私が文章を読み、クロトさんが発音を直す。
気がつくと、机の上の紙は最後の一枚になっていた。
「今日はここまでにしましょう」
クロトさんが紙をまとめる。
私も小さく息をついた。
……緊張するのに、終わると少し寂しい。
「ありがとうございました」
クロトさんはうなずき、紙を整えた。
「サクラ様」
「はい?」
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「なぜ、まだ言葉の練習を続けておられるのですか」
思わず言葉に詰まった。
「……え?」
どうして、と言われても。
さっき自分でも考えていたはずなのに、うまく言葉にならない。
「……分からないんです」
「どうして続けてるのか、ちゃんと考えたことがなくて」
クロトさんはそれ以上聞かなかった。
ただ小さくうなずく。
「そうですか」
それ以上は何も言わなかった。
少しだけ間があって、
「では」
クロトさんは紙を整え、椅子から立ち上がった。
そして机から離れ、扉の方へ歩き出した。
「あの……」
思わず声をかける。
クロトさんが足を止めて振り返った。
「どうかしましたか」
「最近お忙しそうですし、少し疲れているようにも見えて……」
「お休みの日なのに、練習に付き合っていただいて、すみません」
クロトさんは小さく首を振った。
「問題ありません」
「今日は私が提案したことですから」
そう言って軽く一礼し、扉を開けて部屋を出ていった。
閉まった扉を見ながら、ふと思う。
……やっぱり、少し疲れているように見えた。

